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「ふーっ。とっても、美味しかったですね」
運ばれてきた料理を平らげたあとで、雪村薫が満面の笑みを浮かべた。
男の陽介でさえ、若干多いなと少し残したメニューを、女性の雪村薫があっさり完食してしまったのである。
普段は同じ料理を食べてるだけに感じにくかったが、もしかしたら相手女性はかなりの大食家なのかもしれない。もっともそんなことを口にしようものなら失礼にあたるので、感想は陽介の心の中へしまいこんでおくことにする。
リーズナブルな料金設定の宿のわりには、新鮮な海産物をふんだんに使用した豪華な夕食だった。
準備をしてくれた仲居さんに尋ねたところ、料金は安くても食事には力を入れてるとの回答があった。
安い宿泊料金に何かプラスワンがなければ、この不況下では生き残っていけないのだろう。サービス業の厳しさを垣間見たような気がした。
もっとも陽介は旅館の従業員ではなく客のため、そんな事情にいちいち考慮する必要はない。きちんとお金を払うのだから、サービスを心行くまで楽しめばいいのだ。むしろ、それが安くて質の良いサービスを提供してくれる旅館への恩返しとなる。
食事を終えたあとは、同居女性が淹れてくれたお茶を飲みながら、今回の旅についてどちらからともなく、あれこれと話し始める。
思いがけない豪華な料理でテンションが上がったのか、会話は普段よりもずっと弾んでいた。内容的には、温泉の質がどうだったのなど他愛もないことばかりなのだが、何故かそれでも凄く楽しかった。
夕食の後片付けに来てくれた仲居さんとも何気ない会話を交わし、ほんの少しの時間談笑する。
仲居さんがいなくなったあともお喋りは続き、気がつけばすでに午前零時を過ぎていた。
まだ初日であり、言うなれば始まったばかりなのだ。旅の醍醐味とはいえ、いきなり夜更かししすぎるのもよくないと、陽介と雪村薫は早めの就寝を決めた。
部屋は大きく二つに分かれており、現在は長テーブルが置かれている部屋にいる。主に会話を楽しんだり、食事をとったりする場所だった。
縁側も存在しており、室内の様子によく似合う竹で作られた椅子が二つ、向かい合うように置かれている。
縁側窓からは旅館の中庭が観賞でき、遠くには壮大な山の陰も見える。ここからの眺めだけでも、かなりのものである。
もうひとつは、現在いる部屋とふすま一枚隔てたところにある寝室だ。同じく畳が敷かれた和室になっているが、先ほど夕食の後片付けに来た際、仲居さんが布団の準備をしてくれていたはずだった。
話に夢中で確認を怠っていたが、ここまでのサービスで特に問題点は存在しない。従業員がきちんと教育されている証であり、凡ミスなどは考えにくい。そう判断して、陽介がふすまを開けた。
「え……」
電気は消えており、現在の部屋から漏れているわずかな光が内部を照らしている。
浮かび上がるように見えたのは、ぴっちりと隙間なく、二つ並べられた布団だった。
迂闊なことに、こうした可能性を失念していた。旅館へ来る時に利用したタクシーの運転手と同様の感想を、旅館の従業員が抱いても何の不思議もなかった。
寝床の用意をしてくれた仲居さんは、陽介と雪村薫を夫婦と判断し、気を利かせて布団を密着させてくれたのである。
だが実際は夫婦などでなく、プラトニックな関係を続けている。まさに小さな親切、大きさお世話だ。陽介は慌てて、布団を離すことを雪村薫へ提案する。
同居している部屋でも、寝る場所は別々なのだ。同じ部屋を予約したのは、あくまで旅費を安く済ませるためだった。
内心の動揺を悟られないように振舞う陽介だったが、ここで相手女性から驚きの台詞が放たれた。
