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人間は根本的に善であり、必死で頼めば住み込みの仕事のひとつやふたつぐらいはなんとかなる。
人の可能性を信じて住み慣れた街を出たまではよかったが、人生はそううまくいかなかった。
ドラマならここで新たな出会いなどがあり、主人公たちは劇的な変化とともに幸せを手に入れる。
そして最後は登場人物全員が幸せになり、大拍手のうちにエンドロールを迎える。
だが陽介を取り巻く環境は、これが現実だとばかりに厳しい場面ばかりだった。
それでも、陽介と薫は決して諦めなかった。住所がなければどうにもならないと、敷金も礼金も不要な安いボロアパートを拠点にする。
市役所へ転入届を提出し、職業安定所などで仕事を探す。身重な妻のためにもと、陽介はとにかく必死だった。
そうしてようやく見つけたのは、小さな町工場の仕事である。これまでとまったく違う職種なため、戸惑ったものの贅沢を言える身分ではなかった。
その工場は社長とごく近い身内だけで営業している、いわゆる個人経営の職場だった。
不景気ながらも受注量が増えてきたため、丁度人手を増やそうか考えていたところらしかった。
そこにタイミングよく陽介が飛び込みで頼み込み、なんとか雇用してもらえたのである。
お風呂もないボロアパートで、近くの銭湯を利用するしかない。けれど無料ではないので、節約のために毎日入るなど不可能だった。
結果的に台所で頭を洗って、濡らしたフェイスタオルで身体を拭いて終わりになる日が多かった。
陽介がそんな状況で妻の薫がひとりで銭湯へ行くはずもなく、同様に台所へ設定されている湯沸かし器をシャワー代わりに使用する。
台所へ頭を突っ込み、手を洗うような感じで先発するのだ。その際に流し台へ何度もお腹がぶつかるため、どう考えても子供にいいはずがなかった。
陽介の必死の説得により、ようやく二日に一回程度は銭湯を利用してくれるようになった。
その場合も何か問題が起きないように、陽介が徒歩で送り迎えをする。
ひとり銭湯に入ることを妻は申し訳なさそうにしていたが、お腹の子供のためだからと無理やり納得させる。
日々は忙しなくすぎていき、それほど多くなくても初給料を手にできた。
贅沢はできずとも、引っ越したばかりのこの町で暮らすには充分だった。
都会と違って交通の便利さはないが、とにかく物価が安いのである。
近くに田園地帯もあるため、野菜や果物の直売所もあり、そういうところを利用するとグッと安く食材を調達できる。
家賃も都会の時より半額以上も安い。ただし、その代わりに給料も半分程度といった感じだった。
しかし陽介も妻の薫も、今の暮らしにそれほど悲観的でなかった。
どこに住んでいても、時間はすべての人類へ等しく与えられてるはずなのに、この町は都会と比べものにならないぐらい時間の流れがゆっくりしてるように感じられた。
毎日忙しいのは変わらないのだが、時間に追われてるとは思わない。どこか心に余裕がある。
緑豊かな周囲の風景がそう思わせてくれるのか、それとも人口の少ない町並みのおかげなのか。詳しい理由は不明だが、とにかく追いつめられてるような雰囲気は一切なかった。
自宅へ戻っても和やかそのもので、あとはゆっくり子供が産まれてくるのを待つだけだった。
薫は最後まで自宅で産むと言い張っていたが、いざその時になったら少し遠いものの、産婦人科のある総合病院へ行くということで決定した。
多少の出費はかかろうとも、母体と赤ちゃんの双方に無事でいてほしかった。
これはどんな父親でも持つ願いに他ならなく、そのためならどんな節約でも喜んで我慢できた。
勤務先の社長一族も良い人ばかりで、このまま順調に生きていける。この時までは、確かにそう思っていた。
妻のお腹も相当に大きくなり、いよいよ我が子の誕生まであと少しというのが陽介の目にもわかっていた。
この町に来てから二ヶ月以上が過ぎており、給料が少ないなりにもわずかな貯金もできた。
銀行へ口座を作っていないため、自宅のタンスにしまっている。
玄関の鍵を開けたまま眠っても、強盗に入られないぐらい安全な町だった。
その点だけは陽介も感謝していた。何故なら、妻の薫が悲惨な目にあう危険性もグッと低くなるからである。
仕事にも慣れ始めてきて、社長にも妻の出産の件で相談したりもした。
そんなある日、社長と奥さんが陽介たちのボロアパートを尋ねてきた。
どちらも年配なのだが、その分だけ厚い人情味を携えてるように思えた。
陽介の勤め先の社長と奥さんが来たということで、薫は身重な母体を懸命に動かして酒のつまみなどを作ってくれた。
出産する際の注意点や、赤ちゃんの世話の仕方などを社長の奥さんが教えてくれて、陽介も薫も大助かりだった。
どんな困難に遭遇しても、やっぱり人を信じてよかった。そう思えるぐらい、心休まる穏やかな日々の中のひとこまだった。
しかし翌朝に実にあっさりと、そしてとても唐突にそんな日々は壊れた。
「何だ……これ……」
もぬけの殻と化していた事務所を見て、陽介は思わずそんな言葉を呟いていた。
タイムカードを持つ片手から力が抜け、ポタリと床に落ちる。
ただの外出でないのは、ひと目見ればすぐにわかった。椅子などの家具を含めて、言葉どおり何ひとつ残ってなかったのである。
頭の中で混乱の二文字が躍り狂い、何がなんだかわからなくなる。
「――おい。もしかして、お前……ここの関係者か?」
誰か事情を知ってる人間がいたのだろうか。そう思って声がした方を向くと、いきなり胸倉を掴まれた。
