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普段はほとんど外回りなんてない職場なのに、今日に限って外出を必要とする業務ができた。
なんてことない仕事なのだが、それによって自分たちのノルマが軽減されるわけでないので、上からの伝達に反応したがる社員はいなかった。
本来なら担当してる人間がいるのだが、非常識なことに唐突に会社を辞めてこなくなったのだ。そのため、緊急に引継ぎ作業を要していた。
けれど手の空いている社員など存在するはずもなく、新たな従事者を確保できるまで持ち回りで担当することになった。
それが来週からの話だ。けれどその前に、問題事が発生してしまったのである。
とはいえ、ある程度勤めている者にとっては、それほど苦労を必要とする事態ではない。そこで、嫌がる社員を尻目に陽介が立候補した。
メールで陽介が引き受ける旨を上司へ伝えると、大喜びしてるのを表すかのような謝礼メールが返ってきた。
物好きな奴だなという視線を四方八方から浴びつつ、陽介は引き受けた業務をこなすため、会社をあとにする。
別に上司の覚えをよくしたいわけでも、点数を稼ぎたいわけでもない。単純に仕事とは違う目的があったため、あえて貧乏くじを引いたのである。
その理由こそ、雪村薫その人だった。
今朝も普通に見送ってくれたが、どうしても昨夜のやりとりが気になってしまう。よからぬ事態になってなければいいがという不安が募り、不健康に悶々としていたところだった。
そんな時に全社員へ一斉送信されてきたのが、先ほどの仕事の引継ぎメールである。
眉をしかめて嫌がるのが普通なところ、陽介だけは内心しめたと思っていた。
目的地へ行くのに、どのような交通手段を使っても自由なため、陽介は駅前でタクシーをひろって移動することにした。
無事に空車のタクシーへ乗り込むと、目指す地名を告げて早速発信してもらう。あとは着くまで、待っていればいいだけだ。幸いなことに、陽介は目的地を知っている。
そこは雪村薫が通ってるであろう職業安定所から、相当に近い場所だった。まるで早く行けと急かすように、様々な要因が絡み合った。
数分迷いはしたものの、結局陽介は仕事がてら雪村薫の様子を見に行くことに決めたのである。
時刻はまだ昼前だったので、急いで仕事を終わらせれば姿を見つけることができるはずだった。何せここ最近の不景気のおかげで、職業安定所はかつてないほど大盛況になっている。
言葉を変えれば、それほど仕事がない証拠でもあった。パートやアルバイトならまだ多数あるものの、こと正社員になるとその数は激減する。
それでも選り好みをしなければ、どこかへ滑り込むのも可能だ。しかし、それはあくまでも若者に限った話である。
陽介や雪村薫も後半とはいえ、まだ二十代なのだから、世間一般から見れば充分に若い。だが、新卒者が余ってる現状では、この年齢でも厳しさが押し寄せてくる。
ある程度気軽に転職を考えられるのは、せいぜいが二十代前半までといったところだろう。それ以降になってくると、企業側もリスクを考えてなかなか採用してくれなかったりする。
とりわけ雪村薫の場合は、住み込みという条件がつく。ひと昔前なら山ほどあったが、現状では社員寮を完備してるような企業に中途入社するのはとても難しかった。
だからこそ、焦らずに探してくれればいいのだが、昨日の様子ではそういう風に考えてるとは思えなかった。
陽介が迷惑を被っていると錯覚しており、取り除くためには一刻も早く自分が就職するしかないと思い込んでる節がある。
そこが危険な点だった。とかく悪質な詐欺が横行してる現代では、焦りは逆境を招く種になりかねない。急がば回れという言葉あるとおり、せっかちになりすぎては損をする。
目的のために手段を選んでられないという状況ではなく、そのことをはっきり相手女性に認識させる必要があった。
さもなければ、以前路地裏でひと悶着あったように、よからぬ道へ引きずりこまれそうになっても何ら不思議はなかった。
目的地についた陽介はすぐに仕事を終わらせると、会社へ戻る前に近くにある職業安定所へ寄ってみる。
雪村薫の姿がどれだけ探して見当たらないので、すでに帰ってしまったか、まだ来てないことが考えられる。
いないのであれば、自分がいても仕方ないと考え、陽介は職業安定所を出た。
するとその瞬間に目当ての人物を見つけた。近くの道路から歩いてきたらしく、ひょっこりと姿を現したのだ。
声をかけようとした矢先、雪村薫の背後から親しげに歩いてくる男性を見つけた。
それによって話しかける意欲は失われ、陽介は相手へ見つからないように視線を逸らす。あれだけ綺麗な女性なのだから、ナンパしてくる男がいても不思議はない。
もしかしたら、自分もずっと似たような印象を与えていた可能性もある。そう考えると、陽介はとてつもなく恥ずかしい気持ちになった。
このままおとなしく会社へ戻ろう。そう考えた時だった。ようやく雪村薫の人間性を思い出したのである。
相手女性も笑顔を見せていたので、男性のナンパが成功して、これから二人でどこかへ行くのだろうと考えたが、もし違うとしたら大変な事態になる。
そこで陽介は探偵さながらに、二人の背後をこっそり追い始める。いわゆる尾行というやつだった。
慣れない行為に悪戦苦闘しながらも、徐々に雪村薫たちとの距離を詰めていく。そしてようやく、二人の会話を聞こえるぐらいの接近に成功した。
