31
テントから外へ出ると、一瞬にして陽介はズブ濡れになった。
近年、ゲリラ豪雨という言葉をよく聞くようになっていたが、現状がまさにそれだった。
バケツをひっくり返したという形容ですら生易しい強烈な雨――というより、もはや嵐と表現するべきだった。
台風ほど風は強くないが、とにかく雨が凄まじい。前方にある川が、瞬く間に増水していた。
――このままでは危険だ。背筋が寒くなると同時に、陽介は直感でそう理解した。
行く当てがなかろうと、急いでテントからは避難する必要がある。
せっかく買い揃えたものは勿体なかったが、命に比べればどれも価値は下がる。
とにかく川から離れた場所へ行こうと、陽介はテント内へ戻る。
「もしかして……かなり危険な状況なのですか?」
テントの外から聞こえてくる雨音と、陽介の表情で妻の薫は大体の状況を察してくれた。
本当はゆっくりリラックスしていたいのだろうが、こちらの意図を察して立ち上がろうとする。
「すまない……けど、本当にヤバいんだ。このままだと洪水になる」
薫の上半身を起こすのを手伝いながら、なんとか持っていけるものはないかと必死で探した。
ほとんど中身が入ってない財布は不要だが、身体を温めるシーツ程度はあった方がいい。パニックに等しい状況下でも、生き残るために陽介は必死で頭を働かせる。
「わ、私なら大丈夫です。それより……急ぎましょう」
「そうだな。よし、外へ――」
――出るぞ。そう言おうとした瞬間だった。
未だかつて経験したことのない衝撃により、身体の感覚がなくなった。
――何だ。何が起こってる!? どうなってんだ。薫……? 薫っ!!
「――ぶはァ!!」
危険水域を突破した川の水が、とうとう溢れて橋の下へ溢れかえったのだ。他の浮浪者とはお近づきにならないため、離れた場所にテントを設置したのが、この時ばかりは仇になった。
増水した川は極悪なまでの破壊力で、とても人間の力で太刀打ちできるようなレベルでなかった。
荒れ放題の水面からなんとか顔を出した陽介は、慌てて最愛のパートナーを探す。姿は見えないものの、右手にはしっかりとした感触がある。
テントから出る前に、手を繋いでいたのが幸いした。
あれだけの衝撃だったので、離れてしまってもおかしくなかったが、陽介と薫の結びつきは凄まじい水流でさえ壊せなかった。
嬉しく思うと同時に、なんともしても助けなければと焦りが募る。
「薫……かおる――っ!!!」
「げほっ……ごほっ……うう……よ、陽介さん……」
夜の闇の中でもなんとかわかるぐらい側に、愛しい女性の顔が現れた。
なんとか無事だったのは確認できたが、陽介たちの身体は常に流されている。
まだ全身を覆うほどの水位ではないというのに、とても抗えない。完全に水の力を甘く見ていた。
「あ、愛してます……心から……」
口元へやってくる水に悪戦苦闘しながら、水中で薫が陽介の手をギュッと握り締めた。
「……最後に……それだけ……伝えたかった……」
「バカヤロウ! 諦めるな! 薫のお腹の中には、俺たちの子供がいるんだぞ!!」
俺に叱責されて、思い出したかのように水の中へ沈んでいる腹部を妻が見る。
「赤ちゃん……私たちの……」
「そうだっ! だから諦めないでくれ! 俺が絶対に助けてみせる!!」
川から溢れ出した濁流に身体をさらわれてはいるが、まだ川本体まで引っ張られたわけではない。なんとかするなら、今をおいて他になかった。
完全に川までいってしまうと、もはや人間の力ではどうしようもなくなる。その前に、なんとか薫を脱出させる必要があった。
「ちくしょう……! 動け……! 頑張れよ、俺の体ァ!!!」
体内に残っていたすべての力を使い、愛妻の身体を水が少ない方へ移動させる。
よく火事場の馬鹿力という言葉が使われるが、その力を今現在、誰よりも欲してるのが他ならぬ陽介だった。
