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「いってらっしゃいませ」

 旅館の女性従業員に見送られながら、旅行二日目の朝に、陽介は雪村薫と出かけた。

 パンフレットを片手に名所と呼ばれる観光地をまわっては、その地の土産屋なんかを冷やかしてみる。

 途中で見つけた食堂へ立ち寄り、珍しいメニューがあれば迷わずに頼んだ。同行中の女性と、味の論評が中心の会話と食事を楽しむ。普通の日常では味わえない貴重なひとコマだった。

 風景をゆっくり楽しみたいという同行女性からの申し出で、タクシーなどは必要最低限の利用にとどめ、可能な限りは徒歩で移動をした。

 どちらからともなく手を握り、色々と見て回ってる間中、陽介と雪村薫の手はしっかり繋がったままだった。

 互いの温もりを感じながら、時折目が合っては頬を赤らめる。これはどこの青春ロマンスだというシーンの連続に、陽介は自分で自分が恥ずかしくなった。

 それでも照れ隠しから、手を離したりしなかったのは、隣にいる女性へ対する確かな愛情があったからだった。

 最初は小さな芽にすぎなかったものが、今では陽介の心の中で大輪の花を咲かせている。幸せというものを、これほどまでに感じたのは初めてだった。

「あれも美味しそう」

 道中でふと見つけた和菓子屋の店頭に並んでいる三色団子を見ながら、雪村薫が誰にとはなく呟いた。

 すぐ側にいる陽介が聞き逃すはずもなく、相手女性の視線を目で追っていく。すると、すぐに雪村薫お目当ての団子を見つけることができた。

 花見団子みたいに、小さな団子が串で三つ縦に揃えられている。白と緑とピンクと色とりどりで、舌で味わう前に目を楽しませてくれる。

「確かに美味そうだが……よく食うな」

 旅館を出てからというもの、結構な量を胃袋へ収めていた。すでに正午を回っているが、朝食と昼食の他に揚げ豆腐や揚げ饅頭など、おやつとして様々なメニューを平らげてきている。

 朝食や昼食を控えているならそれもわかるが、雪村薫は陽介と一緒に旅館を出発する前にバイキングで空腹を満たしている。

 そして先ほど昼食にと入った食堂でも、普通に焼き魚定食を完食していた。その直後に、先ほどの発言が出たのである。

 よく甘いものは別腹と女性が言ってるのを聞くが、どうやら隣にいる女性もその点は同じみたいだった。

「そ、そうですね……すみません」

 怒られてると判断したのか、少しシュンとした様子で女性が謝罪してきた。

 昨夜の一件以来、他人行儀なところはだいぶなくなったが、やはりまだ遠慮が残っているらしかった。

「別に怒ってない。感心しただけだ。それに……その……女性は、少しくらい……何だ……力強い方がいい」

 自分にも悪い点があったと反省し、陽介なりにフォローしたつもりだったが、相手女性はホッとするどころかクスクス笑い出した。

 何か変なことでも言ってしまったのかと、不審がっている陽介に雪村薫が再び「ごめんなさい」と謝ってきた。

「杜若さん……それ、あまりフォローになっていませんよ」

「え? そ、そうか……」

「でも、嬉しいです。気を遣っていただいて、ありがとうございます」

 丁寧にお辞儀する雪村薫へ、この際だからと陽介はかねてより思っていたことを口にする。

「そんなに丁寧に接する必要はない。普段どおりにしてくれてればいいんだ」

 夜を共にしたとはいえ、あまりに丁寧すぎると、二人の距離が縮まってないのではないかと不安になる。

 我ながら女々しいと思ってこれまで言葉にしてこなかったが、とうとう自分の感情を抑えきれなくなった。

「それと杜若さんって言い方も変えてほしい。さん付けなんてしなくていい」

 相手に本音を言わせるためには、陽介も己の心へ正直になるべきだと判断した。

 やや考えてから、相手女性は微笑みとともに「わかりました」と言葉を紡いだ。けれどその直後に「その代わり……」と交換条件を出してきた。

「杜若さんも、私のことをお前ではなくて、きちんと名前で呼んでくださいね」

 自分から言い出した手前、雪村薫の言い分を拒否するわけにはいかなかった。

 互いに善処すると約束したはいいものの、そこから先は言葉が続かない。何を言ったらいいのか、さっぱりわからないのだ。困り果てた陽介の視界に映ったのが、先ほどの和菓子屋だった。

