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 ボッ――。そんな効果音が聞こえてきそうな勢いで、雪村薫の顔が赤くなった。

 ここまで赤面するのを見るのは、陽介も初めてだった。

 相手のリアクションで、ようやく陽介も自らの発した言葉の意味に気づく。聞く人間が聞いたら、まごうことなきプロポーズである。

 違うと言えば相手に失礼になるかもしれないし、言葉どおりの意味だと肯定すれば、もっととんでもない事態になりそうな気がする。自分で招いた種とはいえ、陽介は頭を抱えそうになった。

 ある種独特の緊張感により訪れた沈黙を、最初に破ってくれたのは案の定、雪村薫だった。

「な、何を言って……わ、私はただ……その……そ、そうだ。それより、杜若さんっ!」

「は、はいっ!」

 大きな声で突然に名前を呼ばれ、思わず陽介は椅子の上で直立不動になる。

「帰ってくる前に、お電話を入れてほしいんです。そうすれば、帰宅後すぐ、ご飯を食べれるように温めておきますから」

 確かに帰宅してから色々と準備をするより、その方が効率的だった。相手の手間も考えれば、充分に検討する価値はある。

「わかった。そうするよ」

 とりあえず一度は試してみようと思い、そう答えた陽介に相手女性が「ありがとうございます」とお礼を言ってくる。

 そしてまたやってくる静かな時間。どことなく気まずく、どことなく照れ臭い。嫌な雰囲気ではないが、にこやかになれる雰囲気とも違った。

 どこか甘ったるい空気を纏った現状に、若干の息苦しさを感じてきた陽介は、何とかしなければと考える。

 そのためには、相手との会話が必要不可欠だった。しかし、当の陽介はこれまで散々失敗してきている。

 どうするべきかと考えつつ横目で相手を見ると、雪村薫も同じ結論に至っていたのか、実に見事なタイミングでお互いの視線がぶつかった。

 陽介と相手女性ともに、慌てて目を逸らす。より気まずくなったところで、失敗したなと後悔しつつ相手の様子を窺うと、またも目と目がバッチリこんにちは。まるで漫画みたいな状況に、思わず苦笑する。

 そんな陽介を見て、同居女性も笑みを浮かべる。重苦しかった雰囲気が徐々に和らぎ、やがてどちらともなくいつもどおりに会話を始める。

 よかった。これで苦手な空気も解消されるだろう。安堵する陽介の食事を、用意してくれてる雪村薫を眺めながら、先ほどの約束を思い出す。これからは、帰る前に電話を入れる必要があった。

「帰る前に電話することを、帰るコールとか言うんだっけか?」

「確かそうですよ。でも、それこそ、新婚さんみたいですね」

 微笑みながら言われた何気ないひと言に、和やかに「そうだな」と相槌を打つ気にはなれなかった。

 陽介の不用意な新妻発言が先ほどの事態を引き起こしたのに、今度は雪村薫が新婚さん発言をぶっ放したのだ。どうしたらいいかわからず、無言でいると、やがて女性が料理を運んできてくれた。

「さあ、どうぞ」

 時間があったからか、今日は様々なメニューが用意されていた。メインは肉ながら、煮物などもあり、栄養バランスに配慮してくれてるのがわかる。

 普通なら「美味しそうだな」と感嘆し、いただきますの流れになるところだが、当の陽介は先ほどの相手女性の言葉が気になって仕方なかった。

 とはいえ、さっきはどういうつもりで新婚みたいだねって言ったんだ? などとはとても聞けず、悶々とした状態で目の前の料理と睨めっこを続ける。

「もしかして……苦手な食べ物とかがあったりしましたか?」

 綺麗に盛り付けられたお皿を前にして、押し黙っている陽介を不審に感じてるみたいだった。

 ここはなかったことにして、この流れに乗ってしまうべきなのか。しかし無理に無視をしても、後々まで引きずる結果になったら元も子もない。ここは思い切って聞こうと、陽介は決意する。

