32
――その瞬間。杜若薫こと旧姓雪村薫は、何が起こったのか理解しきれてなかった。
決死の思いで助けてくれた夫と、強く握っていたはずの手が離れたのがわずか数秒前。それなのに、愛する陽介さんの姿はすでに見えなくなっている。
増水した川と、勢いを弱めない雨がドドドと轟音を響かせる中、かろうじて残っている大地で薫はひとり呆然としていた。
何があっても一緒にいる。そう誓ったはずなのに、何よりも大事な半身はもういない。中も見えない濁流に、飲み込まれてしまった。
「……陽介……さん……陽介さんっ! ごほっ……うっ……がはっ!」
川の水と一緒に飲み込んでいたらしく、喉の奥から泥の塊が出てくる。
びしょ濡れの服が、薫から体力と体温を奪う。どこかで暖まろうにも、住処として使っていたテントは周囲に見当たらない。薫自身も相当流されていた。
真っ暗闇の世界は恐怖だけを与え、ここがどこかもわからなくなるぐらい薫はパニックになる。
まして、もっとも頼りになるべき男性は、もう側にいてくれない。嗚咽を漏らしては、また泥を吐き出す。そんなことを何回か繰り返した。
薫の涙に呼応するかのように、川は雨を吸収してどんどん陣地を拡大している。程なく、自分が立っている場所も奪い取られるのは明らかだった。
「陽介さん……今、助けに行きます……」
今日まで自分を信じ、共に生きてきてくれた人を見捨てるなんてできない。薫は意を決して、増水している川へ飛び込もうとする。
仮に助けられなかったとしても、どこまでも一緒に行きたい。それが薫の願いだった。
だがいざ足を動かそうとしたその瞬間に、胎児が内側からお腹を蹴飛ばした。
まるで命を粗末にするなと叱責されてるみたいで、その瞬間に薫は我に返った。
姿が見えなくなる直前に、夫から言われた台詞が頭をよぎる。
――俺たちの子供を……どうか、頼む……。陽介は確かにそう言った。
自分が限界だとわかっているのに、どうなるか理解しているのに、薫を少しでも安心させようとできる限り精一杯の笑顔を作っていた。
そんな夫の想いを、自分が無駄にしていいのか。自問自答した末に、薫は荒れ狂う川に背を向ける。
お腹にいる赤ちゃんを、道連れにしては駄目だ。それに、夫の後を追うのはいつでもできる。
相変わらず両目から涙は溢れ放題だったが、懸命に前を向いて薫は歩く。濡れた服が鉛のように重くても、一歩また一歩と着実に進む。それは紛れもなく、生への執念だった。
――見ててください、陽介さん。私たちの子供だけは、絶対に守ってみせます。歯を食いしばり、少しでも高い所を目指す。なんとしても、川の水から逃れる必要があった。
薫が諦めれば、同時に赤ちゃんの命も失われる。とにかく必死だった。
「――あっ……ぐうっ!」
強烈な痛みが、全身を走り抜ける。土手を途中まで登ったところで、身動きがとれなくなった。
陽介がテントへ帰って来る前に、すでに陣痛は始まっていた。こんな状況だというのに、赤ちゃんが外へ出たがってるのである。
「わかったわ……お母さん……頑張るから……貴方も……頑張って……!」
まだ見ぬ我が子へ語りかけたあと、周囲の様子も気にせず下着を脱ぐと、薫は息み始める。
どうなるかはわからないが、無理して歩き続けるよりもその方がいいと自己判断した。
「くあうっ! うっ……んく……!」
張り裂けそうな苦痛で挫けそうになるも、赤ちゃんも頑張っているのだからと薫は自分を鼓舞する。
この場に最愛の夫がいてくれたら、どんなに心強いだろう。星ひとつ見えない闇空の下、そんなことばかり考える。
――俺なら、ここにいるだろ。しっかりしろよ。
「……陽介……さん……?」
励ましの声が聞こえたような気がして、慌てて周囲へ視線を飛ばすも、人影はどこにも見当たらなかった。
