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駅前といえど、バス停が集まってるようなターミナルはどこにも存在しない。駅構内も小さく、都会の駅を想像すると、あまりの違いっぷりに唖然とする結果になる。
基本的に田舎の駅というのはこんな感じなのだが、都会から出たことのない人からしたら、とても信じられないだろう。交通の利便性など考えるだけ無駄で、タクシー乗り場すら存在してないのである。
やはり都会育ちらしい雪村薫は、豊かな自然以外、何もない情景に若干戸惑い気味だった。
一方の陽介はといえば、幼少時代を過ごしたのが田舎だっただけに、こうした風景には慣れていた。
駅前にある公衆電話には、大抵の場合タクシーの電話番号が書かれた張り紙がある。よく探してみると、すぐに目的のものを発見できた。
持っていた携帯電話を使用し、陽介は地元のタクシー会社へ電話をかける。名前を告げてから駅名を教え、一台頼んでから電話を切る。
慣れた動作に感心していた相手女性が、電話を終えたばかりの陽介へ「タクシーを利用するのですか」と声をかけてきた。
田舎であろうがなかろうが、タクシーよりはバスを活用する方が費用は安く済む。雪村薫は、その点を気にしてるに違いなかった。
もちろん陽介も重々承知していたが、ここでも田舎と都会の差がでてくる。
交通量の多い都会とは違い、田舎ではバスを利用する人数が絶対的に少ないのだ。理由は、大半の人間が自家用車を所持しているためである。
交通整備が整ってない地方では車が必需品であり、その結果、バスなどを利用する人が極端に少なくなっている。
近くに学校でもあれば、学生が利用してくれるので、そこそこは繁盛する。だが、そうした特殊なケースでなければ、バスを運行しても赤字になるだけだった。
とはいえ、地方でも車を所持してない人はいる。特にお年寄りである。病院などへ通う手段として、バスは重宝される。
したがって、赤字だからとすぐにバスの運行を取りやめにはできない事情があった。そうなれば、バス会社のとる手段はひとつしかなくなる。
ある程度利用者が多い路線以外は、運行数を減らすことである。そのため、地方では一時間にバスが一回でもくれば、まだマシな方だった。
中には二時間や、三時間に一本。下手をすれば、一日で一回か二回という路線もある。そのような事情を知っていたがゆえに、陽介はタクシーの利用を選択したのだった。
それらをきちんと説明すると、さすがの雪村薫も納得した。このまま立ち往生を続けるよりは良いと考えたのだ。こうして陽介たちはタクシーの到着を待つことになる。
「それにしても……綺麗なところですね」
都会のスパリゾートなどとは違い、陽介と雪村薫が今から行こうとしてるのは、天然温泉がある旅館だった。
旅館が建っている地点で、すでに結構な山の中なのだが、さらに奥へ進めば秘湯と呼ばれる温泉も存在している。
実際に陽介が自分の目で見たわけではなく、インターネットで事前に調べた情報だった。
「まあ、基本的には山だからな。緑の多さと空気の美味しさは、都会とは比べものにならないだろ」
「そうですね。ところで、杜若さんはこういったことにお詳しいのですね。温泉巡りが趣味だったりするのですか?」
普段とは違う陽介の一面を見て、好奇心が刺激されたのだろうか。目を爛々と輝かせながら、そんなことを聞いてくる。
「確かに温泉は好きだが、巡り歩くほどではない。昔、似たようなところに住んでたから、人より詳しいだけさ」
過去のことを話せば、必然的に当時の思い出も蘇る。それは決して、陽介にとって好ましいことではなかった。
ため息まじりに発した台詞でそれを感じとったのか、途端に相手女性が申し訳なさそうな顔をする。
「ご、ごめんなさい……」
「いや、謝る必要はない。本当だ」
辛い出来事を経験してきたのは陽介だけでなく、雪村薫も一緒だった。
相手に気を遣わせるつもりはなかったのに、気づけば微妙な雰囲気になっている。
失敗したなと後悔する陽介が視線をあちこちに動かしていると、こちらへ向かってくる一台の車を捉えた。
タイミングよくやってきたタクシーに心の中で感謝しつつ、陽介は相手女性へ声をかける。
ようやく到着したタクシーは陽介たちの前で止まり、ドアをゆっくりと開いた。
やはり都会のより、少し古ぼけた感じがある。それだけ長い年月をかけて、たくさんのお客さんを運んできたのだろう。乗り込みながら、陽介はそんなことをふと考えた。
どちらまでと尋ねてくる運転手へ、宿泊予定の旅館名を告げる。チェックインにはまだ少し時間があったため、綺麗な風景を観賞しながら向かうことにする。
陽介みたいな客は結構いるらしく、運転手も慣れた様子で「わかりました」と応じてくれた。
年配の運転手がハンドルを握り、タクシーがゆっくり田舎道を進む。建ち並ぶビルの群れがないだけに、遠くまで景色をゆっくり見渡せる。
それだけでリラックスできるのだから、人間というのは不思議なものだ。こういう状況だからなのか、やたら哲学的な思考が浮かんでくる。
「うわー……本当に綺麗ですね」
タクシーの窓から流れる景色を眺めながら、雪村薫が感嘆の声を漏らす。電車内の反応とほぼ同じだった。
もっともそんなことを知らない運転手は、そうでしょうとばかりに誇らしげな顔をしている。
もしかしたら、地元の人間なのかもしれない。そこら辺を尋ねようか考えていると、向こうから話しかけてきた。
