18
雪村薫との同居生活は順調そのものだったが、一方で相手女性の就職活動は困難を極めていた。
毎日足繁く通っているものの、未だに目立った成果は上げられていない。良くて、なんとか面接をしてもらえる程度だった。
面接の日程が決まったと喜んでは、不採用の連絡を受けて肩を落とす。その繰り返しだった。
それでも陽介には心配をかけまいと、気落ちする心を隠して必死に笑っていた。
その姿があまりに痛々しく、見てるだけで心が痛んだ。どうにかできないものかと考えても、人脈を持たない陽介には何もできなかった。
悔しさともどかしさを覚えても、ただ黙って見守るしかできない。そんな己の不甲斐なさに腹が立った。
「なあ……少し出かけないか」
とある日、唐突に陽介が切り出した。仕事も無事に終わり、自宅で夕食をとっている最中だった。
食卓の向かいには雪村薫が座っており、きょとんと目を丸くしている。
最近では帰宅前の帰るコールにもだいぶ慣れてきて、気恥ずかしさもあまり感じなくなった。
自宅へ戻ってくれば、こうして温かい食事にありつけて、ゆっくりとお風呂にも浸かれる。
日頃のお礼も兼ね、勇気を出して旅行に誘ってみたのだが、どうも相手は陽介の意図を理解してないみたいだった。
「いいですけど……まだ食事の途中ですよ」
返された言葉に、思わず陽介はその場でずっこけそうになる。
どうやら説明が足りなかったようだ。そこで陽介は「違う、そういうことじゃなくてだな」と言葉を付け足し始める。
「近々、三日か四日程度のまとまった休みがとれそうなんだ。それを利用して、遠出ででもどうかなと思ったのさ」
これまでほとんど無趣味に働いてきたおかげで、それなりに貯金もある。
そのことも説明するが、相手女性の晴れやかな笑顔は見られなかった。
「私を気遣ってくれてるのですよね。お誘いは嬉しいのですが……」
このままでは断られると確信した陽介は、相手の言葉を途中で遮るように「違う!」と大きな声を発した。
驚いた相手女性が口を止め、場に静けさが戻ってきたまではよかったが、これからのプランを何も考えていなかった。
雪村薫の発言をピシャリと否定しておきながら、その理由を一切説明できそうもない。無情にも時計の針は進み、やがて沈黙が気まずさを生み出す。このままではマズイと判断した陽介は、とにかく何かを喋ろうと口を開いた。
「俺がお前と一緒に行きたいから、誘ってるんだ!」
場に渦巻く静寂を打破するつもりが、余計に変な空気を発生させてしまった。
次の瞬間には雪村薫の頬がボッと赤くなり、それを見た陽介は自分が発したばかりの言葉を思い出す。そして自らもまた赤面する。
これまでも何度か経験しているが、勢いというのは本当に恐ろしいものだった。先ほどの発言こそ、まさに告白そのものではないか。とはいえ、取り消したりなどしたら、さらに事態はややこしくなる。
このまま押し通すしかないという結論に至り、陽介は覚悟を決める。もともと、雪村薫に好意を抱いてるのは事実なのだ。取り繕う必要などなかった。
「お、俺と一緒に旅行へ行こう。きっと楽しい」
緊張のせいで、とてつもないぎこちなさを伴った誘いとなった。心臓がドキドキしすぎて、今にも破裂しそうだった。
人を好きになったこともあれば、交際した経験もある。けれど、こんなにも強い動悸を感じるのは初めてだった。
それだけに真剣さがにじみでていたのか、まるで勢いに飲み込まれたみたいに相手女性が「はい」と頷いた。
「で、ですが……二人きりで旅行をするのですよね?」
ある程度の年齢を重ねていようとも、そうした点が気になるのは当然だった。
ましてや、陽介は未だにきちんとした告白をしてないのだ。早まりすぎたかと焦りだしたのが最後で、どんどん思考がこんがらがり始める。
「も、もちろんだ。でも大丈夫だろ。だって、今でも二人きりで生活してるんだから。そ、それにお互いが好きあってるのなら、問題ないっ!」
自分で言っておきながら、陽介の顔も極端に赤くなる。自信満々に言い切ってみたものの、相変わらず何がどうなってるのか、正確に把握できていなかった。
矢継ぎ早に繰り出された陽介の台詞を浴びるたび、相手女性の頬も赤みを増していく。そうした反応を見せられると、ますますこちらも照れが増幅する。
「そ、そうです……よね。お互いに……好意を抱いてるのですものね」
確認するように呟く雪村薫を真正面から見つめながら、陽介は大きく頷いた。
「そうだ。俺はお前が好きだ! だ、だから……大丈夫だ」
何が大丈夫かは意味不明だが、とにかく意図は通じたらしく、相手女性は「はい」と小さく首を上下に振ってくれた。
これにより、雪村薫も陽介を好きだったのが確実となった。それだけでも、陽介は天にも昇りそうな気分になる。
女性と両想いだと判明して、こんなに嬉しくなるのは、学生の頃以来かもしれない。ある種の懐かしさを覚えつつ、ひとり幸せな気分に浸る。
「あ、あの……それで……どこへ行くのですか?」
どこへと尋ねられたところで、陽介自身、明確なビジョンを持ってるわけではなかった。ほとんど勢い任せで展開させてきただけに、改めて具体的内容を問われると返答に窮する。
どこがいいのかと考えた矢先に、いの一番で浮かんできたのが温泉だった。もしかしたら、以前にいかがわしいスカウトらしき男性と、口論をした記憶が強く残っていたからかもしれない。陽介は恐る恐る、大まかな目的地を告げる。
「温泉ですか。いいですね……賛成です」