けれど、幻でも嬉しかった。不安な心に陽介の声が染み込んで、勇気に変えてくれる。
もう大丈夫。心を強く持って、薫は人生最大の難関に挑み続ける。
「はあっ……はっ……うあっ!」
ひとりぼっちではない。私には陽介さんがついてくれている。薫は常に自分へそう言い聞かせながら、歯を食いしばって新たな命の誕生を願った。
そして、降りしきる雨の音にも負けない泣き声が、分厚い雲で覆われた夜空へ響き渡った。
――ありがとうございます。それが、薫の頭へ最初に浮かんできた言葉だった。
謝礼を述べる明確な相手がいたわけではないけれど、心の中がその言葉で溢れていた。
赤ちゃん……私と陽介さんの……。感慨深いものがあるけれど、感動してばかりはいられなかった。
赤子とのへその緒は繋がったままであり、身体へかけてやるべき衣服もない。この状態は明らかに危険である。
雨は未だに降り続いており、どれだけ薫が守ろうとしても赤ちゃんの肌へ襲いかかる。
普段は大事な水が、今日この時ばかりは何よりも恨めしかった。
どうして晴れてくれないのかと天候を責めたところで、薫に考慮して従ってくれるとは考えにくい。やはり、自分でどうにかするしかなかった。
だが異常とも呼べるこの状況下では、冷静に頭を回転させるのなんて不可能である。
考えれば考えるほどに混乱を招き、次第に何がなんだかわからなくなる。陥った悪循環の中でパニックになる薫を尻目に、雨はまだ許してやらないとばかりに降り続いている。
「ごほっ……うっ……かはっ……!」
なんとかまだ生きてるとはいえ、川と土の混じった濁流を飲み、長時間薄着で雨に晒されている。
体力は限界寸前で、頭がボーっとする。身体も気だるく、どうも熱っぽい。だけれど、弱音を吐いている場合ではなかった。
ここで挫けたりなんかしたら、決死の思いで助けてくれた愛する夫に顔向けできない。震える足へ動いてと祈り、なんとか薫は目の前にある土手を登ろうとする。
この場に留まっていたところで、発見されるのはだいぶ遅くなる。それなら、わずかな可能性にかけて動こうと考えた。
薫の肉体的に無謀な判断だったとしても、両腕の中で寒さに震えてる命をどうしても守りたかった。
「うぐっ……はあ……だ、大丈夫よ……貴方は……私が……守るからね……」
本当ならトントンと土手を駆け上がりたかったが、ガクつく両足ではこの場から転がり落ちないようにするだけで精一杯だった。
それならばと、即座に薫は立っての移動を諦める。地面に這いつくばる恰好になり、左手で赤ちゃんを守りながら、右手と両足で少しずつ、けれど着実に土手を上がる。
土手の上は確か大きな道路があったはずで、そこならばまだ人が通る可能性も考えられる。薫と赤ちゃんに残された最後のチャンスだった。
「ごめ……んね……。もう……少し……だけ、我慢……して……ね……」
あまり泣かなくなってしまった赤ちゃんに話しかけながら、必死に手足を動かした。
あと少し……もうちょっと……。闇の中で、視界に映る景色の向こう側を目指して必死にもがいた。
「はあ……ぐっ……んんん……!」
土手の上にようやく手が届き、わずかな安堵から薫は雨が絶え間なく落ちてくる空を見上げた。
この状況では叶うはずもないが、できるなら大好きな満月を、闇を闇でなくしてくれる美しい輝きが見たかった。
何度も陽介と一緒に見て、綺麗だねと言っては、空を見つめながら手を繋いだ。そんな想い出ばかりが、薫の頭の中を駆け巡る。
段々と目が霞んできて、とても眠い。少しでも気を抜けば、瞼がピッタリくっついてしまいそうだった。
弱気がじくじくと心に湧いてきて、薫から気力を奪おうとする。けれどそんな状態でも、決して諦めなかった。
なんとしても、この子だけは助けてあげたい。薫の願いは、もはやそれだけだった。
