25
「じゃあ……行ってくる」
「はい……いってらっしゃい」
出かける陽介に、見送ってくれる雪村薫。二人とも明るく振舞おうとしてるのだが、どうしても沈んだ空気になってしまう。それというのも、抱えた借金返済の目処が未だにたってないからだった。
金を貸した例の男性の携帯電話は繋がらず、何日経っても待ち合わせ場所へはやってこなかった。常に元気な雪村薫でさえ、ここ最近は笑顔がなくなっている。
自分が男性を信じたせいで、陽介へ迷惑をかけたと責任でも感じているのだろう。放っておくと、暴走しそうな気配だったので、何かにつけて問題ないと告げていた。
実際には問題大あり、どうやって返済すればいいかもわからない。利息の支払いさえままならないのだ。破綻するのも時間の問題だった。
男と出会って二ヶ月が経過しているが、ここまでもってるのは奇跡と言ってもいいぐらいだ。なんとかギリギリで踏ん張れているのは、雪村薫も働き場所を見つけて収入を得ているからだった。
正社員ではなくパートタイマーなものの、数万円でも稼いでくれるだけ大助かりである。
同棲生活を楽しむ恋人同士なんて雰囲気ではなく、質素で淡々とした生活が続けられていた。
これではいけないと思っているものの、陽介自体残業を増やして通常よりも稼ごうとしているのに加え、雪村薫も働いているためなかなか二人の時間をとれなかった。
それでも陽介は相手女性のことを想っていたし、恋人も同じ気持ちだと信じていた。だからこそ、ほとんど睡眠時間のない生活でも頑張れている。
早めに家を出て、延々と歩く。そうすれば電車代を使用しなくて済む。その分だけ、借金の返済へ回せるのだ。せこいかもしれないが、今の陽介はどんな些細な出費でも惜しむ必要があった。
お店で食品などを買うことはなくなり、最愛の恋人が作ってくれたお弁当で昼食を済ませる。飲み物はペットボトルに入れて、自宅から持参した水道水だった。
もともと贅沢志向のなかった陽介だけに、節約生活もそれほど苦でなかった。気がかりなのは、雪村薫に余計な心労を負わせてしまったことである。
やはり強引にでも、他人は全員疑えと教えるべきだったのか。極限の精神状況の中で、過去を悔やむ気持ちも生まれてくる。
けれど後悔したところで、事態が好転するわけではなかった。現状を認めつつ、何をするべきかを考えなければならない。そのためには、あくまで前を向く必要がある。
とにかく今は仕事に精を出して、正攻法で少しずつ借金を返済していくしかなかった。
集中して業務をこなすうちに午後となり、夕方になる。いつものごとく残業しようと考えている陽介の携帯電話が、珍しく鳴り出した。
マナーモードにしてなくても何も言われないため、普通に着信音が流れる。誰からだろうと思って、二つ折りの携帯電話を開くと、ディスプレイには雪村薫が勤めている会社の名前が表示されていた。
朝から夕方頃まで事務員として雇われており、この時間になればそろそろ自宅へ戻ってるはずだった。それがこの電話である。嫌な予感を覚えつつ、陽介は受話ボタンを押して「もしもし」と応じた。
「あ、申し訳ありません。そちらは、雪村薫さんの関係者の方ですか」
少し慌てたような感じに、ドクンと心臓が大きく脈打つ。もしかして、彼女に何かあったのだろうか。どんどん陽介の思考がネガティブに支配される。
祈るような気持ちで「そうですが……薫がどうかしたんですか?」と電話向こうの相手へ尋ねる。
「は、はい……それが……と、突然、倒れてしまって……」
電話をしてるのは中年の女性みたいだったが、相手も動転してるみたいで要領を得た説明がなかなかなされない。苛々する気持ちを抑えつつ、深呼吸でもして落ち着くようにアドバイスする。
「あ、ありがとうございます……な、なにぶん、こういう事態は初めてだったものですから……」
相手の気持ちは十分にわかった。陽介であったとしても、目の前で知人に倒れられたら、少なからずパニックになる。
女性と思われる電話相手へ「気にしないでください」と告げたあとで、改めて詳しい状況を尋ねる。
「雪村さんがもうすぐ帰宅するという時間に、いきなり倒れてしまったんです。本人は大丈夫だと言ってましたが、一応ウチの店長が付き添って病院へ連れていっています」
本人が大丈夫だと言ったということは、倒れた雪村薫には意識があったと考えて間違いない。本人はそのまま帰宅しようしたが、大事になったら会社の責任を問われる可能性もある。
何せ倒れた場所は会社なのだ。パートなのでそれほど厳しいシフトではないが、従業員が倒れた職場となれば以降の求人へ響くかもしれない。店長はそうした事態を恐れて、病院へ連れて行くという選択肢を選んだに違いなかった。
もちろん、単純な親切心というのも十分に考えられる。誰だって側で人が倒れたら、病院へ行くのを勧める。
「わかりました。それで、そちらの店長が薫を連れて向かったのは、どこの病院ですか」
年配と思われる女性から教えられた病院名をメモしつつ、陽介は今日の残業予定の変更を決定するのだった。
「……大丈夫か?」
病院へ着くと、ある程度の検査を終えた雪村薫が病室で休んでいた。
どうやら大きな異常はなさそうだが、念のために少し入院することを勧められた。
原因不明というのもなかなかに怖いので、節約心から帰りたがる雪村薫を説得して陽介は数日の入院を決めた。
付き添ってくれた店長は、陽介と入れ替わりでつい先ほど帰宅した。