「社長はどこいったコラァ!! 金払わないで、逃げれるなんて思うなよ!!!」
スキンヘッドで顔に傷が入っている男性が、陽介の眼前で怒鳴り散らす。背後には他の仲間も控えており、派手な色のスーツに身を包んでいる。
どちら様と尋ねなくても、どのような職種の方々かは容易に想像がついた。
「わ、わからないですよ……今朝出勤したらこの有様で……」
「あァ!? その言葉を信じると思ってんのか!! 社長の行方がわからねえってんなら、テメエが金返せや、オウっ!」
訳のわからない状況で、強持ての男性にひたすら凄まれる。
これは何かの罰ゲームかと思ったほどで、パニックを起こしてる頭がどうにかなりそうだった。
「無茶言わないでくださいよ。俺だって社長と連絡がとれるなら、どういうことか説明してもらいたいくらいなんです」
前の街で借金を背負った際に、生活費節約のため携帯電話は解約していた。それ以来、陽介も薫も新たに契約はしていない。それが仇となった。
かろうじて自宅に電話はつけていたが、節約のためにほとんど使用しておらず、会社との連絡専用みたいになっていた。
そのため、会社関連で知っている電話番号は、今や無人のスペースとなったこの事務所への直通だけである。
もっとも現在の状況では何の役にも立たず、もの凄い剣幕で社長を探している男たちの方が、陽介より情報を持ってる有様だった。
「……どうやら本当に知らねえみたいだな。チッ! あの野郎……どこへ消えやがった! オイ、急いで探せっ!」
どうやらスキンヘッドの男がリーダー格らしく、ドスの利いた声で号令を出すと同時に、それまで後ろで控えていた男たちがバラバラに走りだした。
恐らくは社長を探しに行ったのだろう。スキンヘッドの男の話では、社長はかなりの額の借金をしていたみたいだった。
その大半が博打関連だったと知ってはいたが、会社の業績がそこそこ良くなってきていたので貸したと教えてくれた。
見ず知らずの陽介に、そこまでの情報をくれたのは、万が一にでも社長を見つけたらすぐに教えろという理由からだった。
スキンヘッドの男の名刺を握らされ、陽介は解放された。
その足で、現在は自宅のボロアパートへ向かっている。職場がなくなれば、当然のごとくやることもなくなる。帰宅するしかなかったのである。
自宅へ戻った陽介の目に飛び込んできたのは、何やら慌てている妻の姿だった。
何か不都合でもあったのかと、自分のことはさておいて、陽介は薫に「どうかしたのか」と質問する。
すると、予想もしてなかった答えが返ってきた。
「あ、陽介さん。それが……貯めていたはずのお金がないんです」
若干顔を蒼ざめさせながら、薫は目を真っ赤にしている。
どうやらこの分では、ずいぶんと探し回ったみたいである。
それでも見つからないのであれば、単純な紛失騒ぎでないのではないか。そう思って、陽介はここ最近の出来事を思い返してみる。
真っ先に浮かんできたのは、こんなボロアパートに勤務していた工場の社長夫婦がやってきたことだった。
久しぶりに楽しんだ昨夜のうちに、社長夫婦はそそくさと帰って行った。
何か飲み物を買ってこようと陽介は家を出て、戻ってくるまで十数分はかかっている。
戻ってくると、妻の薫は座って社長と話しており、社長の奥さんが手料理を作ってくれた。
身重な薫を気遣ってくれてと感謝した陽介だったが、もし目的が違うとしたら――そう考えて背筋がゾッとした。
妻の出産費用だけはなんとか貯めている。社長へ色々相談してるうちに、そんな話をした覚えがある。
とすれば、社長夫婦は陽介の家にタンス貯金があるのを知っていた。そして、今朝の出来事である。
人を信じる――陽介もそう決めて、自分の生き方を変えてみた。その結果がこれだった。
「……止めろ。きっともうないよ」
「え? どうしてですか? あ、そういえば……陽介さん、お仕事は――」
薫がそこまで言ったところで、陽介は相手の言葉を遮るように「なくなったよ」と告げた。
「社長たちは親族揃って夜逃げした。かなりの借金があったみたいでさ、借金取りが血相を変えて行方を捜してたよ」
事務所がもぬけの殻だったことも説明し、収入の当ては一切なくなったと投げやり気味に話す。あまりの情けなさで、さすがの陽介も泣きたくなった。
「お金に困っていたのも知らず、俺は社長に薫の出産費用を家で貯めてると教えてしまった。そこへ昨日の訪問があって、今朝のこの有様だ。ここまで言えば、わかるだろ」
説明するのにも疲れていた。全身がダルく、何もかもが億劫だった。
「……すべては、俺が社長を信用しすぎたせいだ。すまない……」
搾り出すように謝罪した俺の姿を見て、ただでさえ充血していた妻の目がさらに赤みを増した。
陽介たちにとっては大金とも呼べる貯金をなくしたと思い、責任を痛感して先ほどまで泣きながら探していたに違いなかった。
ようやく涙も止まりかけてきた頃に、帰宅した陽介による一連の状況説明である。
平静を保てる人間の方が珍しく、取り乱した挙句に泣き喚いても大げさなリアクションとは言えなかった。
それでも薫は涙をグッと堪え、真っ直ぐに陽介を見つめてきた。
「私が……なくしてしまったんです。ごめんなさい……どうか許してください……」
妻による涙ながらの謝罪が、どこまでも深く陽介の心へ突き刺さる。そんなはずないと薫もわかってるはずなのに、あくまでも自分の過失にしようとしていた。
社長夫婦を今でも信じ、盗まれた可能性を考慮せずに自分で責任を背負い込む。他人を信じるというのは、苦行に他ならないのか。いつの間にか、陽介の両目からも涙が溢れていた。