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「え……?」
陽介による突然のプロポーズで、雪村薫が言葉を失った。
相手からすればいきなりの展開だろうけれど、陽介には違った。かねてより、ずっと考えていたのである。
「一時の感情に流されてるわけじゃない。ずっと……そう思ってた」
何も言い出さない相手の目を見つめつつ、陽介は言葉を続ける。
「幸せにはできないかもしれない。未来を予言できるほど、俺は有能じゃないから。けど……幸せにするための努力を、ずっと怠らないことだけは約束できる」
こんな大変な状況だからだろうか。照れや気恥ずかしさみたいなのはなく、すらすらと言葉が出てくる。
紡がれた言葉の数々を素直に吐き出し、優しく相手のもとへ届ける。
「で、でも……」
雪村薫が結婚の申し出を受けたからといって、素直に応じれる性格でないのは充分にわかっていた。
その上で、陽介はわざわざプロポーズへ踏み切った。ここを逃すと、最愛の女性がどこか遠くへ行ってしまいそうな気がしたのだ。それだけは絶対に嫌だった。
男として決断するべき時は今を置いて他にないと判断し、勇気を振り絞って自らの想いを口にしたのである。
陽介の考えが間違ってなければ、確実に相手女性も好意を持ってくれているはずだった。
「俺を嫌いなら断ってもいい。でも、そうでなければ受けてほしい。一緒に……信じる生き方を貫こう」
陽介がそこまで言うと、雪村薫の両目からボロボロと涙が溢れた。
慌てて両手で目元を覆うが、それだけでは防波堤として不十分だった。
手のひらからこぼれてきた涙が顎を伝い、一滴また一滴と床へ落下していく。こんな状況だというのに、陽介はその光景を見て率直に美しいとさえ思っていた。
まさか自分がこのような状況になるなんて、わずか一年程度前には夢にも思っていなかった。
それがひょんな形で出会い、いつの間にやらかけがえのない半身みたいに相手を想っていた。
陽介にとって、雪村薫のいない人生など考えられなくなっていたのである。
頭の中を言葉にするのが苦手な陽介でも、ここは躊躇ってはいけないと思いつく限りの台詞を並べる。
それでも雪村薫は、まだ良い返事をくれなかった。
「嬉しいです……でも、これ以上……陽介さんの負担に――」
「――嬉しいなら、いいんだな。じゃあ、結婚するぞ」
相手の言葉を遮った上で、これ以上の反論は認めないとばかりに強い口調で台詞を締め括った。
これにはさすがの雪村薫も口をあんぐりさせていたが、やがて小さくクスリと笑ってくれた。
「強引……なんですね。けれど……嬉しいです。こんな私でよかったら……末永く、よろしくお願いします……」
「ああ……こちらこそ……」
そう言って見詰め合ったあと、どちらからともなく相手の身体を抱いて互いの温もりを確かめ合うのだった。
妊娠が発覚したからといって、借金が軽減されるわけではない。夢も希望もないかもしれないが、現実とはかくも残酷なのである。
けれどこれまでよりも、ずっと前向きに陽介は仕事へ取り組めるようになっていた。
大好きな女性のお腹の中に自分の半身がいると考えるだけで、今を生きる気力が全身へみなぎってくる。
これまでの厳しい借金返済生活で疲れきっていたはずなのに、なんとも不思議な現象だった。
婚姻届も役所へ提出し、陽介と雪村薫――もとい杜若薫は夫婦になった。
とても嬉しかったが、不安な点もある。それは妻の薫が、どれだけ言っても産婦人科へ通おうとしてくれないことだった。
多少は身体を気遣うようになってくれたが、パートの仕事を減らしたりもしていない。今までと変わらず、家計を助けるべく働いていた。
同時に極端な節約も開始しており、産婦人科への通院ですら費用がかかりすぎると行きたがらないのである。
いくら陽介が危険だと説得しても無駄だった。こういう時の薫は、誰より頑固になる。
結局は「本当に具合が悪くなったら行きます」という言葉で陽介が折れ、ほとんどこれまでと変わりない生活を送っている。
だが現実は甘くなかった。いくら仕事を増やしたり、節約したりしても、大半が金利の支払いだけで終わる。元金の返済など微々たる額にすぎなかった。
当初は金利の支払いだけでもできそうになかったのだから、少しずつとはいえ元金を減らせているのはかなりの幸運だった。
しかしよほど収入が増えて一括返済でもしない限り、延々と借金の返済は続く。このままでは、完済より先に限界が訪れるのは明らかだった。
妻の薫には疲労の色が滲んでおり、かくいう陽介も食事をしながら眠ったりする始末だった。お互いに、体が悲鳴を上げてるのは重々承知していた。
それでも責任感の強い薫は、決してギブアップしようとしない。気力と根性で、懸命に借金を返済しようとする。
当初は陽介もそのつもりだった。二人で信じたのであれば、二人で苦労をわかちあえばいいと考えていた。
けれど先日の妊娠騒動で事情は一変した。愛する妻のお腹の中には、陽介と薫のかけがえのない分身がいるのである。
体を壊した挙句に流産なんて事態になったら、悔やんでも悔やみきれない。そして、そのことで一番責任を感じるのは新妻だとわかっていた。
そうした考えが頭の中を駆け巡り、夜もほとんど眠れずに陽介は「このままでいいのか」と自問自答する。
そんなある日、陽介はとうとう決断する。
陽介も薫も仕事を終え、夕食をとるためにテーブルへついている。
