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開いた口が塞がらないというのは、まさにこのことだった。
責めるような陽介の発言を受け止めたあと、目の前にいる女性――雪村薫はきっぱりとこう言いきったのだ。
「でも、あの人は戻ってくると言ってましたから」
断言された陽介は返すべき言葉を見つけられず、間抜けにもぽかんと口を半開きにしている。
何を言われてるのか最初は理解できなかったが、徐々に時間が流れていくにつれそのままの意味なのだと悟る。
「ま、まさか……待ってろって言われたから、それを信じてずっとここにいるのか!?」
驚きのあまり、思わず声が大きくなってしまった。けれど女性の方は、優しげな笑みを浮かべたまま「そうです」と頷いてみせた。
まさか騙されたのがわかってないのだろうか。それとも、察している上でなおこの反応なのか。後者だとしたら、お人よしという表現すら生温いほどの性格の持ち主である。
「いくら恋人だからって、そこまで盲目的に信じるのはさすがにどうかと思うぞ」
ここで初めて、雪村薫が異論ありといった態度をとった。
とはいえ怒ってるわけでなく、目を真ん丸くして、この人は何を言ってるんだろうという感じである。
そうした態度をとりたいのは陽介なのだが、とりあえず相手の言葉を待ってみる。
「申し訳ないですけど、待ってる男性は恋人ではありませんよ」
「……は?」
恋人ではない。その発言が、余計に陽介を迷わせた。
恋は盲目という言葉あるとおり、前方にいる女性もその類だと思っていたのだ。それがよもや、先ほどみたいな返しをされるとは想定してなかった。
けれどすぐに陽介は納得する。何も絶大な信頼を寄せる相手が、恋人だけとは限らない。しかも日本語は難しく、言葉の掛け違いなど日常茶飯事的に発生する。
「なるほど。恋人ではなくて、夫ということか。けど、どっちでも同じ――」
「――話の腰を折ってすみませんが、夫でもありません。そもそも私は独身です」
少しだけムッとしながら、雪村薫が答えた。
二十代後半のような感じだけに、何かと結婚に関する話題を振られて辟易してるのかもしれない。かくいう陽介も、会社の上司や親戚などから、事あるごとに嫁はまだかと言われる。
同じような環境にいるのだとしたら、気分を害させてしまった可能性が高い。ここは謝っておくべきだろう――と考えたりしてみたが、それでは話題が逸れて終わりである。
相手に申し訳ないと思いつつも、陽介は本来の疑問に戻す。待ち人の言葉を信じて、延々とこの場に滞在している女性こと雪村薫についてだ。
「てことは、家族か近しい親戚、友人とかか。とにかく、連絡をとった方がいい」
あまり相手にまとわりついても失礼なので、それだけ助言してあとは会社へ向かうつもりだった。
しかし雪村薫の次の台詞が、陽介にそうさせてくれなかった。
「いいえ、家族でも友人でもありません。それと……連絡はしてみましたが、通じませんでした。何か事故に巻き込まれたりしてなければいいのですが……」
相手の目はどこまでも本気だった。この発言が冗談でないとしたら、陽介には雪村薫が理解不能になる。
もともと他人を理解するなど不可能に近いとはいえ、ここまでまったくわからないのも稀だった。
世に言う珍種というやつなのだろうか――。くだらないことを真剣に悩んでる自分に気づき、正気に戻れと陽介は慌てて顔を左右に振る。
「あの……どうかしましたか?」
「どうかしてるのは、そっちだろ」
声にするつもりはなかったのに、唇の隙間から勝手に言葉の塊がこぼれてしまった。
突然の乱暴な物言いに相手がきょとんとする。その反応を見て、陽介は己の失態に気づくが、過ぎ去ってしまった時間は決して戻らない。口にした以上、中途半端に引き返すより、突き進んだ方が意外に好結果へ繋がる。
「明らかに騙されてるだろ。近しい人間じゃないなら、たいした金額は貸してないだろうけど、軽はずみにもほどがある」
心の中に溜め込んでいた台詞を、陽介は一気に吐き出す。初対面に近い相手へここまで言うのは、陽介にしては珍しいことだった。
「確かにそうかもしれません。けれど、あの人は困っていました。であるなら、助けてさしあげるのが当たり前です」
胸を張って答える女性の姿を見て、陽介は眩暈さえ覚えていた。
何を言っても無駄とはこのことで、忠告を聞き入れてくれる可能性は極端に低そうだった。
となればこれ以上関わっても、単なる時間の無駄にしかならない。それに雪村薫本人の問題なのだから、他人の陽介が口を挟む問題ではなかった。
今さらな感じもするが、改めて決断した陽介は雪村薫に「そのとおりだ」とだけ告げて背中を向けた。
「……風邪、ひかないようにな」
立ち去り際にひと言だけ残して、陽介は会社へ出勤するのだった。
オフィスで自分の机に座り、PCのディスプレイとにらめっこする。これが基本的な業務だった。
仕事は色々あるが、大半はキーボードでの打ち込みに終始する。昨日のような商談を担当するのは、稀なケースとなる。
各自の仕事場は板で仕切られており、同僚と会話する機会も滅多にない。
もともと仲の良い友人もいないので、不便さは別に感じなかった。それよりも、煩わしい人間関係を形成しなくてよいので、メリットの方が大きいぐらいだった。
休憩時間も自由にとれ、業務開始と終了時刻だけを守れば問題ない。残業の場合は、逐一申告が必要となる。
といっても社内メールで上司に申請すればいいだけで、なんら面倒な手続きは必要としない。給料もそこそこいいので、しばらくこの会社を辞める予定はなかった。
