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 それはまた、なんともヘビーな話だった。どんな事情があるにせよ、陽介が深入りすべきではなかったのである。

 だからといって、今さら「やっぱり聞かなかったことにします」なんて口が裂けても言えない。陽介は自らの意思で、足を踏み入れたも同然なのだ。逃げたりできなかった。

「えーと……もしかして、朝からの話なのかな」

 動揺しているせいか、思わず変な話し方になってしまう。まさかここまで切羽詰まった状況だとは予想もしてなかったため、どういう反応をすればいいかわからない。誰か助けてくれと、陽介が叫びたいくらいだった。

「はい。今日、貸していたお金を返してもらえるはずだったんですけど、銀行へ行ったきりなんです。もしかして……何か事件へ巻き込まれてしまったのでしょうか」

 話を聞いていくうちに、陽介はさらなる眩暈を覚えた。女性はジョークを言ってるわけでなく、本気で戻ってこない人間を心配してるのである。

 不測の事態を今思いついたとばかりに「銀行へ電話してみた方がいいのかな……」などと、どこかピントのずれた呟きを繰り返している。

 人が戻ってこれないような事件が、銀行やその周辺で起きていたら嫌でも話題になる。パトカーや救急車のサイレンがうるさいぐらいに鳴り響くだろうし、マスコミだってやってくる。