「美味そうな料理だな。ところでさっきの――」


「――ええ。杜若さんから、お金も頂きましたし、腕によりをかけて料理しました」

 陽介が言い終わるより先に、にこにこ笑顔の相手女性が腕を曲げて力こぶまで作ってみせる。

 一見すれば元気そのものだが、どこかわざとらしくも思えた。こういうリアクションをとるタイプだったかなと思いつつ、陽介は気になっていたことについて再度口にする。

「それはありがたい。で、話は変わるんだが、さっきの――」

「――杜若さんがお仕事で疲れてると思いまして、疲労回復にも効果のある具材を選びました」

 それもまたありがたい話だったが、今度も先ほどの発言の趣旨を確かめようとしたところ、雪村薫の声で掻き消されてしまった。

 二度にわたる相手女性の反応で、陽介は確信した。雪村薫は自らの言動をしっかり覚えている。そしてその意味も理解していた。

 そうでなければ、わざわざ人の発言を途中で潰すような真似などしない。明らかに、わずか数分前の出来事に触れられるのを恐れている。

 恐らく発言の真意を尋ねられても、うまく答えられないのだ。つい先ほど、陽介も同じ状態だっただけに、相手の気持ちは痛いほどわかった。

 不用意に発した台詞だったのだろうと察し、陽介はこれ以上のツッコみを不要と判断した。

「じゃあ、早速ご馳走になるかな」

 相手の新婚さん発言には触れず、陽介がいただきますをしたので、雪村薫は心底ホッとしてるみたいだった。

 よくよく見れば、頬がほんのり朱に染まっており、照れまくってるのがすぐにわかった。

 女性を虐めて喜ぶ趣味はないので、会話はここまでにして陽介は食卓に並べられた料理へ箸を伸ばしていく。最初に狙いを定めたのは煮物だった。

 大根をメインに、人参や椎茸なんかもふんだんに使われている。どちらかと言えば年配の人間向けのメニューで、年頃の女性がうまく作れるとは思わなかった。

 よく男性は恋人の料理を、お袋の味と比べるというが、陽介の場合は幼い頃に母親とは別れてるのでそれができない。参考料理は、昔どこぞの食堂で注文した定食にサイドメニューとしてついてきたものだった。

 名前もよく覚えてない食堂のものとはいえ、調理した人間はプロに変わりない。比べるのは酷に思われたが、それも最初のひと口を食べるまでだった。

 記憶の中にあった煮物の味が、跡形もなく吹き飛ぶ。陽介の舌が、口に入れたばかりの煮物以外の記憶はいらないと拒絶したのである。

 最初に食べた椎茸はほどよく味が染みており、しっかりとした歯応えも残っている。人参も硬すぎず柔らかすぎずで、調味料もそれほど多く使われてないみたいだった。

 素材の味が際立っているにもかかわらず、あまりしつこさを感じない。メインの大根も箸がスッと入り、簡単に取り分けられる。味も中まできちんと染みており、雪村薫の料理の腕に感心するしかなかった。

 あまりの美味しさに箸が止まらなくなり、ご飯の入った茶碗を片手に次々と料理を平らげていく。今夜は雪村薫も一緒に食事をとっているのだが、あまりの速度に驚いて手が止まっている。

 ものの数分で、陽介は自分のために用意された量を完食していた。大食漢ではないのだが、今回ばかりは腹がパンパンになるまで食べるのを止めなかった。

「す、凄い食欲ですね……よほどお腹が空いていたのですか?」

 陽介と向かい合う形で、正面の席に座っている雪村薫はまだ呆気にとられていた。

 大食いではなくても早食いだったので、時間にすればこのぐらいが普通なのだが、食べた量が量だった。

 ご飯を含めて、各おかずをおかわりまでしていた。放っておけば、相手女性の分まで平らげそうな勢いだったのだ。心の中では、陽介も自分自身に驚いている。

 それだけ雪村薫の手料理が、美味だったという事実に他ならない。素直に料理の腕を褒めると、相手女性は嬉しそうに「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。

