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自分がなくしたと言い張る妻に考慮して被害届けは出さず、気持ちを切り替えて陽介は新しい仕事探しに奔走した。
けれど見つからない挙句に、どこからも煙たがられる始末だった。
理由は単純明快。小さな町だけに夜逃げした工場は有名で、陽介がその従業員だと知れ渡っている。
社長の行方も未だ掴めておらず、少しでもヒントを得るために借金取りの一味が常に陽介を監視している。
自宅にいても、外から常に交代交代で見張られている。そんな借金取りたちが、勤務時間だからといって容赦してくれるはずもなかった。
いらない問題に巻き込まれてはごめんだと、就職を必死に頼み込んでもすげなく断られる。
やがて陽介が自己破産者だというのも知れ渡り、ますます小さな田舎町の住人たちの目は厳しくなった。
どこからどう漏れたのかはわからないが、陽介の立場は苦しくなる一方だった。
収入も得られず、わずかな貯金も失った。手持ちの現金などないも同然で、ボロアパートの家賃すら払えない。必然的に陽介と薫は、住処を追い出される形になる。
そんな時に近寄ってきたのが、例の借金取りたちだった。陽介を自己破産者だと知っていながら、お金を都合してやると申し出てきた。
人を信じるのがモットーの妻は善意を素直に喜んだが、陽介は丁重に断った。
金を借りたが最後、骨までしゃぶりつくされるのはわかっていた。陽介がもう一度自己破産するのは、不可能だ。だとすれば借金を返済する方歩はひとつしかなかった。
出産を終えた妻の薫が、文字どおり自分の身体を使ってお金を稼ぐのだ。かなり美人な部類に入るため、これなら回収できると借金取りたちは判断したのである。
陽介もできれば善意だと信じて、借金をしたかった。そうすれば、病院で妻を出産させてあげられる。
だがどうしてもできなかった。傷つき、今にも破れそうな心は逃げることを選択した。
妻は借金を断った陽介を責めず、理由も一切聞かなかった。ただ無言で、隣に寄り添っていてくれた。
時折お腹を擦りながら、目が合うと優しく微笑んでくれた。
金もなければ、住むところもない。陽介と薫は闇雲に歩き続けた。
妻の体調を気遣いながら、とにかく歩いた。電車に乗るお金も節約して、持っている現金はすべて食費と宿泊費に使った。
比較的安い旅館に素泊まりしたりなどを最初はしていたが、それも厳しくなるとカラオケボックスなどでひと晩を過ごした。
歩きながら日雇いの仕事がないか探し、運良く見つければ懸命に働いて日銭を稼いだ。そうして、ギリギリの毎日を送る。
最愛の女性を守るどころか、これでは苦しめてるも同然だ。一度別れを切り出そうかと思ったが、こういう時だけ鋭い妻は雰囲気で陽介の意図を察して、話す前に強い勢いで首を左右に振った。
「例えどんなことになっても、私は陽介さんと一緒がいいの」
その言葉が何よりの救いになった。けれど、どれだけ足掻いても現状を打破することはできなかった。
やがて路銀もつき、辿りついた田舎町で陽介と薫は野宿をするようになった。いわゆるホームレスである。
なかなか住み心地がいいのか、結構な人数のホームレスがいた。妻も若い女性なので、ある程度そういった方々とは距離をとった。
そうすれば変な危険に怯える心配もないし、仲良くなって辛い思いをすることもない。陽介の心はすっかり打ちのめされていた。
川沿いの橋の下にテントを張り、陽介がその日の仕事を探しに行ってる間は、妻の薫がひとりそこで留守番をする。
本人も一緒に行きたがっていたが、さすがに身重の女性を連れてこれ以上歩き回るのは気がひけた。
なんとか仕事が見つかれば日銭で、シーツなどを調達した。少しでも妻がゆっくり眠れるようにするためだった。
それでも保温効果に優れてるとはいえず、日によっては何も食べれない時もあった。
明らかに母体へ好影響を及ぼしてるはずがなく、お腹の子供の安否さえ不安になる。
自分には何もできないのか。妻が眠ったあとで、テントの外へ出て陽介は何度も泣いた。
だが薫はどんなに辛くとも、陽介を責めたりすることもなければ、何かを要求してきたりもしなかった。
唯一の例外だったのは、どういう事態になろうとも最後まで一緒にいたいという願いだけだった。
なんともしても妻と子供を守らなければ。決意を新たにして、陽介は日が昇る前から走り回った。
地べたを這いつくばっても仕事が欲しいと叫んだ。なんとかお金を手にできれば、自分のことは二の次で妻へ栄養の高い食料を手渡した。
自分はもう食べてきたと、何度も繰り返して安心させようとするが、それでも薫は疑いの目を向けてくる。
最後には陽介の言うとおりに食べてくれたので、最近ではようやく納得してくれたのかとホッとし始めていた。
だがふと目を覚ましたある日の夜、陽介の背中で「ごめんなさい」と謝りながら泣いている妻の声を聞いた。
一張羅となったシャツが涙に濡れる感触を受け止めながら、陽介も静かに涙を流した。
足掻いても、もがいても、陽介の走る道の先は暗闇のままだった。
まるで今の空みたいだな。帰り道の途中で分厚い雲に支配された天を見上げながら、心の中で呟いた。
結局今日は仕事が見つからず、収入もない。ここ数日はずっとこんな感じだ。おかげで手持ちの現金も底を尽きかけている。
いつまでこんな生活が続くのか。助けを求めても、手を差し伸べてくれる人間は誰ひとりとしていなかった。