そんな時、雨音に混じって、誰かの足音が聞こえたような気がした。
大きく目を見開いた薫は、全神経を集中して暗闇の中に伸びる一本の道を見つめる。
すると、確かにこちらへ向かってくる人影が見えた。この状況下では、それがどのような人物か見極めてる余裕はなかった。
それこそ、信じるしかない。信念として抱き続けた言葉を胸に、薫は残っていた体力をすべて使用する。
足元しか見えないため、性別すらもわからないが、とにかく早足で歩き去ろうとする人物へ祈りを込めて手を伸ばした。
「――っ!」
驚いて身をすくめたその人物が、慌てて自分の足を見た。その瞬間に、薫と目が合った。
暗くてよくわからないが、まだ若い女性みたいだった。この人を信じて、すべてを託そう。決意した薫は、必死の思いで口を開いた。
「……この子を……お願い……します……」
「え? な、何ですか」
もぞもぞと手を動かし、懐で懸命に守っていた自らの半身を初対面の女性に預ける。
少なくとも、このまま自分と一緒にいるよりはその方がいい。最後に一度だけ赤ちゃんを見て、薫は小さく微笑んだ。
「……暗闇でも……明るく……輝く……月のように……どうか……生きて……」
何か言葉をかけてあげたい。その思いだけが薫の口を動かしていた。
けれど、そこまでが限界だった。赤ちゃんを預けれた安心感からか、急激に肉体から力が抜け落ちる。
眠さはさらに加速し、やがて視界のすべてが暗闇に包まれた。
「――!? だ、大丈夫ですか!?」
誰かが遠くで叫んでるような声を聞きながら、薫はゆっくりと自らの意識を放棄していった。
次に薫が目を覚ました時、不思議なことに見知らぬ場所を漂っていた。
ここはどこだろうと思って左右を見渡すと、どうも病院内みたいだった。
――よく頑張ったな。
突然に聞こえた声に振り向くと、そこには薫がよく知ってる笑顔の男性がいた。
――陽介さん。ここは……?
尋ねた薫に対して、陽介は微笑んだまま首を左右に振るだけだった。
そして無言で、下を見るように指示してくる。従った薫が見たのは、ベッドの上で横たわっている自分自身の姿だった。
仰向けになったまま瞼が閉じられており、ピクリとも動かない。自分で自分を見ている。なんとも不思議な光景に、頭が混乱する。
だが直前の自分の姿を思い出し、なんとなくではあるものの、状況を把握できた。
ベッドの上にいる薫の側へ集まっていた医師や看護婦たちが、沈痛な面持ちをしながら場を離れる。
――ちょっとだけ……見に行かないか。
陽介の言葉に頷き、薫は愛する夫の背中を追いかける。辿りついた部屋には、学生らしき若い女性と男性がいた。
「よろしければ、抱いてみますか」
「い、いいんですか……?」
三十代前半程度の看護婦が、自らの腕に抱いた赤ん坊を若い女性へ預けた。
だあだあと赤ちゃんは喜び、小さい腕を懸命に動かそうとしてるように見えた。
どこかで見た顔、どこかで聞いた声。決して忘れるわけがなかった。
――よく頑張ったな。
先ほどと同じ言葉を、陽介が繰り返した。ここで薫はすべてを理解する。
――それじゃ……行くか。
差し出された愛する夫の手を、薫はしっかりと握る。
――はい。一緒に行きましょう。
手を繋いだまま歩きだす薫と陽介の背中を、最後まで見送ってくれたのは、小さな小さな笑顔だった。
始まりへ続く軌跡はいかがだったでしょうか。
ネタバレになってしまいますので、詳しくは書きませんが、私が投稿した他の小説へ繋がるお話になっています。
そのために悲しい結末になってしまいました。なんとかしようと思っても、最後みたいな展開にするのがやっとでした(汗
なにはともあれ、最後までお読みいただいてありがとうございました。
また別の作品でお会いできれば幸いです。