「足りないのであれば、こちらもいかがですか?」

 そう言って相手女性が示したのは、自分のために用意した分のおかずだった。

 そこまで意地汚くないのにプラスして、かなりの満腹状態なので陽介は丁重にお断りする。

「充分、満足したさ。実は食いすぎたかなと思ってるぐらいだ。今日より少し量が減っても、問題はないよ。ただし、間違っても増やさないでくれ」

「ふふ……わかりました。きっと毎日作ってるうちに、おいおい慣れていきますね」

「そうだな。これから、毎日作ってもらえるんだもんな」

 毎日という単語を二人で言い合ったあとで、陽介と雪村薫はどちらからともなく笑い出した。

 楽しさが心の底から湧いてきて、自然に笑顔が形成されるのだ。これが本物の笑うという行為なのだと再認識し、食卓にはいつまでも話し声が響いていたのだった。


 翌日以降も、陽介と雪村薫の同居生活は続いた。

 いつも決まった時間に雪村薫が起こしてくれ、目覚まし時計はほとんど使わない道具となっていた。

 陽介が洗顔や歯磨きをしてる間に朝食が用意され、二人で食べながらとりとめのない会話を交わす。そうして朝のひと時を楽しんだら、まずは陽介が家を出る。

 見送ってくれる女性に「いってきます」と告げ、会社を目指して歩き出す。その後、雪村薫は掃除などを済ませてから、職業安定所へ出かける。

 たった数日で景気が改善されるはずもなく、求人広告は依然として寂しい状況が続いてるとのことだった。

 新卒者であっても、未だに仕事が決まっておらず、雪村薫同様に職業安定所通いしている人間も多いらしかった。

 そういう点を考慮すると、好きな仕事でなくても、こうして働いて金銭を稼げる陽介は幸せなのかもしれない。雪村かおると暮らすようになってからというもの、非常にポジティブな性格へ変わりつつあった。

 嫌なことがあっても嫌と感じず、常に自然体で微笑んでくれている雪村薫の存在が大きかった。相手が穏やかであればあるほど、仮に陽介が激昂しても喧嘩にはなりにくいのである。

 緊張で、場の空気が張り詰めたりする事態にも何度か遭遇したが、そういう場合は決まってどちらかが不用意な発言をしていた。

 別に衝突寸前の大論争を繰り広げたりとかではなく、結婚など二人の関係を意識させるキーワードが発端となり、お互いに緊張をしてしまうのだ。そのたびに陽介は、内心で中学生じゃあるまいしと、自分自身に苦笑する。

 陽介自身、恋愛に奥手というわけではないのだが、相手がこと雪村薫になると思うようにいかなくなる。どうにも調子が狂い、まるで自分が自分じゃないみたいなのだ。そうした感覚を味わうのは、人生で初めての経験だった。

 もしかしたら、本気で人を好きになるというのは、こういうことなのかもしれない。最近は漠然と、そう思うようになっていた。

 陽介が自意識過剰でなければ、相手女性も好いてくれているはずだった。日々のやりとりでも感じるし、何より以前に雪村薫自身がまんざらでもない台詞を口にしていた。

 けれど、お互いに「好き」としっかり相手に伝えたりはしてなかった。どうにも照れ臭いのと、真剣に話す機会に恵まれてないのだ。というより、二人揃ってそういう雰囲気になるのを避けてる節があった。

 本来は男の陽介から言うべきなのかもしれないが、何度も繰り返すとおりにやはり恥ずかしいのだ。しかし、不安も焦りもなかった。

 想いを言葉にしなくても、現在の暮らしは楽しいし、何ひとつ不満はない。いずれ自然に話せる時期がくるだろう。そう信じて、明るく元気に日々を過ごしていくだけだった。

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