「私なら……大丈夫ですよ」
あまりに唐突すぎた発言に陽介は戸惑い、思わずどもり気味に「え、ええ!?」と声を上げてしまった。
大丈夫とは何が大丈夫で、ナニが大丈夫なのか。訳のわからない思考が頭の中をグルグル巡り、陽介は混乱の世界へいざなわれる。
どう対処するべきか迷ってる陽介へ、相手女性が己の意思を伝えるべく、再度頷いてみせた。
真っ直ぐにこちらの目を見つめてくる雪村薫の瞳に、迷いは微塵もなかった。
もしかしたら二人きりでの旅行に応じてくれた時から、こうした事態を想定していたのかもしれない。もちろん、陽介も想像していなかったといえば嘘になる。
けれどここまで唐突に、そのチャンスが訪れるとは思ってもいなかった。加えて、陽介には気になる点がひとつだけあった。
それは雪村薫が、必要以上に他人を気遣う女性であるということだった。
いつになく真剣な気持ちになって、陽介は相手女性に話しかける。
心の持ちようが表情にも出ていたのか、雪村薫もこれ以上ない真面目な顔で陽介の次の言葉を待っている。
「もし……お礼か何かのつもりなら、俺はいらない。俺は――」
「……勘違いしないでください」
陽介の言葉が途中だったにもかかわらず、相手女性によってぴしゃりと遮断されてしまった。
「お礼なんかではありません。でも……杜若さんがお嫌でしたら、お布団を離すことにしましょう」
借りを返すようなためではなく、お互いの気持ちが一致しての展開なら、お嫌どころかむしろ大歓迎だ。陽介とて、あらゆる意味で人並みの男性なのである。
「俺は……嫌なんかじゃない。嬉しいよ」
室内はなんともいえない空気に包まれており、普段なら照れ臭くて言えないような台詞もすらすら出てくる。雰囲気のせいといってしまえばそれまでだが、なんとも不思議な現象だった。
自然な流れで相手女性の身体を抱き寄せると、思っていたよりずっとか細いのがわかった。背中に回した手のひらから伝わってくる暖かな感触に、陽介の鼓動が一気に加速する。
間近で見つめあっていた数秒後、雪村薫がスッと両目を閉じた。お風呂上りでルージュを塗ってないにもかかわらず、その唇はとても魅力的に輝いて見えた。
まるで人間が地球の重力に引かれるように、陽介もまた相手女性の唇に引き寄せられていく。唇と唇が重なっても、激しくなる一方の動機のせいで、柔らかな感触を堪能するどころではなかった。
出会いからして特殊だったため、これまで想いをストレートに告げる機会というのは極端に少なかった。告白をしてしまうと、最初からそれが目当てのように思えてくる。
陽介は、雪村薫にそうした感想をもたれるのを恐れた。だからこそ、ここまで奥手ともいうべき状態になってしまったのである。
だがこれからは遠慮する必要もない。密着している唇が互いの気持ちの理解をより深め、次の一歩を踏み出すための勇気をくれた。
触れ合っていた唇を離すと、相手女性の瞼がゆっくりと上がりだした。覗く瞳は涙で潤んでおり、神秘的な輝きを放つ。半開きの口から漏れてくる吐息が頬をくすぐるたび、陽介の心がどうしようもなくざわめきだった。
「布団へ……行こう」
小声で相手にそう促した陽介が開いていた襖を閉じると、周囲は静寂の闇に包まれた。
それでも、布団が敷かれた部屋の電気はつけなかった。雪村薫の手を握り、躓かないよう足元に気をつけながら、仲良く隣り合っている二つの布団がある位置まで移動する。
再び抱き合ってキスをしたあとで、相手女性が恥ずかしそうに目を伏せた。そしてある事実を、陽介へ告白してくれた。
「杜若さん……私……初めてなんです……」
経験豊富そうには見えなかったが、よもや初めてだとは想定していなかった。