 そうなればテレビやラジオでもニュースになり、誰かしら情報を入手した人間が会社で話題にする。何せ、女性が口にした銀行名はこの近くなのだ。

「やっぱり、電話して彼の安否を確認するべきですよね」

「いや……その必要はないと思いますよ……」

 裏切られたショックを少しでも和らげたいがゆえの演技なのか、それともただ単に天然なだけなのか。陽介にも判別がつかず、どういう対応をするべきか未だに悩んでいた。

 なのに女性のあまりの暴走ぶりに、とうとう黙ってられなくなってしまった。

「テレビやラジオでもそんなニュースはやってなかったし、それにその銀行の人間と午後に会ってます」

 陽介が勤務する会社はいわゆる商社と呼ばれる類のものであり、金融に関する商談のために銀行の担当者と会社で会っていた。

 女性が彼と呼んだ人間が事件に巻き込まれているのであれば、当然その銀行へ勤める人間も巻き込まれてなければ変になる。

 銀行の担当者が、予定の時刻に陽介の会社へ現れた時点で、事件の可能性は否定された。要するに、女性の待ち人はうそをついたのである。

 心苦しかったが、黙ってる方がもっと悪いと判断し、頭の中でまとめた指摘をそのまま女性へ伝える。

 すると女性は怒るどころか、悲しんだりもせずに笑ったのだ。そのリアクションがあまりに想定外すぎて、逆に陽介が唖然とする。

「そうですか。ご親切に教えていただいて、ありがとうございます」

 にっこりと微笑み、残酷な宣言をしたも同然の陽介にお礼まで言ってくる。

 よほど芯が強く、優しい人間なのだろう。騙されたショックを前面に出せば、どうしてもこちらは気を遣わざるをえない。女性はそれを嫌ったのかもしれない。

「いや……俺の方こそ……なんか……その……傷口に塩を塗るような真似をして……すみませんでした」

 相手の雰囲気に感化されたのか、自然とそんな台詞が口から出ていた。

「本当に気にしないでください。それより、どこかへお急ぎではなかったのですか?」

「え? ああ……特に用があるわけじゃないです。家に帰ろうとしてただけですからね」

 苦笑しながら答えると、女性は穏やかな笑顔のまま「それも大事な用のひとつですよ」と言ってくれた。

 本当に不思議な雰囲気を持っている女性だった。思わず相手を見つめたまま陽介が立ち尽くしていると、女性は悪戯が見つかった子供みたいに舌を小さく出した。

「いけない……親切にしていただいたのに、自己紹介もしてませんでしたね。私は雪村薫ゆきむら かおると言います」

「あ……俺は陽介。杜若陽介です」

「いい名前ですね。それでは、私もそろそろ帰ります。杜若さんもお気をつけて」

 ――雪村さんも、気を落とさないでください。陽介がそう言うより早く、女性はくるりと背を向けていた。

 改めて声をかけるのも変かと考え、相手の背中をしばらく見送ったあとで、帰宅という目的を果たすために陽介も移動を開始するのだった。


 昨日の女性は、本当に不思議な人だったな。翌朝、会社へ行く準備を整えながら、陽介は雪村薫のことを思い出していた。

 だが恐らく、もう会うこともないだろう。そんな気がした。

 連絡先を交換したわけではなく、単純に名前を教えあったにすぎない。いってみれば、ただの顔見知り程度の関係になったばかりだ。そんな状態で、これからの展望を期待する方がどうかしている。

 そんなことを考えながら、身支度を完了させて食事をとる。昨日の帰りに、コンビニで買ってきた菓子パンだ。あまり身体に良くはないだろうが、手軽なので毎日こんな感じである。

 朝食を終えたあとで歯を磨き、口の中をサッパリさせたところで会社へ出発する。

 玄関を出て駅に向かい、電車に乗って目的地で降りる。そこから少し歩けば、例の女性と出会った公園へさしかかる。

 何気なく周囲を確認してから、陽介は自分自身に呆れる。何を期待していたのかは不明だが、昨日の今日でいるわけがない。気を取り直して会社へ向かおうとした時、あり得ないはずの光景を目にする。

