15
二人はほぼ同時に振り返り、陽介と目が合った男がお前は何者だという目をする。
その横でこちらを見た雪村薫が、驚いたように口を開いた。
「杜若さん……?」
どうしてここに貴方がいるのですか? わざわざ言葉を繋げてもらわなくても、相手女性が何を言いたいかは予想がついていた。
雪村薫の頭の中では、陽介は今現在も会社で、頑張って仕事をしている最中なのだ。にもかかわらず、この場に立っている。驚いて当然だった。
「仕事でたまたまこの近くへ来ることになってな。いざ終わって帰ろうとすると、丁度お前の姿を見かけたんだよ」
明らかに言い訳臭かったが、実際にうそをついてるわけではない。この近くで仕事があったのは本当なのだから、卑屈になる必要はなかった。
人の良い女性は素直にこちらの言い分を信じてくれたが、隣にいる男は胡散臭そうにこちらを見ている。
どちらかといえば、相手に胡散臭い印象を持っているのは陽介の方だった。
「あ、紹介しますね。こちら、私に仕事を紹介してくださることになった方です。名前は……え~と……」
この分では、どうやら相手の名前さえ尋ねてないみたいだった。普通なら仕事を紹介する前に、まず相手へ名刺を渡す。それすらないのだから、怪しいと言わざるをえなかった。
さらに相手男性をどう見ても、職業安定所の関係者には見えなかった。毛先にパーマをかけている髪を金色に染め、スーツをファッショナブルに着こなしている。
顔立ちやファッションセンスを含めた外見すべてが、陽介より一段も二段も上だった。
肌もほどよい小麦色で、細い体型をしていながら筋肉質なのが衣服越しにもよくわかる。モテ男の要素を複数兼ね備えているが、どうにも真人間という印象は受けない。こういう時の陽介の見る目は、比較的よく当たる。
だからこそ、今回もわざわざ雪村薫に声をかけたのである。そしてそれが間違ってなかったと、半ば確信している最中だった。
「……この際、名前はどうでもいい。問題はその就職先が、きちんと職業安定所で紹介されたものかどうかってことだ」
そう言って陽介は騙されやすい女性ではなく、怪しげな男性を見る。すると相手は小さく「チッ」と舌打ちをしたみたいだった。
雪村薫は気づいてないが、正面から向き合っている陽介には相手の細かい仕草まで見える。その様子からも、こちらをウザがってるのが明らかだった。
「いいえ。今日も全然いいお仕事がなくて、ガックリしながら職業安定所を出たんですけど、こちらの親切な方がそんな私を見かねて声をかけてくださったんです」
「……何て?」
「ちょっと、すいません。おたく、何か勘違いしてませんか?」
更なる陽介の質問に雪村薫が答えるより先に、隣にいる男が口を開いた。
丁寧な口調の中にも挑戦的な言動が見え隠れしており、想定外の人物――陽介の出現に苛立ってるのがよくわかる。
仕事を紹介しようとしていた女性を、背中へ隠すように一歩前へ出て、こちらとの距離を詰めてくる。
そうしてプレッシャーを与え、何も言わずに早く帰れという無言の脅しをかけようとしてるのが見え見えだった。
男性の態度で、危惧していた内容が誤解でないと判明する。真っ当に職を紹介してご飯を食べている人間なら、間違っても相手の関係者に先ほどのような口を利いたりしない。やはり最初に名刺を渡し、丁寧に誤解を解こうと努力する。
だが陽介の前方にいる男性は笑顔こそ浮かべているが、目は相当に鋭い。こちらを敵視してるも同然の反応である。
「どうやらこちらの女性と知り合いみたいですけど、僕は単純に困ってるから助けてあげようとしてるだけですよ」
「そうです。名前を聞くのを忘れていましたけど、この方はとても親切かつ紳士的に接してくださいました。それは私が保証します」
「だろうな。カモを逃がすような真似をするスカウトがいたら、とても仕事になんねえだろ」
多少古典的な気がしなくもなかったが、相手に対抗するために陽介も普段より乱暴な言葉を選んで使用する。