嫌がってる印象はなく、むしろ嬉しそうに同調してくれた。陽介の考えすぎだったのか、もしくは、こちらを全面的に信じてくれてるかのどちらかだった。
かなりの確率で後者だろうと判断する。とにかく素性関係なしに、人を信じるのをモットーとしてる女性なのだ。以前の件があったからといって、陽介に売られるのではないかという疑いを抱くわけがなかった。
とりあえず宿泊で温泉へ行くことだけは決め、細かな目的地に関しては、雪村薫が後日旅行会社などからパンフレットを貰ってくるとのことだった。
旅行雑誌でも購入すれば話は早いのだろうが、パンフレットでも充分ですと、今回は陽介が相手女性に押し切られる形となった。
さらなる出費をさせたくないと考え、そのような提案をしてくれたのかもしれない。必要以上に反対する理由もないので、その辺は相手女性へ任せることにしたのである。
なんやかんやでひと騒動になった夕食も終了し、入浴を済ませたあとで、いつものごとく陽介はソファへ横になっていた。
新しく布団を購入すればいい話なのだが、意外とソファでの寝心地がよかったので、そのまま活用している。
最初は自分のせいで、無理をさせてるのではないかと心苦しそうにしていた雪村薫も、日々安眠を続ける陽介を見てるうちに次第と安心し始めてるみたいだった。
ソファでの寝心地は最高だから大丈夫だという陽介の発言を、ようやく心からの感想だと判断したのだろう。普段は簡単に相手を信じるのだが、こういうケースになると話は変わる。
自分はどれだけ不利益を受けても気にしないくせに、相手へ迷惑をかけるのを極端に嫌がる。本人が申し訳なさで、押し潰されそうになるのかもしれない。とにかく、誰かに甘えるというのが、極端に苦手な女性だった。
だからこそ、陽介側から様々な提案をして、寄り切る形にする必要があった。今回はそれが功を奏して、二人での旅行を承諾させるところまでこぎつけられたのである。
就寝の用意を整えたところに、お風呂から上がったばかりの雪村薫がやってくる。ベッドまで行くには、ここを経由する必要があるので、ある意味当然だった。
「あの……」
眠ろうとしていた陽介に、遠慮気味な声がかけられた。相手はもちろん雪村薫である。
ソファへ横になりながら、陽介は「どうかしたか」と相手女性に問いかける。
「ありがとうございます。私……温泉、とても楽しみです」
そう言うと、本当に嬉しそうに、雪村薫が笑ったのだった。
目的があると日々の経過も早いもので、あっという間に陽介が取得した休みの日になっていた。
雪村薫が用意してくれたパンフレットにて検討を重ねた結果、少し遠めの温泉街へ行くことになった。
テレビでも時折紹介されたりする有名な場所なので、ぼったくりなどの被害もないだろうと判断した。
もっとも、そんなことを思っても口にしたりはしない。陽介がうっかり呟いたりしようものなら、相手女性が即座に否定するはずだった。
――そんな宿泊施設なんて、この世界にはありませんよ。真顔でそう言いかねない相手なだけに、迂闊な発言は自重する必要がある。
電車で移動することになり、事前に予約も済ませている。宿泊予定の旅館に電話をしたのは、当然陽介だった。
人を信じるのが大好きな雪村薫に任せきっていたら、相手の勧めるがままに豪華な部屋を予約しかねない。その辺は、陽介も十二分に考慮していた。
陽介自体、温泉は嫌いでないだけに、今回の旅行をそこそこ楽しみにしていた。
とはいえ、ひとりでは決して出かける気になれなかっただろう。あくまでも、雪村薫という同行してくれる女性がいてくれたからだった。
着替えなどを詰め込んだバッグを持ち、二人並んで駅まで歩く。目的地へ続く切符も購入し、いざ電車の旅が始まる。
遠出をするのは久しぶりなのか、隣に座っている雪村薫も、どことなくはしゃいでいるように見えた。
最初は新幹線なので快適に過ごせていたが、目的地が近づくにつれて乗り換えも多くなる。
最終的には古びた各駅停車の電車に乗り、ガタンゴトンと身体を大きく揺られる。
それでも田舎特有の緑多い風景が、窓の外で流れる様子に感心しきりだった。
もしかしたら、こういう場所に来るのは初めてなのかもしれない。そう考えると、ますます誘ってよかったなという気分になる。
次第に昔の電車特有の揺れも気にならなくなり、心地よい眠気を運んでくる。思わずウトウトしかけたところで、唐突に陽介の肩が揺すられた。
「杜若さん、起きてください。目的地に到着しましたよ」
利用する旅館のある駅まであと少しの地点で、雪村薫が起こしてくれたのだ。
涎が出てないか手の甲で確認しつつ、陽介は相手女性にお礼を言う。すると再び車内アナウンスが流れ、男性の声で次の駅名と降り口を告げてきた。
早めに降りる準備をしようと、陽介は雪村薫とともに荷物を持って、乗車口の近くに立つ。やがて駅が見えてくると、電車の速度は徐々に弱まりだした。
ブレーキ音が響き、ゆっくりと停車する。旅行会社でツアーを申し込んでいるわけではないので、駅に出迎えの人などはいない。ここから今度は、バスに乗って移動する必要があった。
改札口を抜け、駅舎から出ると、澄みきった青空が広がっている。雲ひとつなく、まさに旅行日和とはこのことである。
「ええと、次はバスに乗るんでしたよね。バスターミナルはどこでしょう」
きょろきょろと周囲を見渡す女性へ、陽介は「……そんなものはないと思うぞ」と指摘した。