 公園のベンチに座って、ウトウトしているひとりの女性がいたのだ。近くで顔を確認するまでもなかった。

 陽介の記憶にあるままの髪型と服装で、傍目からでも女性が雪村薫であるとわかった。

 だいぶ暖かくなってきてるとはいえ、まだ夜や明け方は冷える。現に昨日会った時は、雪村薫も寒そうにしていた。

 業務開始まではまだ時間がある。どうしようか悩んだ挙句、陽介は近づいて声をかけてみることにした。

「あの……風邪をひきますよ」

 控えめに話しかけてみるが、女性は足元の地面を見つめたまま微動だにしない。本当に眠ってるだけなのかも、疑わしい状況になってきた。

 そこで今度は、もう少し声のボリュームを上げてみることにした。

「あのー、もしもし!?」

「はいっ!? あの、ごめんなさいっ!」

 目を覚ました女性はいきなり立ち上がり、目の前にいるのが誰か確認するより先に頭を下げてきた。

 必死に謝罪している様子がなんとも滑稽で、思わず陽介は笑ってしまった。

「え? あ……あっ!」

 笑われてる事実にきょとんとしたあと、ようやく陽介の顔を見て、話しかけてきた相手が誰なのか理解したみたいだった。

 公園のベンチで居眠りしてるのを見られただけでなく、先ほどの慌てふためいた果ての醜態である。

 さすがに恥ずかしくなったらしく、雪村薫が羞恥で頬を真っ赤に染める。

 それでも陽介が笑うのを止めないため、照れ隠しも兼ねて頬をぷーっと膨らませた。

 ここでようやく笑いすぎたと気づき、急いで「ごめん、ごめん」とフォローする。

 女性の豪快な取り乱しっぷりで陽介の緊張もほぐれたのか、自然とタメ口に近い感じになっていた。

「確か……雪村薫さん……だったよね」

「知りません。……っていうか、笑いすぎです」

 相手の機嫌を損ねてしまったらしい。どう考えても陽介に非があるので、再度「だから、ごめんってば」と謝る。

 それでようやく許してくれる気になったのか、女性が膨らませていた頬を元に戻した。


「笑いすぎの貴方は、杜若陽介さんでしたね」

 まだ嫌味を言ってくる点を見ると、完全に機嫌が直ったわけではなさそうだった。

 さすがにやりすぎたかと頭をポリポリ掻きつつ、陽介は「もう勘弁してくれないかな」と頼み込む。すると今度は女性が、大きな声で笑い出した。

「冗談です。うふふ、私も少しやりすぎましたね」

 小さく舌を出したまま、作ったばかりの握り拳で自分の頭をコツンと叩いた。

 おしとやかな女性と思いきや、なかなかお茶目な面も持っているようである。

「それにしても……どうして、こんなところで眠ってたの?」

 陽介からすれば当たり前の質問だったのだが、相手はまずいところを突かれたと言いたげに視線を逸らす。あからさまに挙動不審な態度が気になり、失礼なのは重々承知の上で、陽介は雪村薫の観察を開始する。

 程なくして、重大な点に気づく。女性の衣服が、昨夜別れた時とまったく同じものだったのだ。その事実が示す可能性を考えた矢先、とんでもない予測が陽介の頭に浮かんできた。

「まさか……戻ってこないと言っていた男性を、ひと晩中ここで待ってたのか?」

 雪村薫も昨日の段階で、騙されたということを認識していたはずだった。あり得ない推測だと思いつつ、陽介は相手に聞かずにはいられなかった。

「え、えへへ……えーと、その……ね?」

 何が「ね?」なのかは意味不明だが、陽介の想像どおりである点だけは間違いなさそうだった。

 一体、この女は何を考えているのか。怒りにも似た奇妙な感情が、陽介に芽生える。

 所詮は他人事なのだから放っておけばいいものを、何故かそれができないのだ。気づけば「何を考えてるんだよ」と声を荒げて、女性へ詰め寄っていた。

「ちょ、ちょっと……お、落ち着いてください」

 雪村薫の戸惑う声で、陽介は一時的にせよ、自分が理性を失っていたことに気づく。これまでの人生において、まったく経験したことのない事態だった。

 相手の両腕を掴んでいた手を慌てて離し、陽介は素直に頭を下げる。

 女性が悲鳴を上げて、それを聞いた通行人に警察でも呼ばれれば、陽介の人生は一巻の終わりも同然だった。

 いくら頭に血が上ったとはいえ、こんな真似をしでかすとは自分で自分が信じられなかった。

 元来陽介はそういうタイプではない。テレビで殺人事件のニュースを見るたび、加害者を愚かに思う人間だった。

 どれだけ相手が憎かろうと、命を奪ってしまえば塀の中へいかざるをえない。情状酌量がついたところで殺人の二文字は常に自分へつきまとい、普通の生活が送れるかどうかも疑問だ。

 下手をすれば何十年と刑務所で過ごすはめになり、その間は自分の好きなように生きるのは不可能になる。時間に限りのある人間にとって、それはあまりにも無駄に思えた。

 だからこそ陽介は相手が憎いと思えば、迷わず自分の何十年という人生を図りにかける。果たしてそれだけの犠牲を払ってまで、存在を消滅させたいと思っているのか自問自答する。

 大抵の場合、答えは「いいえ」だった。嫌いならば無視すればいいだけの話で、排除する必要はどこにもない。そう考える陽介だからこそ、簡単に事件を起こす人間の心情が理解できなかった。

 もっともこれは陽介に限った話であり、他の人間がどのような指針で行動してるかはわからないし、別に知りたくもなかった。

 そういうスタンスを貫いてきたはずなのに、何故か目の前にいる女性にはそれができない。どうしても気になってしまうのである。

「今のは俺が悪かったよ。けどさ、いくらなんでも待ちすぎだろ」

 いくらかオブラートに包んではいるが、やはり相手を責めようとする姿勢がどうしても出てしまう。

 ほとんど見ず知らずの相手にここまで言われれば、大抵の人間は反論してくる。

 けれど雪村薫は「そうですね」と頷いて、昨日も見せた穏やかで明るい笑みを浮かべるのだった。

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