急に責任重大となり、何故か陽介は冷や汗をかく。しかしお互い好きあっているのだから、問題ないと考え直して相手の浴衣を脱がしていく。スルスルと足元へ落ちていくと、すべやかな相手女性の肌が露になる。
それを見た瞬間に我慢ができなくなり、陽介は勢いよく雪村薫を布団の上へ押し倒してしまった。
「ちょ……あの……杜若さん。こ、怖いです……」
「あ、ご、ごめん。わ、わかった……優しくするよ……」
とは言ってみたものの、陽介自身、初めての女性を相手するのは初めてというなんともややこしい状態だった。
緊張と興奮と不安で鼓動は加速しっぱなしだが、こういう時こそ経験のある陽介の方が冷静でいなければならない。一度深呼吸をして、冷静さを取り戻そうとする。
陽介はなんとか相手をリードしようと必死なのだが、一方の雪村薫は何がおかしいのかクスクス笑いだした。
眉をしかめて不審さを前面に出してると、反省したのか相手女性は「ごめんなさい」と謝ってきた。
「いや……どうかしたのか」
「すみません……杜若さんの顔が、これまでの中で一番真剣だったものですから、つい……」
それではまるで、普段は適当に生きていて、こうした場面の時だけ本気になると言われてるようなものだ。駄目人間になったような気分になり、陽介は軽く落ち込んでしまう。
すると陽介の反応から、そうした心の内を察したのか、慌てて雪村薫が「そんなつもりではないんです。ごめんなさい」と改めて謝罪とフォローをしてくれた。
相手女性を気遣うつもりが、逆に気を遣われていたら意味がない。陽介は自分自身の度量のなさを痛感する。
「でも……真剣な表情の杜若さん、とても恰好よかったですよ」
この発言で、陽介はすべてが救われた気がした。相手への愛しさが増大し、自分の気持ちを抑えきれなくなる。
「好きだ」
思わず陽介の口からこぼれたひと言に、雪村薫の頬が朱に染まる。
「……嬉しいです」
桜色の唇が動いて紡がれた返答に脳天がクラクラし、何がなんだかわからなくなる。
それでも両手には女体の温もりが確かに伝わっており、心地よい安心感が陽介の全身を包んでくれた。
何度目かわからなくなるぐらい、延々と唇を重ねあいながら、やがて二人の身体は夜の闇に溶けていく。
暖かさが熱さに変わり、交じり合う吐息が刹那に慕情を爆発させる。
加速度的に増した愛しさが、陽介と雪村薫の距離をさらに縮める。
「痛い……っ!」
「すまない……止めるか?」
「いいえ……このまま……杜若さんを、感じていたいですから……」
流麗な眉を痛みで折り曲げながらも、気丈な台詞を口にする愛しい女性を陽介は抱きしめた。
腕の中に華奢な肉体を収め、互いの肉体にそれぞれの存在を深く刻み込もうとする。
なんとも不思議な気分だった。出会った当初は変な女としか思ってなかった相手と、気がつけばこんな関係になっている。
もしかしたら、初めて会った瞬間に運命が決まっていたのかもしれない。こんな臭いことを考えるのも、今が特殊な瞬間だからだろうか。甘美な熱で溶けそうになる脳みそで、陽介はふとそう思った。
けれど次第にそんなことも考えられなくなり、夜のはずなのに、ひたすら真っ白な世界の中で雪村薫と抱き合い続ける。
まるで異世界に迷い込んだような感覚で、まさに夢心地と形容するに相応しい状態だった。
そして魔法が解けたみたいに、夜の闇に包まれた部屋の中で、陽介と雪村薫の荒い呼吸音だけが響いている。
「大丈夫……だったか……?」
汗まみれの陽介が、相手女性の顔を見つめながら尋ねる。
雪村薫が何も言わずに頷くと、陽介は思わずこう告げてしまった。
「もう一回……いいかな」
驚いた表情をしたあとで、雪村薫はクスリとしながら再び頷いてくれたのだった。