こなすべき仕事を終えて、窓から外を見ると、すでに空は暗くなっていた。太陽も姿を隠し、代わりに俺の出番だと月が輝いている。
そろそろ帰ることにした陽介は、自分の席から立ち上がる。そのままタイムカードを押し、ホワイトボードの出勤中の欄に書かれている自分の名前を消す。これで本日の業務は終了だった。
帰り支度を済ませ、会社から出たところで足をピタリと止める。なんとなく、今日は公園を通って帰りたくない気分だった。
そこで多少遠回りにはなるものの、公園を迂回して駅へ向かう。途中でコンビニへ寄り、今日の夕食と明日の朝食を調達する。
毎度変わらない弁当とおにぎりで、身体によくないのは明らかだ。自炊でもすれば状況は改善されるのだろうが、手間をかけるのが面倒臭かった。
確かに栄養面のバランスがいいとは言えないものの、弁当やおにぎりなら洗い物の手間が省ける。その分、他のことに時間を使える。
といってもたいした趣味もないので、音楽を聴いていたりテレビを見たりで時間を潰す。要するに、仕事以外の時間はだらけていたいのだ。誰に何を言われようとも、あくまで自分のことなのだから考えを変えるつもりはなかった。
無事に帰宅し、電子レンジで温めた夕食の幕の内弁当を平らげたあとで、陽介は公園で誰かをずっと待っている雪村薫を思い出した。
彼女もまた、陽介と同じように自分の考えを持っているのだから、他人からあれこれ指摘されて面白いはずがない。やはり自分が言い過ぎたのだ。導き出した結論とともに、若干の後悔を覚える。
明日も例の公園へいるようなら、ひと言ぐらい謝っておいてもいいかもしれない。それで彼女と会話するのも最後だと決める。
そうすれば仕事中に、雪村薫を気にするような事態にもならないだろう。咥えた煙草に火をつけながら、小さくため息をつく。実際に今日の陽介は、仕事に身が入ってなかった。
それにしても、あの女性はどうしてああも人を信じられるのか。人に裏切られた経験のない陽介でも、あそこまで他人を信じれるかと問われれば、迷わずに「ノー」と答える。
しかし戻ってくる可能性の低い人物を待っている雪村薫の目には、一切の迷いがなかった。心の底から、必ず来ると信じているのだ。陽介には、それが何より不思議だった。
……もう考えるのはよそう。何をしてても気分が乗らないので、今日は早めに就寝することにした。
シャワーを浴びたあとで、すぐにベッドへもぐりこむ。そうすれば、眠っている間は例の女性に関して考えずに済むはずだった。
起床した陽介は目を擦りながら、大きな欠伸をする。昨夜考えていたとおり、確かに睡眠中は雪村薫のことを考えなかった。
けれど、わずか数字程度の話である。いつもより早めに眠ろうとしたのがいけなかったのか、余計に寝付けなくなってしまったのである。
眠れなければ、退屈しのぎを求めるように、余計な考えばかりが頭に浮かんでくる。
結局、早めに睡眠をとろうがとるまいが、ウダウダと情けなくもひとりの女性のことを考えていたのだった。
ベッドから脱出した陽介は、睡眠不足の頭をシャキッとさせるために、まずは顔を洗う。そのあとで朝食をとって、歯を磨く。そして身支度を整える。
別に今日に限った行動ではなく、毎朝こんな感じだった。
スーツに身を包んだら、少し早めに家を出発する。時間ギリギリでは、とてもじゃないが例の公園で女性と会話してる時間はない。
いつもより一本早い電車に乗り、陽介は目的の駅で降りる。改札口を出て歩けば、すぐに緑豊かな公園が視界に入った。
昨日は通らなかった会社への近道を、ゆっくりと踏みしめるように歩いていく。目立たないように視線を周囲へ飛ばせば、見知った顔が一直線へこちらへ近づいてきてる最中だった。
「よかった、無事だったんですね。心配しました」
声をかけてきたのは、例の女性こと雪村薫だった。話しかけようと思っていたのだから、都合のいい展開とも言えるが、陽介には解せない点がある。
それは雪村薫の発した台詞だった。陽介の顔を見るなり、無事で安心したと言ってきたのである。
一体全体、何がどうなってるのかわからない陽介は混乱するばかりだった。
もしかしたら、何かあったのかもしれない。そこらへんの事情を知るためにも、昨日の出来事について女性へ尋ねる。
「はい。昨日の夜、杜若さんが公園にいらっしゃいませんでした」
心の底から安堵したあとで、女性が発した台詞がそれだった。
陽介の困惑は解消するどころか、より一層の激しさを増して渦巻く。いよいよこの女性が何を考えてるのか、本格的にわからなくなる。
昨日の夜に陽介がここを通らなかったと知っているのだから、雪村薫は変わらずこの場所に滞在し続けていたことになる。
重大な事案には違いないが、それよりももっと緊急を要する疑問が生じてしまった。
「まさか……俺が夕べ、公園を通らなかっただけで……心配してたのか……?」
恐る恐る尋ねる陽介に対して、雪村薫は自信満々に何故か胸まで張って「はいっ」と答える。
陽介とこの女性の間に、特別な関係は何もない。自己紹介しあってるとはいえ、限りなく顔見知りに近い他人。そんな感じである。
たまたま一回、いつもの時間に見かけなかっただけで、そんな人間を心配するだろうか。他の者はわからないが、少なくても陽介だったらほぼ確実にしていない。それだけは断言できた。
「何も変わりはないみたいですね。安心しました」
微笑む雪村薫を見て、陽介は「何だ、この女」という思いを一段と強くするのだった。