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転機というのは、本人の心の準備ができてる、できてないに関わらず、突然やってくる。
会社が休みの日に、陽介は雪村薫と一緒に買い物へ出かけていた。
この頃はすっかり打ち解けており、別々の場所で眠ることもなくなっていた。毎晩、同じベッドで夜をともにしている。
次第に口調も親しげなものへ変わり、陽介も相手女性へ無意味な遠慮をしなくなっている。
この日も手を繋ぎながら、食材を調達しにきていた。映画を見た帰りで、あとは帰宅して一緒に夕食を作ろうということになった。
スーパーでの買い物を終えて、店から出た瞬間に、運命が悪戯っぽく笑いながら襲いかかってきた。
「あ……!」
声を上げた雪村薫の視線の先には、男性がひとり立っていた。
手を繋いだまま隣にいる陽介は、最初友人だろうと判断した。けれど、切羽詰った恋人の反応が、違うと教えてくれた。
誰なのかとよくよく目をこらせば、薄っすらと陽介の記憶の中にも男の顔が存在していた。
「――あっ!」
先ほどの雪村薫に引き続いて、陽介もまた唐突に声を発してしまった。
視界に映っている男性は、いつか公園で雪村薫と対峙していた人間だったのだ。つまり、金を貸したと言っていた人物なのである。
男は一瞬ギクリとしたように見えたが、逃げようとはせず、逆にこちらへ一直線に向かってきた。
「お久しぶりです」
ヨレヨレのスーツを着ている男は、三十代後半ぐらいで、なかなか整った顔立ちをしている。
疲れきった表情を浮かべているものの、どこかのホストと自称しても通用しそうなレベルだった。
いけしゃあしゃあと挨拶してきた男に対して、よせばいいのに雪村薫は「お久しぶりです」と丁寧な仕草で言葉を返した。
「今日は、彼氏さんと一緒ですか」
目線を向けられた陽介は、それ以上喋るなとばかりに相手男性を睨みつける、
名前も知らない人物に対して失礼極まりない行為だが、そもそもこの男のせいで雪村薫は貯金を失うはめになったのだ。そう考えると、どうにも許す気にはなれなかった。
だが隣にいる恋人は、そんな陽介の気持ちを知らずに、にこにこといつもどおりの笑顔を浮かべている。
憎き相手であるはずなのだから、出会うなら怒鳴り散らしてもおかしくないのに、平静を保って男性と向かい合ってるのだ。その神経が、陽介には若干理解できなかった。
「ええ、そうです。それより、こちらにいらっしゃるということは、窮地を切り抜けられたと解釈してよろしいのですか?」
久しぶりにきく懇切丁寧な言葉遣いだった。相手を不快にさせないよう気遣いながら、雪村薫はお金を貸している男性の現状を尋ねる。
「それが……」
愛想笑いを浮かべていた男性の顔が、一瞬にして曇る。現状が芳しくないと言ってるようなものだった。
「貴女のおかげでなんとか最大の危機は乗り切れたのですが、未だにピンチは続いています。ですから、こうして色々と金策に走り回ってるのです」
「そうなのですか……」
相手に合わせて、何故か雪村薫まで気持ちを沈ませている。貸した金を持ち逃げされたと断言しても構わない状況だったのに、まだ目の前の男性を信じてるのである。
一緒になった沈痛な面持ちをした挙句に、心から相手男性を思いやっている。陽介が雪村薫の立場ならば、とてもじゃないがそんな顔はできない。それどころか、親の仇とばかりに詰め寄って胸倉を掴んでいたに違いなかった。
早く金を返せというのかと思いきや、雪村薫はその問題に一切触れず、あろうことか「挫けないで、頑張ってくださいね」と名前も知らない相手男性を励ました。
隣にいる陽介だけでなく、金を借りたままの男性もショックを受けたみたいで、面白いぐらいに目を大きく見開いていた。
次の瞬間、またもやとんでもない事態が発生した。
あろうことか、金を借りたままの男が雪村薫に土下座したのである。
陽介には何の意味かすぐにわかったものの、隣にいる恋人は違った。男性が地べたにひれ伏すのはよくないと、すぐに「止めてください」と相手を立ち上がらせる。
「こんなことを頼めた義理ではないと、重々承知しているのですが――」
相手男性がそこまで口にした時、とうとう陽介の我慢も限界を迎えた。
「じゃあ、頼むなよ」
切れ味鋭いひと言で、スパッと相手男性を一刀両断する。
それきり男は何も言えなくなり、涙ぐんだ目を伏せて、視線を足元へ落した。
そんな姿を見て、陽介はいい気味だと思ったが、雪村薫の感想はまったく異なるものだった。
貯金を全額持ち逃げされたに等しいにも関わらず、まだ相手男性の話を聞こうとする。
挙句に、陽介へ「相手の言葉を遮っては駄目です」と注意までしてくる始末だった。
どこまでおめでたい脳構造をしてるんだと思いつつも、他人を信じる人生を歩めと雪村薫の背中を押したのは、他ならぬ陽介自身だったと気づいた。
これが最愛の女性の短所であり、長所でもあるのだ。ため息混じりに「そうだな」と恋人の言い分を認める。
陽介が「話せよ」と言うと、相手男性は横目で様子を窺いつつ、雪村薫へ申し訳なさそうに切り出した。
「このままでは、家族全員路頭に迷ってしまうのです。無理なご相談だと存じておりますが、少しでもいいのでお金を貸していただけたらと……」
先ほどのやりとりがあったばかりなだけに、これ以上は口を挟むまいと決めたばかりの陽介であったが、男のあまりにあんまりな頼みでこめかみに血管が浮かび上がってくるのがわかった。