「お客さんたちは、ここへ来るのは初めてですか」
決して前方不注意にならないよう警戒しながら、バックミラーで陽介と雪村薫の顔を見てくる。
「ええ、初めてです。運転手さんは、こちらの方なのでしょうか」
陽介よりもずっと愛想の良い女性が、いつものにこやかな笑顔で応対する。
人付き合いがあまり得意でない陽介は内心でホッとしつつ、雪村薫と運転手の会話の聞き入る。
「生まれも育ちもそうですよ。こんな田舎ですけどね、私にとっては最高の場所なんです」
「そうなのですか……大変素晴らしい生まれ故郷なのですね」
心から感心したように頷き、雪村薫は運転手の言葉を素直に信じる。
見た感じ人の良さそうな男性運転手は、嬉しそうに「ええ」と頷いた。
これも雪村薫の能力なのか、瞬く間にタクシー内は和やかな雰囲気に包まれる。
このまま旅館に着くまで、あとは滅多に味わうことのないドライブを楽しんでいればいい。そう思った陽介だったが、事はそう簡単に進まなかった。
「こちらへは、新婚旅行でいらしたのですか」
年配の運転手の唐突な発言に、危うく陽介は吹き出しそうになった。
せっかく平穏無事に旅ができると思っていたのに、とてつもない爆弾を放り込まれてしまった。
隣のシートに座っている雪村薫も、顔面を真っ赤にして俯いてしまっている。
先ほどまではきっちり応対してくれていた女性がこの有様なので、陽介がなんとかするしかなかった。
といっても、別に細かな事情を説明する必要はない。あくまで事実だけを話せばいいだけだった。
「俺たちは夫婦じゃありません……だから、新婚旅行とは違います」
陽介がそう言うと、男性運転手はしまったという感じで「すみません」と謝ってきた。
別に激怒するほどのことでもなかったので、陽介は「気にしないでください」と返す。だが天然かわざとか、運転手はさらなる追い討ちをかけてくる。
「それはすみませんでした。長年の経験から、てっきりご夫婦だとばかり思ってしまいました」
悪びれもせずに、年配の男性運転手があっけらかんと言い放つ。長年の経験とは何だと思っていると、同じ疑問を抱いたらしい雪村薫が単刀直入に尋ねた。
「長年の経験……ですか?」
「ええ。ここは結構ご夫婦でいらっしゃる方々が多いんですよ。お客さんたちも、そうした人たちと同じ雰囲気でしたので、間違いないと確信していたのですが……あ、もしかして、ご婚約中とかですか」
今度こそ正解だろうとばかりに胸を張られても、大正解ですと付き合ってやるわけにはいかなかった。
何せ、陽介と雪村薫は、互いの気持ちを確認しあったばかりなのだ。そうした点から言うと、交際をしてるとは言えるかもしれない。けれど、話が結婚にまで及べば、首を左右に振らざるをえなかった。
二人きりで旅行するのも初めてなのに、将来の約束をしてるはずもなかった。今は目先のことだけで、精一杯である。
「婚約も……してません」
照れまくっている隣の女性に代わり、陽介が男性運転手へ言葉を返した。
平静を装っているものの、陽介もまた、雪村薫同様に顔面を真っ赤にしてるのは明らかだった。
かつてないぐらいに顔が火照っており、呼吸のひとつひとつがいつもと違っていた。
「おやおや、今度も外してしまいましたか。でも、仲の良いカップルには変わりありませんよね。旅を楽しんでください」
満面の笑みの運転手に対して、陽介と雪村薫は揃ってぎこちない愛想笑いを浮かべる。どう対応したらいいのか、正直わからなかった。
それでもタクシーが、一応地元では名所と呼ばれる地点へさしかかると、隣に座っている女性は緊張を忘れて目を輝かせる。
「少しだけ、そちらへ行ってもいいですか」
丁度、陽介側の窓から見える景色だったため、上半身を乗り出した雪村薫が尋ねてきた。
返事をするより早くずずっと寄ってきて、言葉どおり陽介の隣で景色を観賞する。
かなりの密着ぶりに、心臓を高鳴らせる陽介の鼻先へ、心地よい香りがふわりと届いてきた。
女性が使ってるシャンプーの匂いなのはすぐわかったが、こんな間近で嗅いだのは初めてだった。
ますます鼓動の速度が上昇し、陽介の思考回路がこんがらがり始める。
「……あ。す、すみませんでした……」
景色を堪能し終えたあとで、ようやく自分のいる位置に気づき、女性の顔色が茹蛸みたいになる。
慌てて離れようとするも、バランスを崩しそうになり、慌てて陽介は「危ない」と雪村薫の腕を掴んだ。トクトクと刻まれる相手の脈が手のひらへ伝わり、ある種の感動と安らぎを覚える。
「あ、ありがとうございました。私ったら、ご迷惑ばかりをおかけしていますね」
他愛もない悪戯がバレた子供みたいに、チロッと舌を出した女性の顔を正面から見つめながら、陽介は気にしないでいいと告げる。
その直後に、相手女性の表情が大きな戸惑いに包まれる。目線が動き、下方にある自分の手を視界に捉える。
そこでは、未だに陽介が雪村薫の手首を掴んだままだった。離してくださいと言われるのが怖くて、相手女性が口を開くより先に手を移動させる。
手首ではなく、女性の手をしっかりと握る。異性と手を繋いだ経験はあるものの、ここまでの勇気を要したのは初めてだった。
「あ、あの……杜若さん……?」
「このままじゃ……嫌か?」
「……いいえ。大丈夫です」
短いやり取りの後、相手の女性の手にも陽介に負けじと力が込められた。
雪村薫の握力が心地よく感じられ、心が穏やかになっていく。あとは特に会話もなかったが、移動先の旅館へ到着するまで、二人の手はずっと繋がれていた。