並べられるおかずは、やはり質素で充分な栄養を得られてるとは思えない。陽介ならばこれでもよかったが、身重の妻は違う。生まれてくる赤ちゃんのために、母体の健康を維持する必要がある。
なのに陽介ひとりでは借金を返しきれず、結局は妻の薫に無理をさせている。
これで本当に、幸せにする努力をしてると言えるのか。陽介は自分自身に腹を立てていた。
「どう……したの?」
押し黙ったまま何も発しない陽介へ、愛妻が心配そうに声をかけてくる。
妊娠発覚からすでに三ヶ月が経過しており、薫のお腹もだいぶ目立ってきている。
つわりとか色々あって当然なのに、陽介の前で辛そうにしてる姿を見せたことは一度もない。尋ねても「私は特別なのでしょうか」と笑うだけだが、そんなはずないのはよくわかっていた。
自分も大変なくせに、これ以上陽介へ負担をかけさせまいと無理しているのだ。そんな妻の姿を見るたび、己の無力さを噛み締める。
自分は無力じゃない。そう否定するより、陽介はプライドを捨てて認める方を選んだ。その決断を、妻にも教えようとしてるのである。
「……自己破産をしよう」
「え――?」
このまま無理をして借金返済を続けるより、周囲からどう思われようとも新たな一歩を築いた方がいい。何度も考え抜いた末に、今回の結論へ至った。
陽介にとって、世間体なんかより愛妻とお腹の中にいる赤ちゃんの方がよほど大事だった。そのためならば、いくら後ろ指を差されても耐える自信がある。
ただ難点は妻の薫だった。人を信じるという道を、強い心で歩んできた人間にとって、自己破産は敗北になるのではないか。それだけが気がかりで、ここまで言い出せなかった。
「別に生活が辛いわけじゃない。借金だって返していく自信はある。けど……生まれてくる子にも、俺たちと同じ暮らしをさせるのかと思ったら……な」
自己破産をしたからといって、すべてが楽になるとは限らない。様々なところから借金してるだけに、簡単には納得しないところもあるだろう。他にも色々な問題が発生してくるであろうことは、想像に難くなかった。
それでも自己破産をすれば、借金からは一応解放される。同時に、子供が借金取りに怯えるような事態も発生しなくなる。
世間様から後ろ指を差されるかもしれないが、とりあえずは平和な生活というものを送れる。陽介は自分のプライドよりも、そっちの方が大事に思えていた。
そのことを愛妻へ正直に告げた。これであとは、相手がどう考えてるかを聞くだけだ。反対意見があるものと想定していたが、薫は実にあっさり賛同してくれた。
「陽介さんがそこまで考えているのなら、私に反対する理由はないです。この子と一緒に、しっかりついていきます」
理解してもらえたのが何より嬉しかった。翌日には、弁護士のところへ行って相談してこようと、陽介は決めるのだった。
ギャンブルにハマっていたわけでなく、贅沢な生活を好んだりもしていない。単純に他人へ貸しただけだった。
事情も事情で、身重の妻とともに多額の借金に苦しんでいたこともあり、弁護士も熱心に相談へ乗ってくれた。
弁護士は警察へ被害届けを出し、お金を貸した男性の捜索も提案してくれたが、陽介は同行していた妻ともども首を左右に振った。
正式な契約書もないし、例の男性を捜し出すつもりはなかったのである。
「相手の方にも事情があったのでしょうし、仕方がないと思っています」
そう答える薫を見て、担当してくれている老年の弁護士が不可解そうな顔をした。
その様子に、思わず陽介は吹き出しそうになった。
雪村薫時代に出会った陽介も、最初はあんな感じだったなと当時を思い出した。
あれから結構な月日が経過しており、今では夫婦になっている。しかも、近々二人の愛の結晶まで誕生する。
だからこそ、身奇麗にしておきたかったのかもしれない。愛妻ほど人を信じられないものの、陽介も貸したお金に関しては諦めていた。
あとは静かに親子揃って生活できれば、何も文句はなかった。幸いにして仕事はある。
事前に上司にも相談しており、自己破産した場合でも変わらず勤務できると口頭で言ってもらっていた。
別に金持ちになって豪遊したいのではなく、ただ人間として当たり前の生活ができればいいのだ。それ以外は何も望まない。きっと妻の薫も同じ気持ちだろう。その点だけは自信があった。
「わかりました。それでは手続きを進めておきます。私の方から各債権者へ受任通知を送っておきますので、以降の督促には従わないでください」
夫婦揃って頷き、あとは弁護士に従って必要な書類などへ必要事項を記入していく。比較的安く評判の良い弁護士事務所を利用したおかげか、費用は分割払いでいいことになっていた。
調べたのと比べても法外な料金は要求されておらず、この部分だけは大いに助かっていた。
「自己破産をするということは、社会の落伍者になるということでありません。あくまでも困ってる人を再出発させるための、国の制度なのです。自己破産したからといって、下を向く必要はありませんよ」
「ありがとうございます。お世話になります」
優しい言葉をかけてくれた男性弁護士に、妻が丁寧にお辞儀をする。
自己破産はテレビドラマの中の話だけと思っていたのに、こうして今現在陽介たちの身に降りかかってきている。
まさに一寸先は闇で、一日してすべての状況が変わることもあり得る。改めて、現実の怖さを痛感していた。
けれどこれでひと息つける。あとは生活を立て直していくだけだ。未来へ向かって、陽介は気合を新たにするのだった。