やはり人助けは自己満足にすぎないのか。お金を貸しても返ってこず、逆に下心なしで貸してくれる人間はいない。これが世の中なのかと思えば、なんだか情けなくなる。
正直に白状すれば、陽介に誰かを信じる気力はもう残ってない。ただ、常に隣で寄り添ってくれている妻の温もりがあればこそ、こんな状況でもまだ歯を食いしばれた。
「十回騙されても……十一回目で良いことがあればいいって言ったのは俺だろ。しっかりしろよ」
きっと今の陽介は、とてつもなく情けない顔をしてるだろう。そんな姿を、最愛の妻へ見せるわけにはいかなかった。
そうすれば余計な心配を与えてしまい、出産にも影響するかもしれない。ギリギリの毎日を送ってるうちに、薫はいつ出産してもおかしくない状態になっていた。
本当ならずっとついていてやりたかったが、陽介には何より仕事を見つけるという役目があった。
だが実態は正社員や契約社員はもとより、アルバイトも見つからない。理由はひとつ、陽介に住所がないからである。
居住地は橋の下なんて言おうものなら、それだけで胡散臭そうに見られて店から追い出される。誰でも可能と謳っておきながら、実際には人を選んでいる。これが実態だった。
結局はその日暮らしをするしかなくなり、段々と心が折れていく。そして仕事を探すのを諦め、ホームレスになる。
そこまで辿り着くと、元の道へ戻るのは不可能に近くなる。もっとも、最近では自由を求めて、あえてホームレスになるケースもあるみたいだった。
確かに煩わしい人間関係などに悩まされる心配はなくなる。仮に働いていたとしても、いつ首を切られるかわからなければ、どう考えても心身にいいはずがなかった。
解放されたい一心で別世界に安住を求めた人間を、果たして堕落と呼べるのか。陽介には判断できないが、ただひとつわかってるのは、自分のパターンは間違いなく堕落であるということだった。
「……雨か。とうとう降ってきたな」
自宅となっているテントへ到着すると、すぐに横になっていた愛妻が上半身を起こした。
額や頬に玉のような汗が浮かんでおり、普段と状態が違うのは一目瞭然だった。
心配になった陽介は、すぐに薫へ「どうした」と尋ねる。
「大丈夫です……どうやら……産まれそう……みたいです……」
途切れ途切れに話す薫は笑顔を浮かべているものの、やはり苦しそうにしている。
一般に言うところの陣痛が始まってるのだろう。こうなってくると、男はただの役立たずも同然になる。
子作りは夫婦の共同作業だが、こと出産に関しては女性がメインになる。男性に手伝えることなど、高が知れていた。
それでも何もできないよりはマシと、時間がある時は本屋で出産に関する書籍を立ち読みしたりした。
本で得ただけの知識だったが、まったく知らないのに比べれば天と地ほどの差がある。
妻から話を聞いて、どんな状況になってるのか推測する。
「心配しないでください……私……必ず陽介さんの子供を無事に産んでみせますから……」
「何言ってんだよ。薫も無事じゃないと意味がないだろ。母子ともに健康でこそ、俺も嬉しいんだ」
励ますために声をかけながら、自分にもっと甲斐性があったらと陽介は思わずにいられなかった。
たかが騙された程度で、ここまでの惨状を招いてしまった。それはすべて、陽介の責任だと考えていた。
だが今さら悔やんだところで、決して時計の針は戻らない。どれだけ苦しかろうと、懸命に今を生きていくしかないのである。
病院へ運び込みたかったが、保険証もなければ現金もない。より効果的と思われる策は実行できず、テント内にて自力で分娩するしかなかった。
愛する妻の右手を両手で握りながら、陽介は祈れるものすべてに祈った。
「……すまない。俺が不甲斐ないばかりに……薫には辛い目ばかりあわせてしまう……」
沈黙とともに過ぎていく時間の中で、ふと陽介は懺悔するみたいにそんな台詞を口にしていた。
「……謝らないでください。私は……少しも辛くないですから……」
「そんなはずないだろ……今だって、俺がしっかりしてれば、こんな状況で出産せずに済んだのに……」
もっとうまくやれなかったのかと、後悔ばかりが募る。そんな陽介を見て、薫はいつもと変わらない微笑を浮かべた。
「陽介さんは、私を信じてくれた。私の生き方を肯定してくれた。それだけで……私は充分すぎるくらい幸せです」
お世辞を言ってるわけでなく、陽介を元気付けようという意図も感じられない。単純に、そう思ってるから口にした。そんな感じだった。
陽介も最初は、薫の生き方を理解できそうになった。けれど今時珍しい純粋さにいつしか惹かれ、失われるのが勿体ないと思った。
できる限り自分が力になって、当時雪村薫だった妻に信じる人生を貫かせたかった。
――そうだ。悔やむ必要も、諦める必要もない。これから這い上がっていけばいいんだ。絶望に支配されかかっていた心へ、確かな希望が誕生する。
「……ありがとう。俺も……幸せだ……」
二人見つめあって、笑いあう。他愛のないことかもしれないが、陽介にとっては何より楽しかった。
最後の最後で他人を信じたことが報われればいい。改めてその結論に達した陽介に、迷いはなくなっていた。
あとは妻の出産に、全力を尽くすのみだった。だが、こんな時に限って大きな問題が発生する。
「な、何だ!?」
耳に飛び込んできた、ドオオという地鳴りのような音。何が怒ったのかと、陽介は慌てて頭上を見る。
充分に防水加工されているはずのテントが、気づけば今にも破けそうになっていた。雨の勢いが増してきたのである。