「せっかくだから、団子を買っていくか。雪村……薫?」

 名字と名前、どちらで呼ぶべきか決めきれず、なんとも中途半端になってしまった。

「薫でいいですよ……かき――いいえ、陽介さん」

「お、おう」

 思わず偉そうな返事をしてしまった。名前で呼ばれて、ここまで照れるとはまったく想定してなかった。

 けれど呼び名に関する要望を出したのは、他ならぬ陽介だ。今さらなかったことにしようなんて、言えるはずもない。先ほどの呼ばれ方に慣れるしかないのである。

 また微妙な空気が二人の間を流れたが、次第に和らいでいくと、それが必然であるかのように手を握り合ったまま、土産物屋へ入っていくのだった。


 当初に予定していたより、今回の旅行はずっと楽しいものになった。

 日中は二人で観光スポットへ出かけ、景色やその土地ならではの土産物や食事を楽しむ。それほど名所ではないため、人もほどよくおらず静かな雰囲気の中で落ち着いて過ごせた。

 旅館へ戻ればわりと豪勢な食事と、心配りが行き届いたサービスを受けられる。

 仲居さんは毎晩、気を遣って布団を二つ並べて用意してくれたが、朝になってシーツが乱れているのは、どちらかひとつだけだった。

 主に求めるのは陽介からだったが、相手女性は嫌な顔ひとつせずにすべて応じてくれた。

 そして気がつけば、あっという間に帰宅する日になっていた。

「楽しかった日々も終わりですね」

 まだ若干の丁寧さが口調に残っているものの、声にはこれまでみたいなよそよそしさはない。旅館で過ごしてるうちに、雪村薫が陽介に心を許してくれたのが実感できる。

 かくいう陽介も、状況は似たようなものだった。平然と冗談も言えるようになっており、このところはよく相手女性をからかって遊んでいた。

 そのたびに雪村薫は頬をぷくーっと膨らませていじけるのだが、それがたまらなく可愛かった。

 自分にこういう一面があったのかと驚くと同時に、陽介はまるで何か悪いウイルスでも貰ったみたいだと苦笑する。

 これでいいのかはわからないが、未だかつてないぐらい心はポカポカ温かかった。

 本気で虐めてるわけではないので、謝ればすぐに相手女性も機嫌を直してくれた。そのたびに笑いあっては、お互いの存在がすぐ側にあるのを確かめる。

 決して離したくないと願い、これが本気で人を好きになることなのだと理解する。雪村薫はどう思ってるか知らないけれど、陽介は心からこの旅行へ来てよかったと思っていた。

 ほんの数日過ごしただけなのに、旅行の拠点としてきた部屋にもの凄い愛着が湧いていた。名残惜しかったが、チェックアウトの時間はすぐそこまで迫っている。

「こっちの準備は終わりましたよ。陽介さんはどうですか?」

 もともと持ってきた荷物自体が少なく、誰かにお土産を買ったわけでもないので、帰り支度にそれほど時間をとられなかった。

 すでに荷物はまとめられており、いつでも旅館を出発できる状態になっていた。

 そのことを告げると相手女性は良かったとばかりに頷き、自分の荷物を片手にゆっくり立ち上がる。

 陽介も座っていた畳の感触に別れを告げ、雪村薫に倣って尻を浮かせたあとで床にしっかりと足をつく。いよいよこの旅館ともお別れである。

「ありがとうございました。是非、またいらしてください」

 女将がわざわざ旅館の外まで見送ってくれ、会釈をしてから陽介と雪村薫は呼んでもらったタクシーへ乗り込む。あとは来た時同様に、電車で自宅へ戻るだけだった。

