28
それは陽介にとっても、衝撃的な告白だった。
解雇理由は商品の不当売買と言われたそうである。要するに薫が店から盗んだ商品を、勝手に同僚へ売りつけていたということだった。
「私……きちんと説明したわ。店長が誤解してるだけだと思って、丁寧に繰り返し、繰り返し……でも……駄目だった」
店側の責任者の前で必死の弁解を続ける薫の前に、該当の同僚女性が現れた。
――これで誤解も解ける。そう思って、妻は心底ホッとしたと口にした。けれど実際は違った。
薫がそういう真似をしてると報告したのは、他ならぬその女性だったのである。
お金を貸したというのなら、借用書を見せろ。証拠もないのに、適当なことを言うな。怒鳴るようにそう罵倒されたらしかった。
最終的に店長は薫よりも長く勤務しているその女性を信用し、警察沙汰にしない代わりに今すぐ辞めてくれと言われたそうである。
人の良い妻が、そこまで言われて逆らうはずもなかった。結局言われない誹謗中傷を浴びたまま、店を去ることになってしまった。
「でも……仕方ないですよね。こういう結果になるということは、私に誤解される点があったのですものね」
いかにいつも前向きな女性といえど、やはり物事には限度がある。そんな悲惨な目にあって、落ち込まないはずがなかった。
けれど話し終える頃には普段の薫に戻っており、暗い表情を見せなくなっていた。
「……そうだな」
勤務先の店長や同僚に憤ってみても、妻は相手をフォローするだろう。そういう人間なのだ。世界中の誰もが愚かだと笑っても、夫の陽介だけは理解してあげる必要があった。
それが夫婦であり、どんな困難も幸せも二人で分かち合うと約束した人間の役目だった。
「……俺たちには……この街は似合わないのかもしれないな……」
思い出されるのは、初めて二人で旅行したあの温泉宿。タクシーの運転手も従業員も、とても良い人柄をしていた。
サービス業なのだから当然といえば当然なのだが、仕事である以上に話してるだけで和やかな雰囲気が伝わってきた。
妻も旅行先を随分と気に入っており、またいつか行きたいねと話していた。
けれど今の陽介たちに、そんな財力はない。急に仕事がなくなったせいで、収入源を失った。
しかも自己破産してるせいで、クレジットカードなんかも作れない。要約すれば、借金は不可能な立場になっている。
「……そう……かもしれないね……」
妻の話を聞き終えたあとで、陽介もまた自身の現状を説明した。その直後に薫が発した台詞だった。
懲戒解雇の理由を不服として、出るべきところへ出ても構わない。だが、妻にそのつもりはないだろう。何せ、他人と争うのを極端に嫌う人間である。
そこまでするのであれば、自分にも非があったのかもしれないし、損をしたままで構わないと言う可能性が高かった。
「なあ……この街を出ないか?」
人を信じる人間が生きていくには、この街の環境はあまりにも悪かった。
今回がいい機会だと思い、陽介は妻にそう提案していた。自己破産の手続きが完了するまで、まだ少し時間がかかる。
その間に失業保険の手続きも済ませておけば、ある程度の収入も期待できる。
「私は……陽介さんに従います。だって……妻ですもの」
どんな苦労が待ち受けてるかもわからないのに、薫は二つ返事で陽介の希望を了承してくれた。
嬉しくて涙が出そうになるのを必死で堪える。何があっても、妻だけは自分の味方でいてくれる。そう確信できた。
「……ありがとう。大丈夫、きっとなんとかなるさ」
「――はい。信じてます」
自分だけは絶対に裏切らないし、騙さない。決意を新たにして、陽介は力強く妻の手を握り締めるのだった。
「……は、はは……」
ここまでくると笑うしかない。まさか、こんな展開が待ってるとは想像もしてなかった。
失業保険の申請に行こうと書類を整理している最中、陽介の携帯電話に一件の着信があった。
たまたまその場におらず出られなかったのだが、しっかりと伝言メッセージが入っていた。
――お前、懲戒解雇処分になってるから。聞き覚えのある声は、辞めた会社の上司のものだった。
メッセージはその短いひと言で終わっており、こちらからいくら折り返しの電話を入れても相手に繋がることはなかった。
向こうにどのような意図があるかは不明だが、陽介の退職は懲戒解雇として処理されたらしい。これは死刑宣告も同然である。
通常の退職や解雇とは違い、懲戒の二文字がつくだけで失業保険を受け取れなくなる。
会社に損害を与えた人間を、サポートする必要はない。それが主な理由だった。
陽介がいくら抗議したところで、法律で決められている内容を覆したりできない。弁護士へ新たに相談するお金もない以上、諦めるしかなかった。
悔しくないと言えば嘘になったが、今さら地団駄を踏んだところで、事態が好転するわけでもない。終わったことを悔いるよりも、明日を見るべきだと考える。
パートでまだ働いたばかりの妻が失業保険を貰えるわけもなく、借金返済の義務はなくなったが、収入もすべて一緒に失った。
「……どうかしたのですか」
仕事を解雇されたのだから、会社へ行っても仕方ない。陽介も薫も、日中から自宅にいた。
キッチンで洗い物をしていた妻が、陽介の異変に気づいてわざわざ様子を聞きに来た。
何て言ったらいいかわからずにいると、相手から「もしかして、失業保険の話が駄目になったのですか」と尋ねてきた。
他に収入の当てがあるならともかく、この状況下では嘘をつくだけ無駄だった。
