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――泣きっ面に蜂。その言葉の意味を、陽介は文字どおり痛感していた。
「いや、すまんな」
本当に申し訳なく思ってるのかも怪しい口調で、上司は再度謝罪の言葉を口にした。
心がこもってないのは丸わかりで、まるで最初からこうするのが規定路線だとでも言いたげだった。
「ウチの職種は自己破産時の制限になってないから、いいかと思ったんだがな。やはり、あまり望ましくはないようだ」
――ないようだ。その言い方は、自分の責任ではないぞと言ってるみたいだった。
俺も頑張ったんだが、お前の解雇が上で決定された。目をかけてくれていた上司に、陽介がそう言われたのはわずか数分前である。
……何だ、これは。どうしてこうなった。疑問の言葉が頭の中をグルグルして、他のことを考えるスペースはまるでなかった。
混乱も極めると、取り乱すより何もできなくなるんだな。そんなことを陽介は考えていた。
大きすぎるショックのせいか、自身の現状を第三者の視点で眺める陽介がいた。
自己破産するかどうか悩んでる時に、この手の問題を考えなかったわけではない。それゆえに、陽介はわざわざ上司へ相談したのである。
その際に得られた回答が行動指針となり、愛妻を説得した上で自己破産した。手続きには三ヶ月程度かかると言われているため、まだ完了してはいないが、実質的にはそう言っても構わなかった。
様々なデメリットはあるが、これで借金のことは考えずに済む。心に巣食っていた重荷がなくなり、今朝は足取りも軽やかだった。
妻の薫と出会った公園を通り、思い出深いベンチを数分黙って見つめては懐かしさに浸った。
これから新しい日々が始まるのだ。心に穴でも開いてるのだろうか。入れ直したばかりの気合が、とめどなくこぼれては闇に溶ける。
「まあ、お前の能力なら、すぐに次の仕事が見つかるさ。俺からは以上だ」
あっさりと、そして何の感情もなく上司が言い放つ。憐れみも同情もない。単なる業務連絡みたいに、淡々と言葉を垂れ流して会話は強制的に終了された。
「……わかり……ました……」
陽介はそう言うのが精一杯だった。
反論しても無駄だ。一切受け付けるつもりはない。相手の表情と態度が、そう物語っていた。
会社なんて……社会なんてこんなものか。こんな時、妻の薫ならば「相手にも事情があって、きっと陽介さんと同じぐらい辛いのよ」と言うのかもしれない。それは素晴らしい長所だと思う。けれど陽介には真似できそうもなかった。
明らかな失望が全身を包み込み、やる気をひとつ残らず奪っていく。脱力しきった肉体は、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
「どうした。話は終わったぞ」
もう目も合わせたくないのか、上司は机の上の書類を見ながらそれだけ呟いた。
あまりにも無慈悲で、あまりにも残酷だった。泣きそうになるのを必死で堪え、陽介は「……お世話になりました」と告げて上司の部屋を出た。
退室した瞬間、足元に何かがぶつかった。よくよく見ると、それは陽介の私物だった。
基本的に会社に置いてある私物は少なかったので、小さなダンボールひと箱にまとめられている。
隣には中に愛妻弁当や、お茶の入った水筒があるバッグも置かれていた。それは陽介が、毎日の出勤時に持ち歩いてるものだった。
お前の居場所はもうないと言いたげな状況に、心がズキリと痛む。最後に挨拶でもと思ったが、考えてみれば仲の良い同僚などひとりもいなかった。
チラリと自分のデスクを見れば、そこにはもう違う男性が座っていた。ずっと前から自分のものだったかのごとく、早くも馴染んでいる。