川の水は波のようの荒れ狂い、本来の陣地を大きくはみ出して、本来は大地であるところまで飲み込もうとする。
並大抵の力では敵わず、抗うためには相当なパワーが必要だった。
この中で自分はもとより、愛する妻を救おうとしている。
どう考えても無理だ。陽介は歯を食いしばりながら、すぐにその結論へ至った。となれば、やるべきことはひとつである。
二人同時に助かるのが無理なら、ひとりだけ助ければいい。決意した陽介は、妻の手を握っている腕に渾身の力を込める。
「ぐうう……うおお――ッ!!!」
雄叫びに近い声を発し、ひたすら水が浸食してない地だけを目指して腕を伸ばす。妻が絶望で気を失わないよう常に気遣いながら、愚直に薫の無事だけを願った。
そんな陽介の祈りが通じたのか、水の流れに押されながらもなんとかまだ無事な場所へ近づけた。
「薫っ! 腕を伸ばせ! なんとか地面を掴むんだ!」
「わ、わかりました。う……うう……!」
陽介の必死の呼びかけに応じ、不自由な水の中で妻の薫が懸命に手を動かす。そしてなんとか目的の地面に到着する。
腕をついて地面に上半身を固定したあと、最後の力を振り絞って陽介は薫の下半身を川岸へ押し上げた。
「ぷはっ……あっ……はあ……がはっ!」
だいぶ川の水を飲み込んでしまったみたいだが、かろうじて無事な妻の姿を見て陽介はホッとする。
同時にすべての力を使い果たしたみたいに、身体がガクンとした。これ以上立っているのも難しい。どうやら、ここまでのようだった。
「よ、陽介さんも……は、早く……うぐっ……はあっ……」
相当苦しそうにも関わらず、なんとか陽介を助けようと握ったままの手を薫は一生懸命引っ張ろうとする。
だが陽介は相手へ従わず、自らの意思で妻と繋がっている手を放そうとした。
「な、何をするつもりですか!? は、早く上がってきてくださいっ!」
「……直にそこも安全じゃなくなる。俺のことはいいから、行ってくれ……」
笑って安心させてあげたいのだけれど、うまく表情を作れない。寒さで手どころか、身体全体が凍りそうなぐらいだった。
「嫌ですっ! そんなこと、できるはずありませんっ!」
「……はは……顔……ぐしゃぐしゃだな……」
雨のせいなのか、涙のせいなのか。それとも両者が混ざりあってるのか。必死に泣き叫ぶ妻の顔が、脳裏へ焼きつく。これだけ持って行ければ十分だ。陽介は心から感謝した。
「楽しかったよ……ありがとう……」
陽介のすぐ側に、大きな水の塊が迫っている。ここまで耐えれていたのが奇跡であり、そう何度も期待できるものではない。望む、望まざるに関わらず覚悟を決めるしかなかった。
「陽介さん……陽介さんっ!」
「俺たちの子供を……どうか、頼む……」
それが陽介の最後の言葉となる。側面からぶつかってきた水流に身体ごともっていかれ、一気に意識が暗闇の底へと沈んでいった。
目の前が真っ暗になり、音も聞こえなくなる。ああ……これで終わりか。そう思った陽介の耳に、誰かの泣いている声が聞こえてきた。
何度も何度も、夢の中に現れた光景だった。そうか、これは薫の泣き声だったんだな。結論付けようとしたが、若干の違和感が残る。
確かに妻の声に似ているが、どことなく違う。それに、声に幼さがあるのだ。薫でないとしたら、一体誰なんだ。ふわふわする意識の中で、陽介は声の主を探した。
真っ暗闇の世界の中で見つけたのは、小さなひとりの少女だった。両手を目に当てて、悲しそうに、そして寂しそうに泣いている。
どれだけ呼びかけようとも、決して姿が見えず、常に不安と苛つきを覚えた。人の夢の中で泣き声を響かせていた正体不明の人物が、何故かこの瞬間に姿を現した。
歩いてる感覚はないのに、どんどんと陽介の視界の中で少女の姿が大きくなってる。
近づいてるのだとわかると、思わず声をかけてしまった。