 こうして、数日間に及んだ夢のような旅行は終わりを告げた。明日からまた仕事だと思えば多少ウンザリしたが、それでも以前よりはやる気があった。

 雪村薫のためにと企画した旅行だったが、誰より陽介に一番の好影響をもたらしてくれたのかもしれない。横目で隣にいる恋人を眺めながら、そんなことを考えるのだった。


 翌日以降は基本的に元の生活へ戻った。だが、多少は違う点もある。

 陽介は普通に会社へ出勤するが、恋人となった同居女性は重点的に家事をこなして、よほど時間がある時でなければ職業安定所へ通わなくなった。

 陽介が無理に仕事を探すより、家にいてほしいと懇願したおかげで、渋々ながらも了承してくれたのだ。これで余計な心配をせず、仕事へ集中できる環境も整った。

 それほど高給取りではないが、二人分の生活費ぐらいはなんとか稼げる。それゆえに、働くのは陽介ひとりだけでも十分なのである。

 幸いにして貯金もそれなりにあるので、生活に窮する可能性は低いといえた。

「ふう……」

 いつもの電車に乗り、出勤した陽介は、自分のデスクで仕事をしながらため息をつく。旅行で心身ともにリフレッシュできたが、そのせいで発生したブランクのせいで思うように進んでなかった。

 たった数日間だけなのに、長期休暇明けみたいな状態になっている。これでは駄目だと自分に喝をいれつつ、陽介はより真剣に仕事へ取り組む。そして気がつけばお昼になっていた。

 集中できたおかげで、本日分のノルマもきっちりこなせそうだった。安堵を覚えたが、それも一瞬だけで、陽介の意識はすぐに昼食へと向けられる。

 いつもなら出勤途中に購入するコンビニ飯なのだが、最近は状況が一変していた。雪村薫が毎日お弁当を作ってくれ、朝に陽介へ持たせてくれる。

 始めのうちはやたら豪華だったりもしたが、近頃は陽介の好みを理解してくれて、量も味も素材もかなりいい具合になっていた。

 ジュースだけは会社の自動販売機で購入し、他の社員が昼食へ出かけたりする中で、陽介はひとりにこやかに弁当を平らげる。

 人との付き合いに積極的でなかった陽介だったが、こういうのもいいかもしれないと思い始めていた。

 それもこれもすべて、同居している恋人のおかげだった。心の中で感謝の気持ちを伝えつつ、文字どおり米粒ひとつ残さずに弁当箱を空にする。

 食後にジュースを飲みながらゆっくりしていると、午後の仕事への意欲が養われる。また頑張ろうという気持ちになり、仕事もはかどる。

「さあて、仕事にとりかかるかな」

 一生懸命に仕事をして帰宅すれば、自宅で最愛の女性が夕食やお風呂の準備をして待ってくれている。

 誰かが自分を待っててくれる証の明かりが、なんともいえない温もりに感じられ、夜道を帰ってきた陽介をホッとさせてくれる。

 そのシーンだけを楽しみに目の前のPCと対峙し、両手をフルスピードで活動させる。

 辛くなった時には「おかえりなさい」と、玄関で出迎えてくれる雪村薫の笑顔を思い出す。それだけで、気力が回復した。

 本当に幸せだと感じており、この生活がずっと続けばいいと願っていた。

 この世に不変など存在しないと理解していながら、それを求めてる自分自身に矛盾を覚え、陽介は会社のデスクで苦笑する。

 そしてこれからすこし後、二人の運命を左右する出来事が訪れる。だが、今の陽介と雪村薫にそれを知るすべはなかった。

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