呆然と立ち尽くす陽介に降り注いでくるクスクスとした笑い声。そこかしこに後ろ指があり、好き勝手な噂で人を貶める。妻の薫が望んでいるのとは、まったく違う世界がここにあった。
だからといって驚く必要も、悲しむ必要もない。現実なんて、所詮この程度だ。わかっていたはずなのに、陽介は心の中でひたすら泣いていた。
――惨めだよな。人間、ああはなりたくないぜ。
――まったくだ。っていうより、俺はアイツみたいに間抜けじゃないからな。
どこかで聞いた覚えのある男性二人組みの声が、立ち去ろうとする背中へ鋭い槍みたいにグサリと突き刺さる。
人間は他人に対して、これほどまで残酷になれるのか。悔しくてたまらなかったが、今の陽介にはどうすることもできなかった。
怒り狂うでも、文句を言うわけでもなく、ゴミみたいに床へ置かれていた荷物を拾って、また歩き出す。両手で荷物を抱えたままドアを開け、二度と戻ってくることはないであろうオフィスを後にする。
結構長く勤務していたはずなのに、それほど悲しいと思わなかった。人間関係が希薄だったせいか、別段に仲の良い友人もいなかったからだろう。その点だけは、感謝すべきかもしれない。そう思ってる自分に、陽介は苦笑した。
「ただいま……」
借金の返済に困ることはなくなったものの、相変わらず陽介は電車を使わずに通勤をしていた。
かなりの距離があるものの、時間を気にせず体力があれば、不可能ではなかった。加えて今日は、朝から暇になっている。
会社から持ち出した荷物は大半がいらないものだったので、例の公園のゴミ箱にまとめて捨ててきた。
社外秘の書類などを持たせるわけがないので、陽介が必要なければわざわざ家に持ち帰ることもない。ゆえに分別だけはしっかりした上で、何の感傷も抱かずに淡々とゴミ箱へ放り投げて最後の作業を終えた。
手元に残しておきたかったのものはバッグへ入れ、長い長い道のりを歩き始めた。
朝に持たされた愛妻弁当は、途中で立ち寄った名前も知らない公園で平らげた。
運良くベンチが空いていたので、そこに座って太陽の光を浴びながら青空の下で食事をした。
あんなことがあったというのに、それだけでもなんとなくツいてるような気がして嬉しくなった。ここでもまた、陽介はひとり苦笑していた。
理不尽ともいえる状況で解雇されたのに、こんなことを思う余裕があるのも、薫と出会って結婚したからかもしれない。つくづく自分は変わったなと痛感した。
それがいいことなのか、悪いことなのかはわからない。ただ視線を移動させれば、そこかしこでひとり寂しげに昼食をとっているサラリーマンの姿が見えた。
皆似たような状況下で、似たような悩みを抱えてるのかもしれない。だからこそ、人同士助け合うのは意義があるのではないか。自然とそんな風に考えていること自体、陽介にとっては驚きだった。
――やっぱり薫の影響だな。食休みを終えたあとでそう呟き、ベンチから立ち上がった陽介は家路についた。
どこかへ立ち寄ろうかとも考えたが、自己破産しただけあって手持ちの金額は少ない。一定額は保障されているものの、それ以上の現金や預金は債権者へ分配するため、回収されてしまうからだ。もっとも、陽介と薫にはそこまでの財産はなかった。
基本的にほとんどの娯楽を排除して生活していたため、必要最低限の物しか所持していなかった。ゆえに差し押さえられた家具などもほとんどなく、自己破産の前と後で家の中の風景が大きく異なるなんて事態にはならなかった。
そんな自宅へ、陽介はまだ日も高いうちに帰宅していた。妻の薫はパートが休みだったみたいで、普段なら出勤してる時間にも関わらず、パタパタと出迎えの足音が聞こえてくる。
かくいう陽介も、本来ならまだ会社で仕事をしてる時間なのに、自宅へ戻ってきている。それでも玄関に姿を現した愛妻は、いつもどおりの笑顔で「おかえりなさい」と言ってくれた。
夕方も近くなっていた頃、陽介と薫はリビングで向かい合って座っていた。
