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「それでは、よい思い出を」
料金を支払ったあとで、乗ってきたタクシーの年配運転手に見送られる。
降り立った陽介と雪村薫の前には、豪華とまではいかなくとも、それなりに立派な旅館があった。
パンフレットで見て外観は知っていたが、実際に目の当たりにすると写真より小奇麗に思えた。
老舗とまではいかないが、結構な創業年数があるので、信頼するに足る旅館でありながら、料金設定は非常に庶民的だった。
ゆえに陽介たちは、話し合った末に宿泊施設をこの旅館に決めたのだ。看板には「癒し亭」と旅館名が書かれている。
排気音を立ててタクシーがいなくなっても、陽介と雪村薫の手は握られたままだった。
何故か離す気にはなれないのにプラスして、相手女性もまったく嫌がっていない。そのため、手を繋いだまま陽介たちは旅館へ入る。
自動ドアが作動し、旅館内へ足を踏み入れた瞬間、陽介の手から雪村薫の手がスッと離れた。
喪失感に戸惑う陽介へ「いらっしゃいませ」と声がかけられ、見るとカウンターにいた女性がひとりこちらへ向かってきている。
恥ずかしがって手を離したのだと理解した陽介は、無理に強要しても仕方ないとこれ以上の手繋ぎを諦める。
「お荷物をお持ちいたしましょうか」
「あ、いえ、大丈夫です」
陽介と雪村薫は、それぞれリュックひとつしか持ってきてなく、中には着替え程度しか入っていなかった。
重さもそれほどではなく、わざわざ従業員に持ってもらうまでもなかった。
同じように雪村薫も旅館の従業員の申し出を断ってるうちに、陽介はカウンターでチェックインを済ませる。
入浴時間や外出時の注意事項。それに朝食やチェックアウトについての説明を受ける。
とはいえ、この旅館には三泊する予定なので、疑問点が生じた場合にはその都度質問すればいいだけだった。
「それでは、お部屋までご案内いたします」
ホテルで言えばベルガール的な役割なのだろう。ひとりの女性が陽介たちの前に立って、にこやかに微笑んでいる。
お願いしますと頭を下げると、至極丁寧な動作で「とんでもありません」と返してくれる。
稀にではあっても、さすがにテレビなどで紹介される旅館だと陽介は感心した。仕事の出張で泊まった経験のあるホテルとは、対応がまるで違った。
旅館を利用する人間は、日常のワンランク上の生活を求めてくるとよく言われる。だからこそ、従業員の教育もしっかりしてるのだと推測できた。
旅館は五階建てで、縦の大きさはそれほどでもなかったが、代わりに横の広さは相当なものだった。
かといって極端に部屋数を増やしたりせず、ゆったりとした解放感を客に堪能させる造りになっている。
陽介たちが宿泊する部屋へ先導しながら、案内役の女性従業員は自動販売機や旅館内の各施設についても説明してくれる。
旅館には地下も存在しており、そこにはバーがあるとのことだった。その他にも定番の卓球台や全自動の麻雀卓を完備した部屋まであるらしかった。
トイレやバスルームも各部屋にひとつずつ存在しており、大浴場を利用しなくても大丈夫な設計になっているが、やはり旅館に来たのであれば温泉を楽しまなければ損である。
その他の説明はゲームセンターなど、娯楽に関するものが多かった。田舎町に存在してるだけあって、宿泊客の要望がもっとも多いのだろう。女性従業員は旅館の近くにあるパチンコ屋の場所まで教えてくれた。
そうこうしてるうちに宿泊する部屋へ到着し、従業員が鍵を使ってドアを開けてくれた。
「それでは、こちらが杜若様のお部屋になります。何かご要望がございましたら、ご遠慮なく、お電話でフロントまでお申し付けくださいませ」
そう言うと案内してくれた女性は、陽介に部屋の鍵を渡しながら深々と頭を下げた。部屋に備え付けの内線は、受話器を上げればすぐフロントへ繋がるとのことだった。
最後にもう一度深々とお辞儀をしたあと、女性従業員は陽介たちが泊まる部屋から立ち去っていった。
「なかなかいい部屋ですね」
ドアが閉まったのを確認してから、室内にいる陽介へ雪村薫が部屋の感想を口にしてきた。
旅館ということだけあって、畳が敷かれた和室は日本独特の香りや雰囲気を放っている。
館内には洋室も数部屋存在してるみたいだが、やはり旅館に宿泊するのなら和室がいいとこちらに決めたのだ。
旅館とホテル。呼び名は違うが、宿泊施設という点では同一である。
なのにどうして呼称が異なるのかといえば、洋室と和室の割合で決められているらしかった。
大雑把にいえば和室が多ければ旅館。洋室が多ければホテルとなるのだ。これもついさっき、案内してくれた女性従業員が教えてくれたことだった。
これから夕食や入浴を経て、決まった時間に布団が敷かれることになっている。
当初は別々の部屋に泊まることも考えたのだが、すでに同居してるのだからと雪村薫が同室でいいと申し出てくれたのだ。何よりひと部屋の方が、料金が安くて済む。そうした理由もあって、現在の状況になったのである。
「これから、どうする?」
荷物を部屋に置きながら、陽介は女性に尋ねた。観光スポットとなる場所を回ろうにも、もうだいぶ夕方が近くなっている。
「そうですね……せっかくですから、食事の前にお風呂へ入りませんか?」
混浴ではないが、この旅館には露天風呂も男女それぞれに完備されてるみたいだった。
自分が費用を出すわけではないので、最後まで躊躇っていた雪村薫も、パンフレットで見たその情報には目を輝かせていたのを覚えている。