言い負かされる前に、相手の迫力に臆していたら話にもならない。あとは、雪村薫に余計な口を挟ませないことも重要だった。
「少しだけだが、話してる内容が聞こえたんでな。あえて声をかけたんだよ。旅館で働くんだって?」
きちんと就職を決め、陽介にこれ以上の負担をかけずに住むと喜んでいるのだろう。相手女性は、晴れやかな表情で「はい」と答えた。
「で、その旅館は遠く離れたド田舎にあるわけだ」
陽介がそう言ったところで、男性の顔つきが変わった。一方で当事者であるはずの雪村薫は、どうしてわかったのかと不思議そうにしている。
人を信じるのを信念にしてるだけで、基本的には勘の鋭い女性と思っていたのだが、どうやら陽介の見立ては大外れだったみたいである。
いくら雪村薫とはいえ、危険とわかっていて自分の身体を差し出すはずが――ないとは言い切れない。前方の女性は、例えるなら飢えた旅人に自身を提供した兎である。
相手が困っている。人の役に立てると判断すれば、喜んで自分を犠牲にする。傍から見ればただのアホでも、本人にはそれが望むべき生き方なのだ。誰にも否定する権利はなかった。
もちろん陽介にもだ。とはいえ、悪夢に飛び込もうとしている女性を傍観しているだけなのも不本意だった。
本来は人とかかわるのが嫌だったはずなのに、変われば変わるものだ。緊迫してきている現場で、まるで他人事みたいに自分自身を検証する。
「……だから、勘違いをしないでもらえます? この女は働きたい。だから俺は仕事を紹介する。これのどこが問題だっての?」
段々と男の本性が表に出てくる。雪村薫をこの女呼ばわりし始め、僕と呼称していた自分を俺と言い出した。
余裕の態度を保ってはいるが、内心では怒り心頭に違いなかった。陽介という妨害が入らなければ、今頃は雪村薫に契約書へサインしてもらっていたはずだ。事実、口調に苛々した様子が表れている。
「職――というより金に困ってそうな女に声をかけて、田舎の温泉宿へ送り込むんだろ。サインさせた契約書を偽造して、勤務地で客を取らせるわけだ。もちろん言葉の意味は理解してるよな」
客をとらせる――単刀直入に言えば売春をさせるのである。様々な因縁をつけてその温泉宿へ縛りつけ、女たちを半ば強引に説得した上で仕事をさせる。
そういう場合は大体が勝手に外出できない決まりになっており、時折やってくるブランド物のバッグや宝石を扱うセールスマンの訪問だけが楽しみになる。
日々、鬱憤が溜まっている女たちはセールスマンから高額商品を買うことで自分を慰め、足りない分は所属している旅館から借金をする。
法外な値段で商品を販売している業者も儲かるし、女たちが留まっていれば該当の温泉旅館も儲かる。女を確保する手口のひとつで、昔から存在していた。
最近では少なくなったと思っていたが、警察などの目を逃れ、まだ非合法に営業を行ってるところがあるみたいだった。
そうでなければ、こんな若くて弁の立つ男がスカウトとして活動してるはずもない。基本的にお知り合いになりたくないタイプではあるが、近しい人間が被害に遭おうと現状でそんなことは言ってられなかった。
「……クク。おいおい、おかしな映画の見すぎじゃねえのか。そんな話が、実在してるわけねえだろ。寝言は寝て言っとけよ」
「そうか……それなら下手な勘繰りをして悪かったな。けど、その就職話は断らせてもらう」
「はあ? 何、勝手言っちゃってるわけ? こっちでは話がまとまってんだから、アンタの出る幕はないの。わかった?」
この男とはこれ以上話しても、無駄に時間を浪費するだけだった。そこで陽介は、ターゲットを若い男性から雪村薫に変更する。
「なら、お前がやっぱり止めますって言えばいい話だな。そう言ってやってくれ」
「え? で、でも……せっかく、お仕事を紹介していただけるというのに、それは悪いです」