お互いに笑いあいながら、仲良く歩いている男女。その後をひっそりと追いかけている陽介。これでただの考えすぎだったら、憐れなピエロも同然だった。
その際には拍手も貰えず、惨めな敗北者となって冷たくなった心とともに会社へ戻るしかない。その場合は、恐らくまともにノルマをこなせる精神状況でなくなってる可能性が高かった。
「誘っていただいて、本当にありがとうございました」
普段よりも明るいにこにこ笑顔で、雪村薫は名前も知らない相手男性の目を見て話している。
もっとも名前を知らないのは、あくまで陽介に限った話だった。自己紹介をしていれば、もちろん雪村薫は隣を歩いている男性の名前を知っているはずだった。
「お礼を言うのはこっちだよ。君みたいに綺麗な女性が応じてくれるなんて、幸運以上の幸運だよ」
――幸運は幸運であり、それ以外の何者でもねえよ。そんな風に悪態をつきそうになったのは、嫉妬心ゆえだろうか。自分自身の気持ちにも悩みつつ、陽介は尾行を継続する。
幸いにして、まだ二人に気づかれてなかった。とはいえ陽介の尾行が上手いわけでなく、それぞれが会話に夢中になっているのが大きな要因だった。
完全なお邪魔虫だなと自覚していても、どうにも放っておけない。何せ雪村薫は、盛大に騙されかけた前科がある。
けれど今回は会話内容からして、騙す騙されないの話とは違うみたいだった。ひょっとしたら、本当にナンパをした男とされた女性の関係なのかもしれない。
だとしたら、陽介が介入する隙がなければ必要もない。尾行はこの程度にして、帰社するべきだろうか。ふと立ち止まって考える。
会社に戻れば仕事も残っている。いつまでも、こうして時間を潰してるわけにはいかなかった。
例え相手が誰であれ、人を信じすぎるがゆえに騙されやすい女性が幸せになれるならそれでいい。陽介は二人を追うのを止めた。
「それにしても、住み込みでそんなにお給料がいい仕事ってあるものなんですね」
「もちろんさ。若い女性も年上の女性もいる。心配しないで、仕事ができるよ」
黄昏ついでにせめて少しは格好よく帰ろうかと考えていた陽介の耳に、二人による重大な会話の内容が飛び込んできた。
どうやら雪村薫は、隣を歩いている男性から仕事を紹介してもらうみたいだった。
それにしても、若い女性も年上の女性もいる住み込みの仕事とは、一体どういうものだろうか。疑惑を生じさせてしまうのは、自分が下世話な人間だという証明かもしれない。ふとそんなふうに陽介は考えた。
どこぞの工場にしても、老若男女問わずにたくさんの人間が働いている。皆が皆、一生懸命の職場であり、よからぬ想像をするのさえ申し訳なく思える。
「私……サービス業は初めてなんですが、きちんと勤めれるでしょうか」
――サービス業という単語を聞き、ますます陽介は途中で引き返せなくなる。
住み込みのサービス業と言われたら、大半の男性が怪しげな店を想像するだろう。現に陽介も、その真っ最中だった。
今にも飛び出そうとしたところで、とりあえず落ち着けと陽介は自分自身に言い聞かせる。
ひと口にサービス業といっても、色々な店がある。例えば、飲食店の従業員だって立派なサービス業になる。
雪村薫の隣を歩いている男性が、全国展開している大手居酒屋チェーンの人事担当者である可能性も充分に考えられる。現時点で、下手に手出しをするわけにはいかなかった。
「大丈夫だよ。サービス業といっても、それほど難しいことをするわけじゃないからね」
隣にいる女性を安心させるかのように笑みをうかべつつ、優しげな態度で相手の緊張をほぐそうとしている。
傍から見てても、そうした心配りが随所に感じられる。明らかに場慣れしており、プロのスカウトではないかと思えてくる。
果たして居酒屋チェーンの担当者が、そんなテクニックを持っているだろうか。習得しているスキルがあるとすれば、むしろ面接時に相手の本性を見抜く目ではないのか。ひとり尾行中の陽介は、ますます男の正体がわからなくなる。
もっとヒントが欲しいと思った矢先、女性の隣を歩く男がタイミングよく口を開いた。
「普通に宿泊に来たお客さんの相手をすればいいだけさ。あとは、女将の指示に従ってればいいんだよ。そうすれば人の役に立てるし、君もお金を稼ぐことができる」
人の役に立てる――。この言葉は、雪村薫を納得させるには、もっとも効果的な一撃となる。男も、それがわかっていて口にした節があった。
ほとんど初対面の相手の性格を見抜き、それに合ったトークでその気にさせる。陽介には真似できそうもない高等技術だが、男は難なく駆使している。
だからこそ不信感が募った。相手を信じるのがモットーの雪村薫とは違い、基本的に陽介は疑い深い人間なのである。
「わかりました。お仕事を紹介していただける上に、人様のお役に立てるなんて夢みたいです。それで、いつから働けばいいのでしょうか」
「君が望めば、すぐにでも大丈夫だよ。これから行く事務所で書類にサインしてもらえれば、仕事をしてもらう場所とそこまでの旅費を交通費として支給するからね」
多少の交通費なら、普通は就職を望む方が負担するものだ。にもかかわらず、男は気前よく自分たちが払うと言っている。
ということは結構な額である可能性が高く、勤務地はそれなりに距離がある場所と考えられる。いよいよもって、怪しげな臭いが強くなってきた。
「それにしても……旅館の仲居さんって、結構簡単になれるものなんですね」
「はい、ちょっと待った。その就職話は、そこで一度ストップだ」
旅館という最重要な単語を耳にした瞬間、俺は後先を考えずに前を歩く二人へ声をかけていた。