新たに借りたいのであれば、先に残っている借金を返済してから頼むべきだ。それが人として、通すべき最低限の筋に思えた。
怒りをギリギリで堪え、チラリと雪村薫を見ると、もの凄く悲しそうな顔をしていた。
「なんとかしてさしあげたいのですが、この間お貸ししたのが全財産なのです。申し訳ありませんが、私にはもう……」
もともとは金銭面での不安から、陽介との同居を受け入れたのだ。そのような経緯を辿ってきただけに、さすがの雪村薫も相手男性のお願いを二つ返事で承諾することはなかった。
「そうですか……そうですよね……失礼しました。お金を貸してくれる金融機関もなく、途方に暮れていたところで、貴女に出会ったものですから……ずいぶんと厚かましいお願いをしてしまいました」
そのとおりだと、心の中で毒づく陽介を尻目に、雪村薫は何かを思案している様子だった。
隣で嫌な予感をふくらませていると、現実へ移行しそうな展開を見せ始める。
「……あと、どのくらいあれば家族を救えるのでしょうか」
相手の家族を救う前に、自分のことを考えてほしかったが、こうなるともう止まらないのが雪村薫である。
「私は個人で会社を営んでいるのですが、もう少しで大きな取引が叶うのです。しかし、それにはあと一千万ほどの資金が必要なのです」
「一千万!?」
個人とはいえ、会社を経営している人間には驚く額でないのかもしれないが、ただの一般人である陽介には眩暈を覚えるほどの大金だった。
もちろん、貸してくれと言われて、ポンと出せる金額でもない。だが男は、実にあっさり一千万と口にした。
借りれる見込みがなければ、わざわざ額を告げたりしない。ほんのわずかにしろ、可能性があると男が判断してる証拠だった。
その際の基準は一体どこにあるのか、考えればすぐに出てくる。雪村薫が、最初に男へ貸してやった金額である。
「おいおい……」
気がつけば、陽介の口からそんな呟きが漏れていた。誰に言ったわけでなく、ついこぼれてしまった。
一体どれほどの金額を、見ず知らずの他人へ貸してやったのか。今さらながらに、詳細な話を聞くのが怖くなった。
人を信じたいと生きてきた雪村薫だからこそできた芸当であり、これが陽介だったら「アホ言うな」とひと言で片がついている。
そうした事態になっていたとしても、冷徹な人間だと責められたりはしない、陽介のみならず、この世界に暮らす大多数の人間が同じ行動をとるからである。
むしろそれが当然であり、雪村薫みたいなタイプが珍しいのだ。他人を疑わず、言われたままの台詞をそのまま信じる。
言葉にすれば容易く思えるが、実際は無理難題と言っても過言ではないくらいの信念だった。
手持ちがあれば、また迷わずに貸したかもしれないが、生憎と現在の雪村薫に貯金なんてものはない。要するに、どう足掻いても一千万なんて大金は用意できるはずがないのだ。それは当人も重々承知している。
だからこそ先ほど、断るような台詞を発したのである。この世の事象を人間が正解、不正解と決めるのはおこがましいが、今回の事態に関しては間違ってないように思えた。
このまま相手を見放したとしても、基本的に知らない人間であり、すでに雪村薫はそれなりの金銭を貸し与えている。罪悪感を感じる必要など、まったくなかった。
「……借りたお金を、返済できる当てはあるのですね?」
「も、もちろんですっ!」
陽介が再び「おいおい……」と呟くより先に、名前も知らない男が想定してなかった展開への入口を見つけて歓喜していた。
「必ず三ヵ月後にはご返済いたします。この間お貸しいただいた五百万円と合わせて、絶対に!」
よほど切羽詰ってるのだろう。男はこめかみに血管を浮かび上がらせながら、雪村薫へ迫っていた。
恋人へ超接近してる相手を振り払う気力もないぐらい、陽介もまたかなりの眩暈を覚えていた。
知りたくないと思っていた金額を知ってしまったからだ。たいした額ではないと、勝手に判断していた陽介が愚かだった。
基本的に雪村薫は、浪費するようなタイプではない。まだそれほど長期間でないとはいえ、一緒に暮らしているのだから確かだった。
そんな女性が会社の寮などに住んでいれば、ますます余計な出費は減る。言い換えると、貯金が増えるということになる。
本人からしてみれば、それほど苦労して溜めたわけではないのだろうが、せっかくの貯金を見ず知らずの他人へ貸すというのは勿体無いにもほどがある。
もっとも、基本的には雪村薫の問題なので、陽介があれこれと口を出すわけにはいかなかった。
それゆえに、まだ状況を黙って見守っているのだが、雲行きはどんどん怪しくなり始めていた。
「……わかりました。それほどおっしゃるのでしたら、私が借金をしてご用立ていたします」
「――ちょ、ちょっと待てっ!」
さすがにこれ以上の暴走は許容できなくなり、慌てて陽介は無謀な行動に出ようとする恋人を制止した。
無職で担保もない。普通はそんな人間が、一千万も用意できるはずがなかった。
しかしこと雪村薫のような美貌豊かな女性となると、若干話も変わってくる。
あまり真っ当と呼べない金融会社が、特殊な担保で融資する可能性がある。それこそが、陽介の考える最悪の事態だった。
なんとか思い止まらせようとするが、すでに決意してしまったらしく、陽介の頼みであっても覆すのは難しかった。
「お前、心が痛まないのか!? 言ってることが本当だとして、自分の家族だけが救えれば満足か!? 他の人間はどうなっても構わないってのか!!」
「ひ、ひいいっ!」
なんとも情けない声で怯える男を庇ったのは、被害を一番被ってるはずの雪村薫だった。