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「やめてください、陽介さん」
両手を広げて、陽介の前に立ち塞がった雪村薫が、制止の発言を繰り返す。人を信じられるのは長所と発言したのは確かだが、物事には限度というものがあった。
明らかに騙そうとしてる気配がプンプンしてるのに、最愛の女性を飛び込ませるわけにはいかなかった。
返済する当てがあるのならばしっかりと金融機関へ説明し、それなりの融資を受けようと努力するのが普通だ。それができないというのであれば、取引先が手を引いたも同然なのである。
金融機関のバックアップを失えば、大手企業であっても甚大な損害を被る。これが個人経営の会社となれば、被害の割合も圧倒的に多くなる。
返す当てなどあるはずもなく、雪村薫からお金を引っ張るための手段に他ならない。あくまでも陽介の推測にすぎないが、当たってる自信はあった。
そうなれば雪村薫までいらない借金を背負うはめになり、陽介にまで迷惑はかけられないと今の関係を解消したがるのは目に見えていた。
陽介自身、現在の生活を気に入っているし、何より雪村薫という女性に心の底から惚れていた。絶対に離したくなかったのである。
この一件で自分の独占欲の強さを知ったが、そんなものはどうでもよかった。とにかく今の陽介にあるのは、最愛の女性にこれ以上の苦労を背負わせないことだった。
「陽介さんの言いたいことはわかります。でもこの方は約束してくれました。この人の家族を救うためにも、私は信じてあげたいのです」
どうしようもないほどのお人好しぶりだった。そもそも、男へ本当に家族がいるのかさえ怪しかった。
疑う点を探せば、それこそ星の数ほど出てくるのに、一切目をつぶって相手の言い分を信じようというのである。
「先ほどの発言を、信じてもよろしいのですよね」
陽介から守るため、背後へ隠した男に雪村薫が再確認する。
「も、もちろんですっ! 必ず……必ず約束は守りますっ!!」
この状況なら誰だってそう言うに決まっていたが、まったく疑いもせずに雪村薫は安心したとばかりに頷いた。
そのあとで、どうですかとばかりに陽介を見てくる。クリクリとした大きめの瞳には迷いなど微塵もなく、キラキラと純粋な輝きを放っていた。
それに感化されてしまったのか、見つめあってるうちに陽介から怒りが消失していった。
大好きな女性が信じるのであれば、おもいきって自分も信じてみよう。そんな気分になっていた。
「わかった。もう止めない」
陽介がそう言うと、雪村薫は嬉しそうな、それでいて少しだけ申し訳なさそうな顔をする。
「その代わり、一千万は俺が用意する。それで文句ないな」
「は、はいっ! ありがとうございますっ!」
号泣しながら、深々と頭を下げる男性のすぐ側で「それは駄目ですっ」と大きな声が発せられた。
声の主は、もちろん雪村薫である。相手女性が何を言いたいかは、重々承知していた。
「なら聞くが、無職の女性がひとりで金を無心しにいって、貸してくれるようなところがあると思ってるのか?」
愚直なまでに人を信じる女性ではあるが、決して世間知らずではない。すぐにハッとした様子になり、続いてシュンとする。
もちろん探せば、貸してくれるところは少なからず存在する。けれど、そのためには自分の身を犠牲にしなければならない。男を信じてる雪村薫は躊躇いなく了承するだろうが、そんなのは陽介が耐えられなかった。
そこでアホらしいとは思いつつも、陽介自身が金策に走り回ろうと決めたのである。幸いにしてそれなりに貯金もあるし、危険な金融会社へ借金をしなくてもなんとかなりそうだった。
「心配しなくても、金を無駄にするつもりはない。薫が信じた人間なんだ。俺が信じたって問題はないだろ。この男は金を返済してくれる。それで問題はないはずだ」
自分も甘くなったものだと内心で苦笑しつつも、陽介はそう言って最愛の恋人へ笑ってみせるのだった。
陽介が用意するといっても、貯金だけで一千万円もあるはずがない。足りない分は数社の消費者金融を回ってなんとか調達した。
これで男性が雲隠れした日には、莫大な借金だけが残る。利息も結構な高額になるので、とても完済できる自信はなかった。
「ありがとうございますっ! これで会社は救われます。本当に何とお礼を言ったらいいのか……」
「お礼はいいから、きちんと返してくれよ。一気に全額は無理なら、可能な分だけでもいい。こっちは利息の支払いだけでも、かなりあるんだ」
大手だけでなく、広告などを出さないような小さな消費者金融にまで手を伸ばしていた。払えなければどうなるかなんて、いちいち考えるまでもなかった。
まともな返済を試みようにも、月々の返済額は陽介の収入を上回っている。どう頑張っても、正攻法で後始末するのは不可能だった。
しのぐためには新たな借金を重ねるしかなく、すぐに資金繰りに困ることになるのは想像に硬くない。すべては目の前の男にかかっていた。
「もちろんですっ! 皆を喜ばせてあげたいので、私はこれで失礼しますっ!」
満面の笑顔で陽介の手を両手で握ったあと、男はブンブンと上下に振る。
借金ができて喜ぶのはわかるが、貸した方はきちんと返済してもらえるか気が気でない。とはいえ、もう決めたことなのだから、今さらどうしようもなかった。
あとは陽介にできることなどなく、それこそ男を信じるしかなかった。
携帯電話の番号を教えてもらい、来月の返済日前に例の公園で待ち合わせることを決める。
きちんと借用書に署名と拇印を貰いたかったが、男は自分で用意して必ず後日持ってくるの一点張りだった。