わざわざ陽介が来るまで、待っててくれたのである。普通に歩いていたと思ったら、いきなり倒れたらしいので外的要因ではないとのことだった。
検査結果からもそう出てるので、陽介も会社の責任でないと認めて、店長には帰ってもらったのである。
「ごめんなさい……また、陽介さんに迷惑をかけてしまいましたね……」
「そんなのを気にする必要はない。それより、一体どうしたんだ」
「それが……私にもわからないんです。急に気持ち悪くなったと思ったら眩暈がして……でも、脳には何の異常もないらしくて……」
重篤な病でないのにはホッとしたが、まだ倒れた詳細な原因はわかってないのである。
とはいえ、陽介には大体予想がついていた。ここ数ヶ月で急激に事態が動いているため、心身ともに疲れきっていたのだろう。倒れるのも無理はなかった。
もっと自分が家でも気を遣ってやるべきだった。ひとり後悔する陽介の耳に、コツコツと急ぎ気味に近づいてくる足音が届いてきた。
何だろうと背後を振り向くと、病室のドアが開かれた。たまたま個室しか空いてなかったらしく、通常料金での使用となってる。
廊下から部屋へ入ってきたのは、白衣を着用した男性――つまりは病院の医師だった。
「丁度よかった。旦那さんもご一緒なのですね」
三十代半ばといった男性医師は、勝手に陽介を雪村薫の夫と決めつけ、反論を聞こうともせずに自分の言いたいことだけを口にする。
「雪村薫さんの倒れた原因がわかりました」
突然の展開に息を飲む陽介とは対照的に、病名を宣告しようとしてる男性医師は明るい笑顔を浮かべている。
病室とはあまりに不似合いな爽やかさに、さすがの陽介も不信感を覚える。
その直後に医師は緊張感の欠片もない声で「よかったですね」と口にした。
状況がわからず、ポカンとしていると、男性医師はやはり笑顔のままで陽介の肩にポンと手を置いた。
「おめでたですよ。これからは、奥さんにあまり無理をさせないでくださいね」
これまたいきなりの展開に、陽介はうまく言葉を作れなかった。
けれど一方の雪村薫に、それほど驚いたような感じはない。こういう事態になったら、普通は驚いて当然なのにも関わらずである。
疑念を抱いた陽介は、おもいきってベッドで横になっている恋人へ尋ねてみた。
「もしかして……知ってたのか?」
「……ごめんなさい。はっきりとではないけど、そうじゃないかな……って薄々は……」
新しい命を宿すのは母体なだけに、雪村薫が己の異変に気づかないはずがなかった。
喉元までこみあげてきた「どうして黙ってたんだ」という言葉を、すんでのところで陽介は飲み込んだ。その台詞を言わなくても、相手の気持ちが理解できたからである。
これだけ借金まみれの状況下で、妊娠の事実を告げれるはずもない。今はあまりにも時期が悪かった。
雪村薫からすれば、あくまで体調不良を願っていたに違いない。けれど運命に抗えるはずもなく、新しい命がお腹の中に誕生していた。
男性医師によれば、もう三ヶ月になってるとのことだった。
もう一度だけ「おめでとうございます」と祝福してくれたあとで、男性医師は個室から立ち去っていた。
母体に異常は見当たらなかったため、明日には退院の許可が下りるであろうことも教えてもらった。
二人きりになったはいいが、どちらもなかなか言葉を発せられなかった。
お互いどこを見たらいいかもわからずに、落ち着かない様子で視線をきょろきょろさせる。
ふと気づけば時刻は夜になっており、病院の窓にかけられているカーテンの隙間から室内へ闇が入り込んでくる。
「あの……」
やがて意を決したように、雪村薫が口を開いた。
重苦しい雰囲気の中で、先に女性へ発言させたことを悔いつつも、陽介の覚悟は決まっていた。
「……おろすなんて、言わないでくれよ」
相手の言葉を遮って、陽介はそう頼み込んだ。妊娠の事実に戸惑いはしたものの、決して後悔はしていなかった。
「せっかくできた俺たちの子供なんだ。健康に気を遣って、立派に産んでくれよ」
陽介の言葉を聞くなり、雪村薫は両目から大粒の涙をぼろぼろこぼした。
「……陽介さんのことですから、そう言ってくださると思ってました。だから……言い出せませんでした……」
その発言で確信する。やはり雪村薫は、陽介へさらなる負担をかけることになると判断していたのだ。ゆえにもしかしてと思いつつも、ひとりでずっと悩み苦しんでいたのである。
一緒に暮らしておきながら、忙しいという理由ひとつで気づけなかった自分自身に陽介は腹が立った。
加えて、素直に甘えてくれない雪村薫にも、同様の感情を抱いていた。
「俺を見損なうな。それに苦労するなんて誰が決めたんだ。嬉しくて、余計に仕事がはかどるとか考えないのか」
「ですが……元はと言えば私のせいで……」
「だから、俺を見損なうな。こうなったのは、誰のせいでもない。騙されても、騙されても、人を信じていけば、いつか必ず幸せが訪れる。それがお前の考えなんだろ」
「それは……でも……」
自分の信念を貫いたことに後悔はしてなくても、陽介を巻き込んだのに責任を感じてるのだ。それがとてつもなく悲しかった。
言い換えれば、雪村薫は陽介をまだ他人扱いしてるのだ。これが何より腹が立ち、悲しかった。
出会った経緯も、交際するに至った経緯も、とても普通とは表現できない。それでも陽介は確かに、ベッドの上で悲しげにしている女性を愛していた。
そこで陽介はこの問題を、一気に解決してしまおうと決意する。
「なあ、薫……俺と結婚してくれないか」