「わかった。そうするか」
夕食前の入浴というのも悪くない。陽介もそう判断して、一緒に温泉へ向かうことにする。
入浴だけを楽しむこともできるため、日中は一般客と一緒になると説明も受けている。
貸切である必要もないので、その点については問題なく了承していた。最終入浴時間が午後十時で、それ以前なら何度利用しても自由だった。
とはいえ、そこまで極度の温泉好きではない陽介は、多くても一日に二回程度入れば十分だった。
せっかくだから用意してもらった浴衣を着ようということになり、雪村薫がバスルームで着替える。
陽介がバスルームで着替えようとしたところを制して、結局自宅でのパターンと同一になったのだ。どうやら相手女性には、まだ遠慮の気持ちが強く残ってるみたいである。
なんとかしなければと思っても、具体的方法が何ひとつ思い浮かばないので、とりあえず今はこのままでよしとしておく。この旅館へ三連泊するのだから、機会はいくらでも作れる。
「お待たせしました」
浴衣姿になった雪村薫は、温泉使用なのか、いつものロングヘアーをアップにしてまとめていた。
少し大きめの浴衣と相まって、心臓がドクンと反応するほどの色気を放出している。
髪型ひとつ普段と違うだけで、こんなにも印象が変わるものかと、陽介は驚きを隠せなかった。
「じゃ、じゃあ……行くか」
いつまでもポカンと、口を開いたままにしてても間抜けなだけなので、内心で咳払いをひとつしてから、陽介は冷静さを取り戻そうとする。
「はい。温泉……楽しみですね」
本当に温泉が好きなのだろう。雪村薫は挙動不審気味の陽介にも気づかず、ひたすら嬉しそうにしている。
二人一緒に館内を歩き、大浴場を目指す。途中に通るロビーにソファがたくさんあり、待つのに適していそうなので、ここを待ち合わせ場所に決めた。
ロビーから少し行った場所には、自動販売機やゲームコーナーもある。多少待たされても、退屈を感じずに済みそうだった。
「では、またあとでお会いしましょう」
雪村薫はそう言うと、軽やかな足取りで女性用の浴場へと歩いていく。その背中を見送ったあとで、陽介もまた男性用へ続く通路を進むのだった。
大浴場というだけあって、温泉は結構な広さがあった。中にはサウナも設置されており、施設の常連と思われる老齢の男性が、知り合いと会話をしながら楽しんでいた。
陽介も基本的にはサウナ好きだが、何故か今回は利用する気になれなかった。
同居女性と二人きりでの旅行ということで、少なからず緊張しているのかもしれない。柄じゃないなと思いつつ、陽介は洗い場で身体を綺麗にしてから、温泉に浸かる。
それが温泉を利用するマナーであり、周囲の人たちに対する当たり前の配慮ともいえた。最近では、シャワーも浴びずに温泉へ入る人間もいるというのだから、なんとも嘆かわしいことである。
充分に温泉を堪能したあとで、ロビーまで戻った陽介だったが、旅のパートナーである女性はまだ来ていなかった。
広々としたお風呂を楽しんでいるのだろう。男性の陽介が「早くしろ」と呼びに行くわけにはいかないので、近辺で時間を潰すことにする。
こんなケースもあろうかと、財布を持ってきていたので、ジュースを買って喉を潤してからゲームコーナーを覘いてみる。
学生の頃以来、ゲームセンターなど利用してないので、随分と懐かしかった。
格闘ゲームなどもあったが、久しぶりの陽介が上手くできるとは思えなかったので、結局は何もせずにロビーへ戻った。
柔らかなソファに腰をかけ、ゆったりと背をもたれさせる。さすがに一般のものよりは、使い心地がいいように感じた。
結構な値段がするのだろうなどと下世話な感想を抱きつつ、しばらくまったりとする。
「お待たせしました」
どれくらい時間が経過していたのか。いつの間にか、陽介はソファでウトウトしていたみたいだった。
聞き慣れた女性の声で現実へ戻り、両目を使って自分がいる場所を確かめる。
「あ、ああ……ちょっと、眠ってたみたいだな」
「すみません……私が長湯してしまったせいですね」
「いや、気にすることはない。俺は基本的に早く――」
「……? どうかしましたか」
途中で発言をやめた止めた陽介を訝って、雪村薫が小首を傾げる。
湯上りの火照った肌を、浴衣に包んだ姿があまりに艶っぽかったので、言葉を忘れてしまった――。
とてもじゃないが、雪村薫をひと目見た瞬間に陽介が抱いた感想を、正直に言うわけにはいかなかった。
口にしたら、お互いに照れまくって、例のごとく気まずい空気になるのは火を見るより明らかだった。
「……何でもない。それより、もう温泉はいいのか」
「はい。充分に温まらせてもらいました」
雪村薫は長湯をしたと言っていたが、陽介がロビーへ戻ってきてから、三十分程度しか経過していない。普段の相手女性の入浴時間は大体四十五分程度なので、そこまでゆっくりしていたわけではなかった。
ゲームコーナーには興味がないとのことだったので、陽介たちは部屋へ戻ることにする。
決められている夕食の時刻も間近に迫っているので、足早に宿泊予定の部屋のドアを開けると、待ってましたとばかりに室内に設置されている電話が鳴った。
旅館のフロントからで、夕食の用意をしにいっても大丈夫かという確認だった。陽介は「問題ありません」と返事をしたあとで、受話器を置く。
「実は私……こういうところで食事をするの、初めてなんです」
「そうか。それなら、楽しみにしてるといい」
そんな会話をしてるうちに、仲居さんが夕食を持って部屋へやってきたのだった。