この時点で相当怪しいのだが、雪村薫が「この方も大変なんでしょう」と理解を示したので、男の申し出を了承した。
一千万円が入った紙袋を手にした男が、嬉しそうに走り去っていくのを眺めながら、陽介は雪村薫に「これでよかったのか」と尋ねる。
「私自身に後悔はありません。ですが……陽介さんまで巻き込んでしまって、申し訳なく思っています……」
他人を信じた末に自分はどうなってもいいが、他人に害が及ぶのは耐えられない。恋人が何を考えているかなんて、聞くまでもなくわかっていた。
「気にするな。俺はそんなお前が好きなんだ。薫は薫のままでいいんだよ」
幼子をあやすみたいに頭の上へ手を置き、そのまま優しく撫でてやる。
すると少しだけくすぐったそうにしながらも、どこか嬉しげに雪村薫は鼻を鳴らした。
「……ありがとうございます」
桜の花びらに負けないくらい頬が美しい色に染まり、見ている陽介まで照れてしまう。だいぶ慣れたと思っていたが、まだまだふとした仕草で相手にドキっとする。
そのおかげかは不明だが、相手への想いは一切色褪せたりしてなかった。
「さて、帰るか。そろそろ晩飯の仕度をしないとな」
陽介がそう言うと、思い出したように雪村薫が頷いた。
すでに街並みは金色に輝きだしており、夜のカーテンが引かれる前の余韻へ突入していた。
「そうですね……帰りましょう」
陽介が差し出した手を雪村薫がしっかり握り、これまでで一番強く繋がった。
それが雪村薫なりの感謝のしるしであると理解した陽介は、負けないぐらい握りかえすことによって、言葉ではなく態度でもう一度「気にするな」と最愛の恋人へ示したのだった。
そして時は流れ、いよいよ運命の日がやってくる。
待ち合わせ場所は、陽介が初めて雪村薫と出会った例の公園。時刻は会社の昼休み。日時及び場所ともに指定どおりだった。
にも関わらず、あの男の姿は見えない。ため息をつきつつ、陽介は「やっぱりな」と呟く。金を貸した時点で、こうなる可能性は十分に承知していた。
それでも相手へ大金を貸したのは、最愛の恋人が男を信じたからである。陽介もそれに倣い、ガラにもなく他人を信用してみた。その結果がこれである。
チラリと腕時計に視線を向ければ、すでに昼休みが終わろうとしていた。仕事をサボるわけにもいかないので、とりあえず会社へ戻るしかなかった。
仕事をしながらも、陽介は時折会社の窓から公園の様子を窺ってみた。けれどベンチの側に、例の男性は現れなかった。
業務を終了し、会社を出ると、真っ直ぐに待ち合わせの場所に指定していた公園へ向かう。そこで陽介が見たのは、寂しそうにベンチへ座っている雪村薫の姿だった。
「……ごめんなさい……」
出会って初めて聞くようなか細い声だった。瞳には薄っすらと涙が滲んでおり、目元には何度も拭き取った痕がある。
家を出る前に、待ち合わせ場所へは陽介ひとりで行くと告げていたのだが、どうやら気になって来ていたみたいだった。
「いつからだ?」
尋ねた陽介に、肩を落としている雪村薫は「……最初からです」と小さく答えた。
陽介が会社の昼休みに男を待っている時から、どこかに隠れて状況を見守っていたのだろう。そしてベンチ前に誰もいなくなると、そこに座って男を待ち始めたのだ。すべて説明されたわけではないが、大体の予測はついた。
「……ごめんなさい……」
雪村薫が、もう一度同じ謝罪の言葉を発した。
普通なら「だから言っただろう」と怒るところかもしれないが、陽介は無言のまま、静かに首を左右へ振った。
「まだ今日が終わったわけじゃない。それに、人を信じるのが薫のモットーだろ? お前がそんなだと、俺まで調子が狂っちまう」
小さく震えてる肩に手を置き、恋人が顔を上げたとこで陽介はなおも言葉を続ける。
「きっと、とてつもない渋滞に巻き込まれてるんです……ぐらいは言ってくれないとな」
からかうように笑ってやると、雪村薫は「もうっ」と頬をぷくーっと膨らませた。
まるで小さな子供みたいな仕草を可愛らしく思うと同時に、どこかホッとした気分になる。
普段は元気な恋人が落ち込んでいると、こちらの心までどことなく暗く沈んでしまう。それは決して、心地よいものではなかった。
「陽介さん、酷いです。でも……そのとおりですね。私、最後まで信じてみます」
「ああ。俺もだ」
頷いた陽介は雪村薫の隣へ並んで座り、ひたすら例の男性を待ち続けた。
夕暮れが通り過ぎ、空が墨を流しこまれたような漆黒へ染まる。
闇を嫌う星々が、月とともに美しい輝きを提供してくれる。
寒くなってくれば肩を寄せ合い、お腹が空いたりすればどちらかが食料などを調達してくる。
そうして気づけば、すでに日付が変わろうとしていた。陽介の携帯電話には、先ほどから利息を催促する金融会社からの電話が鳴りっぱなしだった。
「タイムリミットか……」
陽介がベンチから立ち上がると、雪村薫もまた心細そうに後へ続いた。
例の男による今日中の返済が厳しくなったからには、陽介が利息分だけでも何とかする必要があった。
金融機関から借り入れをしてるのは例の男でなく、あくまでも陽介の名義なのだ。とはいえ、手持ちでなんとかできるような金額ではなかった。
そこでまだ金額に余裕のある場所から新たに借り入れ、差し迫ってる会社の分だけをとりあえず返済する。
ATMで操作したあと、それぞれの金融会社へ電話をかけて、明日には振込みを確認できる旨を伝える。
「これで……なんとかなったな」
一連の作業を終えて、ATMのコーナーから街中へ戻ると、雪村薫が顔を俯かせて待っていた。