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「……あのな。何か用事ができたとか、たまたま違う場所を通って帰ったとか、そういうことは考えないのか?」
ごくごく当たり前の質問だと思うのだが、相手の女性はどういうわけかきょとんとする。
そして次に口にされた言葉が「そうだったんですか?」というものである。
回答をもらうどころか、逆に質問されてしまった。どうやらこの女性は、他人の発言を盲目的に信じてしまう癖があるらしかった。
これまでの陽介の常識に照らせば、そんな人間がこの世に存在するはずもないのだが、実際にこうして目の前に立っている。
非常に信じ難かったが、そういうタイプと考えて間違いない。困惑しつつも、陽介は「そうだよ」とぶっきらぼうに答える。
「そうだったのですか。てっきり、この公園を毎日通っていると思っていたものですから……失礼しました」
茶目っ気たっぷりの表情で、コツンと自分で自分を小突く。決して自分を可愛く見せようとやっているわけでないため、演技だと丸わかりの女性に接した時みたいな嫌悪は感じない。
そうした点は、雪村薫の長所と言えるかもしれない。陽介が同じ仕草をしようものなら、間違いなく通行人から「気持ち悪い」と評される。
「俺のことはともかく……そろそろ、一度帰宅した方がいいんじゃないか?」
陽介が公園で初めて女性を見かけてから、すでに数日が経過している。なのに雪村薫の服装は、出会った当初のままだった。
これが何を意味してるかなんて、考えるまでもない。雪村薫は数日間、一切着替えていないのだ。
加えてずっと公園に滞在しているのだとしたら、入浴もしてないことになる。年頃の女性にとっては、なかなか耐えられない事態のはずだった。
「でも……もし、あの人が来たら……」
「――こねえよっ!」
女性の分からず屋ぶりに、思わず陽介は怒鳴ってしまった。
さすがの雪村薫もこれにはビクリとし、瞳に怯えの色を宿らせる。
「いい加減に現実を認めろよ。その男と何があったかは知らないが、お前は騙されたんだ」
強い口調で告げた陽介に対して、相手女性は何か反論しようとしたが、やがて口をつぐんで顔を俯かせた。
落ち込んでいる様子の雪村薫になんて言葉をかけたらいいかわからず、やりすぎたかもしれないという後悔の念もこみあげてくる。
けれど陽介は、これでよかったんだと自分を無理やりに納得させる。そうでなければ、きっとこの女性はずっと男性を待ち続ける。そんな気がした。
「……そう……ですね……でもっ! 騙されたわけではないと思います。きっと、何か事情があって、あの方はこれなくなったんですっ」
顔を上げた雪村薫は例えようのない迫力に満ちていた。予想外の反撃のせいもあり、陽介は条件反射的に「そ、そうだな」と言ってしまった。
自分の意見が通じたと理解したのか、雪村薫はすぐに笑顔へ戻った。嬉しそうな様子で何度も頷き、今にもその場でぴょんぴょん飛び跳ねそうな勢いだった。
「わかってもらえて嬉しいです。そうすると、私がいない間にあの方が来られたら困りますね」
「相手に連絡先を教えてるなら、問題はないだろ」
すっかり陽介は、雪村薫とタメ口で会話するようになっていた。相手の雰囲気がそうさせるのか、出会って数日だというのに早くも変な遠慮がなくなっている。
良いのか悪いのかは置いておいて、これも雪村薫が持つ特性のひとつなのだろう。そうとでも考えなければ、とても説明がつかない。
「ですが、携帯電話を紛失したのであれば、私の連絡先もわからなくなってるかもしれません。メモ帳か何かに、私の名前と連絡先を書いてベンチに置いておきましょう」
「――っ! ちょ、ちょっと待て。す、少し落ち着け!」
相手の驚くべき発言に、たまらずその場でズッコけそうになる。よもや、そんな手法を考えつくとは想像もしてなかった。
というより基本的に、年頃の女性ならそんなことを考えもしない。理由なら単純明快、誰とも知らない人間に連絡先を知られてしまうからである。
しかも連絡先に書かれてるのは女性の名前なのだ。悪戯しようと考える人間がでてきても、何ら不思議はなかった。
その点も説明した上で、陽介は雪村薫に愚策を思い止まるように進言する。
だが、やはり純粋というか天然な女性には通じない。取り出したメモ帳へ連絡先を書き、それをベンチの上へ置く。風で飛ばされないよう、ご丁寧に石まで乗せている。
「これでバッチリですね」
心の底から晴れやかな顔をしながら、雪村薫が胸を張る。
そんな姿を見せられれば、さすがの陽介も「そうだな」と応じるしかなかった。
「それでは、私は一度自宅に戻ります。杜若さんもお仕事、頑張ってください」
「……ああ……」
にこやかにこの場から立ち去っていく女性の背中を見送りながら、陽介はふと考える。
――雪村薫は何の仕事をしてるのだろう。普通の会社員だとしたら、数日も会社を欠勤してることになる。
陽介が同じ真似をすれば、解雇されかねない。他人事ながらも、雪村薫が心配になった。
とはいえ陽介がやきもきしても仕方ない。自分も仕事をするべく、会社へ向かって歩き始める。
「――っと、いけね。忘れるとこだった」
誰にでもなくそう呟いた陽介は、雪村薫の姿が見えなくなってるのを確認した上で、ベンチに乗っているメモを手に取る。
あの女性がどう考えてるかはともかく、連絡先と名前が書かれた紙切れを放置していこうとは思えなかった。