「……どうして、泣いてるんだ……」
自分でも吃驚するくらい、陽介の声は穏やかだった。ここは現実の世界なのか、それとも――。何もわからないが、とにかく目の前にはひとりの少女がいた。
「――っ!? か、薫……? い、いや、違うな……」
顔を上げた少女を見て、率直に陽介は驚いた。よく見れば違うものの、その顔立ちがあまりに妻とそっくりだった。
「……皆がね、仲良くしてくれないの。私は皆と仲良くしたいのに……」
少し大きめで綺麗な瞳を涙で潤ませながら、少女が陽介に尋ねてきた。
初対面なはずなのに、他人のような感じがまったくしなかった。むしろ、自分の半身みたいに思える。
真っ暗闇の世界といい、不思議なこともあるものだ。そう思いながら、陽介は目の前の少女に打ち明けられた悩みへの回答を探した。
「ママにも心配かけたくないし……どうすればいいのかな……」
「仲良くしたいなら、自分から話しかけてみたらどうだ」
他人の相談に乗るなど、以前の陽介からは考えられなかった。
薫と出会って、愛し合うようになった経緯ですら奇跡みたいなものなのに、どういうわけかこの少女を放っておけない陽介がいた。
まるで相談に乗ってあげるのが当然みたいに思え、自然と優しい口調になる。
「うん……でも、大丈夫かな……」
「それは、わからない。でも……自分を、そして人を信じてみるのもいいんじゃないか」
「信じる?」
陽介の言葉に、名前も知らない少女が小首を傾げる。
まるで小動物みたいな可愛い仕草に、頬が勝手に緩む。娘がいたらこんな感じなのだろうか。ふと陽介は、そんなことを思った。
「奇麗事かもしれないけど、誰かを信じることで道が開けるかもしれない。確かにこの世界には悪い人もいる。けれど、それ以上に良い人もいるんだ」
「……ふ~ん。よくわかんないや……でも、おじちゃんは、きっといい人だね」
「俺が? ハハ、そうかな。それこそ、よくわからないよ……そうであれば、嬉しいけどな」
不思議なことに、この少女と話してるだけで心がとても温かくなった。
少女が誰かなんてこともどうでもよく、自分がどうしてこんな暗闇の世界にいるのかさえ、気にならなくなる。
「今は辛いだけかもしれないけれど、そういう時はよく目を凝らして周りを見てみればいい。常に見える景色が変わってることに気づける」
年端も行かない少女には難しすぎるとわかっていたが、これを伝えるのが陽介の役目のような気がした。
「自分で思ってるよりも世界は広い。必ずどこかに居場所はあるものさ」
やっぱりわからないやと呟く少女の顔を見て、陽介はどこか微笑ましくなった。
「今はそれでいい。けど、覚えていてくれ。人生は辛いことばかりじゃないんだ。仮に……結末がどんなものであったとしてもね」
あれだけの目にあっても、陽介は自分の人生に後悔してなかった。唯一の心残りがあったはずだが、それもいつの間にか消えている。
「うん、わかった。私も自分やお友達を信じて、頑張ってみるね」
少女の顔に笑顔が戻ったのを見て、陽介も笑みを浮かべる。
すると何かに引っ張られるみたいに、少女の姿が遠ざかり始めた。
ああ、これで終わりなのか。本能的に察した陽介は、少女に「バイバイ」とただひと言だけ告げた。
「バイバイ。おじちゃん、どうもありがとう」
にこにこ笑顔の少女に手を振られながら、陽介は再び孤独な闇の世界へ戻っていく。けれど、もう寂しさや不安は感じなかった。
周囲が完全な暗闇に閉ざされても、もう少女の泣き声は聞こえない。良かった……心から安堵をしながら、瞼を閉じようとする陽介の脳裏にたった一瞬だけひとつの映像が浮かんできた。
それは少女が、見知らぬ大人の男女と手を繋いでいるシーンだった。名前も知らない少女はとても楽しそうに笑っている。
陽介がよく知っている最愛の女性に似た笑顔で……。