どちらから何を発するでもなく、妻が入れてくれたお茶をただ飲んでいる。
何を言えばいいのかわからないといった方が正しかった。陽介の態度で不穏な空気を感じているのか、普段は元気な愛妻もこの時ばかりは口をつぐんでいた。
どれくらいの時間が経過したのか。やがて薫が「ねえ……」と口を開いた。
自分から告げるより、質問してもらった方が楽かもしれない。そう判断した陽介は、妻の次の言葉を待った。
「……私……仕事、辞めさせられちゃった……」
明るく振舞おうとしているのは、言葉遣いからわかったが、表情まで演技するのはとても無理だった。
口調もどことなく沈んだ感じがして、常に人を信じて朗らかな女性にしては珍しいリアクションである。
それだけショックなのだろうが、陽介も同じだった。ここで自分も曝露しようかと考えたが、まだ相手が何か言いたそうだったので、とりあえずは聞き役に徹する。
「同じパートで……年配の女性の方なんだけどね。どうしても必要な事情があるからって、お店の商品を欲しがってたの。でもお金はないから買えないって相談されたわ」
どこか遠い目をして、妻が話し始める。その様子からして、相談を持ちかけられたのは、結構前のことなのだろうと予想できた。
「見逃してほしいと言って、止めるのも聞かずに持って行っちゃったんだけど、それは悪いことだから私が立て替えておいたの。大金ではなかったから、商品を買ったことにしてレジを打ち込んでお金を入れておいたわ」
そして翌日、そのことを同僚に告げた。少し寂しそうに呟く。よかれと思ってしたのだと、薫は繰り返した。
「その女性は感謝してくれて、必ず返すからと言ってくれた。凄く嬉しそうで、幸せそうだったから、私は自分の判断が間違ってなかったと確信したの」
他人を信じるのをモットーにしてる薫からすれば、至極当然の行動だった。その点に関しては、陽介も文句を言うつもりはなかった。
「そうしたらしばらくして、また事情があると相談された。女性の代わりにまた私が支払い、レジ処理を済ませたわ」
薫の話によれば、そうした事態が一ヶ月に何度も起こっていたのだという。それでも大きな金額ではないし、困ってるのだからと応じたらしかった。
この世の中は、そんな人間ばっかりか。陽介はテーブルの下で作った握り拳を、自身の太腿へ押し当てていた。そうすることで、少しでも怒りを紛らわそうとしたのである。
年配の同僚女性とやらには、心優しい薫はお人好しのアホなカモ程度にしか見えていなかったのだろう。そのあとの話は大体予想どおりだった。
「私もお家のことがあるから、そんなに立て替えてあげられなかったけれど、可能な限りは助けてあげたつもりだった」
妻のことだから、貸したお金を絶対に返してほしいとは思ってなかったに違いない。節約に節約を重ねて作ったであろうわずかなお小遣いのはずなのに、惜しげもなく長年の付き合いがあるわけでもない同僚へ援助した。
他人には愚かにしか見えないかもしれないが、陽介からすればそんな一面も含めて薫を好きになった。
今さら叱責するつもりもなく、むしろもっと早くに妻の雰囲気からその事態を察してあげれなかったものかと、自分自身へ憤っていた。
「それがつい先日、休憩室でまとまったお金が入ったって同僚に話していたの。私、部屋の前を通りかかった時に偶然聞いてしまって……それで、中へ入ってよかったですねって言ったの」
薫には何の意図もなく、単純に相手がお金に困らなくなったと喜んだのだ。ただ、それが正しく向こうへ伝わらなかった。
次の台詞には涙が混じり、瞳から溢れた透明な雫が一滴二滴とテーブルの上へ落ちた。
「その女性はありがとうって言ってくれたから、私も嬉しかった。それなのに……いつもの時間に出勤したら、店長からお店を辞めてくれって……言われたの」