ビリビリに破ったメモを近くのゴミ箱へ捨てたあと、今度こそ会社を目指すのだった。
風呂にでも入って頭をすっきりさせれば、さすがにあの女も現実に気づくだろう。それが陽介の考えだった。
どれだけ純粋無垢な存在であろうとも、いい加減に騙されてる事実を知るはずだ。そうでなければこちらが困る。
まったくの他人であれば心も痛まないのだろうが、一度関わってしまっただけに今さら無視もできない。おかげで雪村薫の存在は、ここ数日の悩みの種となった。
仕事の最中にあの女性はまだ待ってるのかなどと考えたりするため、仕事が滞り気味になっていた。
しかし今日はそれがない。久しぶりに仕事を順調に片付け、すっきりとした気分で終業時間を迎える。
会社をあとにしながら、また途中のコンビニで夕食を調達しようかなどと考える。
鼻歌まじりに公園を通り抜けようとするが、またしてもの展開にせっかくの上機嫌も消し飛ぶ。まだ懲りもせずに、例の女性がベンチへ座っていたのである。
雪村薫は陽介を見つけると、足早に近づいてくる。また挨拶でもするつもりかと思いきや、今回はどことなく雰囲気が違っていた。
「一体、どういうつもりであんなことをしたんですか!? 納得のいく説明をお願いしますっ!」
常にといってもいいぐらい穏やかな微笑を浮かべていた女性が、目を吊り上げて怒っている。声にも怒気が満ちており、見せかけでないのはすぐにわかった。
けれど陽介にはその原因がわからないため、謝るより怒るより先に首を捻るしかなかった。
「何の話をしてるんだ? よく理解できないんだが」
「とぼけないでくださいっ! 私には全部わかってるんです!」
叫ぶように言った雪村薫が、ベンチ近くにあるゴミ箱を指差した。
ゴミ箱に何かしたのかと考えて、陽介はハッとする。朝、雪村薫が作成したメモをそこへ破り捨てたのを思い出したのだ。どういう経緯かは不明だが、とにかくそれがバレたのである。
「あ、ああ……それは……そのだな……」
口ごもる陽介を見て、今度は一変して女性は悲しそうな顔になる。
「……やっぱり間違いないみたいですね。何かの間違いだろうと考えたのですが……どうしてこんなことをしたのですか?」
「どうしてって、考えたら――」
とまで言ったところで、陽介は言葉を飲み込んだ。考えてもわからない人間だからこそ、怒っていたのだ。説明するだけ無駄になる可能性が高かった。
朝の時点でそういう考えに至っていたがゆえに、陽介は相手に黙ったままメモを破り捨てたのである。
「……いや、何でもない。ただ、嫌がらせのためにやったわけじゃない」
「では、何のためですか?」
そう聞かれると、陽介は言葉に詰まった。本来なら、他人事だと放っておけばいいのだ。それなのに、気づけばこんなにも深入りしてしまっている。
雪村薫が騙される姿を見たくなかった。この理由が一番ぴったり当てはまる。
だがそう気づいた途端に、陽介は待てよと考える。それではまるで、自分が雪村薫のことを――。
そこまで考えて、慌てて否定する。これまで意識してこなかった部分へ、急にスポットライトが当たったので軽く混乱してるだけだ。強制的にそう結論づける。
「……答えられないのですか? 何か訳があったのはわかっています。けれど、説明してくださらないと理解して――」
「――もらう必要はないっ!」
思わず陽介は声を荒げてしまっていた。逆ギレとは少し違う。別に怒ってるわけではないのだ。ただ、どうにも心がザワついて、落ち着きを取り戻してくれない。
こんな気分になったのは、生まれて初めてだった。何が自分をこんな状態にしてるのかわからず、戸惑いと混乱の中で、陽介はまたも乱暴な言葉を相手へぶつける。
「お前を見てると、苛々するんだ。だから、衝動的にやっただけだ。何の意味も、考えもねえよ!」
吐き捨てるように叫んだあとで自己嫌悪に陥るも、口から出した言葉を今さら飲み込むのは不可能だった。
突如変貌した陽介にショックを受けたみたいだったが、雪村薫はすぐに両手を胸の前で組んで首を左右に振った。
「杜若さんはそんな人じゃありません。まだ知り合って間もないですけど、それぐらいならわかります」
綺麗な瞳をキラキラさせて、こちらの目を見つめてくる。心から信じてくれてるのだとわかっても、何故か今の陽介には嬉しくなかった。
ありがとうとお礼を言うどころか「いい加減にしろ!」と、これまでよりも強い口調で発した。
「知り合って間もない人間が、どういう奴か理解できるわけねえだろ。いい加減に現実を見ろよ!」
「私にはわかりますっ! それに、人を信じて何が悪いんですか!」
こういう話になると、普段の姿からは信じられないぐらい雪村薫はムキになる。そして、絶対に譲ろうとしないのだ。それが無性に陽介を苛立たせた。
別に人を信じるなと言ってるわけじゃない。ただ無差別に信じるのは危険だと伝えたいだけなのだ。なのに、どうにもうまい言葉が見つからなかった。
言葉足らずで話して誤解を招くより、何も言わない方がいいのかもしれない。そう考えて、陽介は雪村薫との会話を中断する。
「……そうだな。きっと、お前の方が正しいんだろう。けど、俺には理解できない。そんな純粋な人間じゃないからな」
苦笑しながら告げたあとで、陽介は雪村薫に背を向ける。
女性は何かを言いたそうだったが、話しかけるなという陽介のオーラでも感じとったのか、声をかけてきたりはしなかった。
もう雪村薫とは会うべきではないのかもしれない。駅へと続く道を歩きながら、陽介はそんなことを考えていた。