ここで得意のお人好しぶりが発揮され、スカウトらしき男が得意気な笑みを浮かべるが、こういう展開になるのは想定済みだった。
「そうか……お前は、俺の頼みを聞いてくれないのか。俺を助けてくれないのか」
わざと意気消沈した様子で、そう告げてやる。目の前にいる女性には、こういう口撃が一番効力を発揮する。
こんこんと、男が連れて行こうとしているのは法的に駄目な温泉宿だと説明しても、行ってみなければわかりませんと返されて終わる。
それだけならまだいい方で、下手をすると「騙される前から、人を疑うなんて最低ですっ!」と、陽介が怒鳴られかねなかった。
そこでわざわざ戦法を変更したのである。わずか数日だけといっても、雪村薫と会話をして相手の性格は大体把握している。
女性の隣にいる男よりはアドバンテージがあり、それを十分に発揮すればいいだけだった。
「わ、私が就職すると、杜若さんが困るのですか」
正攻法で説得しても徒労に終わる確率が高かったが、攻め方を変えた途端に相手女性が食いついてきた。
こちらが困ってるふりをして、相手の信じる心、人の役に立ちたい想いを利用してやれば反応も変わる。
基本的にあまり好きな方法ではなかったが、この際、個人的な我侭は言ってられない。相手女性に、今回の就職を諦めさせるのが先決だった。
「もちろんだ。おおいに困る。俺を助けると思って、その就職話を断ってくれないか」
何故困るかはあえて口にしない。向こうもこちらを疑ってツッコんでくるタイプではないし、何よりそんな理由はどこにもないからだ。嘘に嘘を重ねれば自爆するだけだった。
陽介のハッタリを即座に見抜いた男が口を挟もうとするのを「これは、俺たちの問題だっ!」と素早く制する。
これで雪村薫が結論を出すまでの時間を、多少なりとも稼ぐことができる。あとは前方にいる女性が、陽介の思惑どおりの回答を選んでくれるのを待つだけだった。
「ふ、二人の問題で……杜若さんは、私がいなくなると困ると言っているのですか?」
「ああ、そうだ。その気持ちに嘘偽りはない」
何故か相手女性の顔が赤くなっているが、今は些細な事象に構っている余裕はなかった。
とにかくこの窮地を脱し、雪村薫が歪んだ道へ進むのをなんとか阻止する必要があった。そのためには、多少の嘘は仕方ないと陽介は自分自身へ言い聞かせる。
自信はそれなりにあった。たった二日足らずとはいえ、一緒に住んでいれば多少の情を同居人へ持つ。そこをついたのだから、うまくいってもらわないと困る。
「わ、わかりました……杜若さんが……そこまで……わ、私を必要としてくださっているのなら、今回の就職は見合わせますね」
そう言って微笑んだあと、次に雪村薫は隣にいる男を見た。
「そういうわけですので、申し訳ありませんでした。私が働けるはずだった分を、他の方のために使ってあげてください」
新たに標的にされた女性は迷惑極まりないだろうが、そこまではさすがの陽介も責任は持てない。これ以上、前方の男性と関わりたくもなかった。
「当人が断ったんだから、これでそっちの言い分は通用しなくなったな。次はどうする? 最近は色々と厳しいぜ」
俺の言葉に、男は大きく舌打ちをしたあとで悪態をつく。どうやら雪村薫を篭絡するのはもう無理と判断し、溜まった鬱憤を少しでも解消しようとしてるのだ。言わば、最後の悪あがきも同然だった。
雪村薫の勧誘に失敗した男性は、もう興味ないとばかりに吐き捨てるように「わかったよ。勝手にしろ」とだけ言い残して、陽介たちに背を向けた。
その後姿を眺めながら、騙されかけていた女性が申し訳なさそうに深々と頭を下げた。悪態をつかれてもなお、相手を仕事を無償で紹介してくれるいい人だと思っている証拠だった。
ようやく頭を上げた雪村薫は、少し照れた様子で陽介の目を強く見つめてきた。
「杜若さんの気持ち……しっかりと受け止めさせていただきました。私……とても嬉しいです」