正直に頷いた陽介は、妻に「弁護士事務所へ行こう」と告げる。相手方に迷惑がかからないよう、払える現金があるうちに自己破産手続きの報酬を払うつもりだった。
陽介の意図をすぐに理解してくれた薫はすぐに了承してくれ、二人で弁護士事務所へ向かうことにした。
「……これから……どうしましょうか……」
弁護士事務所を出るなり、妻の薫が陽介へ尋ねてきた。
分割で支払う予定だった弁護士への報酬を、先にまとめて精算してきたため、手持ちの現金はほとんどなくなっている。
ハローワークで職を探しても、すぐに見つかるとは思えない。本音を言えば、八方塞だった。
「……すべての支払いを済ませて、街を出よう。予定が少し早まるけど……仕方ない」
一刻も早く安心して住める場所を探さないと、子を宿している母体に余計な負担をかけてしまう。本来なら、それだけは避けたかった。
できるならこの街に留まって、新しい仕事を探したかった。けれど、ここは他人を信じて暮らしていける場所ではない。それだけはわかっていた。
「薫にも……お腹の子供にも負担をかけてしまうな……」
言いながら陽介は、自分で自分を情けなくなった。
愛する妻と子を守るどころか、これでは自分が苦しめてるようなものだった。
そんな思いを察したのか、隣を歩いている薫が陽介の手をギュッと握ってくる。
「気にしないでください。陽介さんの決めたことなら、私は迷いなく信じます。絶対に離れません」
その宣言には、仮に陽介が別れを切り出しても、絶対に受け入れないという強固な意志が含まれていた。
嬉しくて涙が出そうになったが、やはり家族を守る立場の陽介からすればもどかしさが残る。
だが例の男性を恨むことはしない。お金を貸した時から、それだけはずっと貫いてきた。
夫婦になって薫の人生を受け入れたからには、自分も相手の人生を肯定して共に生きていこうと自分自身へ誓った。
気恥ずかしくて妻には言ってないが、一度決めたからには最後まで守るつもりだった。
「……ありがとう」
それだけ妻へ告げて、陽介は愛する薫の手を握ったまま一緒に家へ帰るのだった。
「……じゃあ、行くか」
家賃や水道光熱費の支払いをすべて終えたあと、何もない部屋の中で陽介は薫へそう言った。
自己破産時が正式に認められ、この街でするべきこともなくなった。
持って行くのは、たったひとつのバッグに入れたわずかな着替えと洗顔用品程度だけ。他には何もない。というより、必要がなかった。
どこに行くかの目星は大体つけていたが、下見をしてきたわけでないので、仕事どころが住み所があるのかもわからない。それでも前へ進むしかないのである。
身重の妻も賛同してくれたので、家族揃って住み慣れた街を後にする。
「不思議だな……こんな形で離れることになってしまったけど、たいして恨みもない」
家を出て管理人に鍵を返したあと、今一度道路から住んでいたマンションを見上げながら陽介が呟いた。
すぐ隣にいる薫も「そうですね」と同意してくれる。
どうしてか理由を考えてみると、すぐに浮かんできた。
辛い思いはたくさんしたけれど、それでも薫と出会えた嬉しさに比べればたいしたことがなかったからだ。だが、やはり照れ臭くて、本人には伝えられない。フッと小さく笑って終わった。
「どうかしましたか?」
小首を傾げて尋ねくる妻に「何でもない」と応える。改めて見ると、薫のお腹もだいぶ大きくなっていた。
本当なら主治医を見つけて、そろそろ安静にする時期へ入る頃なのではないか。出産経験のない陽介には詳しくわからなかったが、以前にちらっと見た本にはそう書かれてたような気がする。
陽介も薫にそうさせてあげたかったが、実際は産婦人科へ通わせることもできていない。何を言っても空しいだけだった。
「……そんな悲しい顔をしないでください。私は充分に幸せですし、必ずこの子も理解してくれます」
文明が発達した現代において、妊娠後期へ入ってるというのにお腹の中にいる我が子の性別すらわからない。そのことを話すと、妻は決まって「その方が、ロマンチックですよ」なんて言ってくる。
本音からそう思ってるわけでなく、あくまで陽介を気遣ってくれてるのは痛いほどにわかっていた。
自分の気持ちから、俺が借金を背負うはめになったのも薫の心に多大な被害を及ぼしている。
こればかりは、お互いがお互いに「気にするな」とどれだけ言っても無駄だった。
あとで自分の人生を振り返った際に、そんなこともあったなと笑えるように、これから幸せに生きていくしか傷ついた心を癒す方法はなかった。
それがわかっているからこそ、手持ちのお金が少ない状況でも新たな土地を目指して旅立つのだ。待っているのが幸せかどうかはわからないけれど、二人ならどこまでも歩いていける。
こんな駄目な父親を、どうか許してほしい。心の中で愛妻のお腹にいる我が子へ謝罪したあと、新しい日々へと続く道を歩みだす。その隣には、手を握り合っている薫がいた。
「これから行く場所が、どんな所か楽しみですね」
「ああ……俺もだ」
当ても何もないのに、薫と一緒にいれば未来を不安視しなくて済む。本当に何とかなるさと思えるから不思議だった。
向かうべき場所は、電車を乗り継いだ先に存在する小さな田舎町だ。緑より人が多い都会よりは、自分たちに合っていると思った。
――十回騙されたって、十一回目に幸せがやってくれば、人を信じたかいがあるじゃないか。これは妻の姓がまだ雪村だった頃、陽介が語った言葉である。
今この台詞を自分自身に言い聞かせながら、数々の思い出がある街を陽介は妻を連れて後にするのだった。