13
何故にアホと言われなければならないのか。そんな感じできょとんとしている雪村薫へ、陽介はなおも言葉を続ける。
「何を考えて、そんな真似をしたんだ!」
怒鳴ってはいるが、相手の気持ちは陽介もよく理解していたし、ありがたくも思っていた。
けれど全財産と言っていた金銭を使用してまで、こういうことをしてほしくなかった。
相手は心からのお礼のつもりでも、どうして陽介がここまで親身になって住居まで提供したのか考えてほしかったのだ。
「な、何をって……杜若さんに喜んでもらおうと思ったのですが……お気に召しませんでしたか?」
相変わらずどうして怒られてるのか理解してない相手女性は、どこか抜けた受け答えを披露してくる。
手持ちのお金をすべて使い果たすということが、どういう意味を持つのかまったく理解できてないに違いない。
常に他人を信じるというモットーを貫いてきた人物だけに当然かもしれないが、陽介からすれば理解に苦しむとしか言いようがなかった。
確かに人を信じれるのは素晴らしい才能だと言って、雪村薫の生き方を肯定もした。けれど、今回の件は事情が少しだけ違う。
陽介は金銭的に困ってなければ、生命に関わるほど誰かの手料理に飢えていたわけでもない。厚意は嬉しいが、陽介のために使うなら自分の――雪村薫のために使ってほしかった。
爆発した感情を抑えきれず、陽介は頭の中に浮かんできた言葉を、次々と口から放り出す。
喧嘩腰になってしまっているだけに、相手も激情するかと思いきや、雪村薫はただ黙って陽介の言葉を聞いていた。
言いたいことを言い終え、陽介が肩で息をし始めると、ようやく相手女性が口を開く。
「確かに使った三千円は私の全財産で、大事なお金です。でもそれを使っていいと思えるぐらい、杜若さんの優しさが嬉しかったんです」
その台詞で、陽介は何も言えなくなった。
怒鳴ったこちらを怒るどころか、にこやかな笑顔で「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げられたのだ。
「いや……その……何だ、俺も少し……言いすぎた……」
金持ち喧嘩せずという言葉は、このへんにあるのかもしれない。どちらかが気持ちに余裕をもって応対すれば、争い事に発展する確率はガクッと減少する。
現に陽介も毒気を抜かれ、怒りという感情はすでにどこかへ消え去っていた。
ヒートアップしすぎた申し訳なさを表すように、静かに着席する。
それを待って、雪村薫は「いいんです」と言葉を発した。
「杜若さんが怒ったのは、私のためだと理解してますから……むしろ、お礼を言わなければならなかったんです」
それが先ほどの「ありがとうございます」に込められていたのである。
人を心から信じれる人間は強いな。痛感すると同時に、陽介は改めて相手の存在の大きさを認識する。
一見すれば、ただの騙されやすいお人好しの女性でしかないが、深い目で見ればかなりの人格者なのかもしれない。
「もしよろしかったら、食べてみてください。気に入っていただけるといいんですけど」
「そうだな。ありがたく、食べさせてもらうよ」
お金の話はとりあえず置いておき、実際に空腹だった陽介は、食卓に置かれた美味しそうな料理に箸を伸ばしていく。
湯気を立ち昇らせているほかほかのロールキャベツに箸を入れると、すんなり取り分けることができた。
よく煮込まれている証拠であり、それによってキャベツがバラバラになったりもしない。口だけでなく、雪村薫は本当に料理が上手なのだ。
半ば確信した陽介は、箸で掴んだひとかけらのロールキャベツを自身の口へ運ぶ。
出来立てだけあって、口内へ熱さが広がり、それを堪えるためにはふはふと何度か口内の空気を出し入れする。
それが過ぎると、絶妙なバランスで合体しているキャベツと肉の風味が同時に口内を駆け巡った。
まさに美味としか言いようがなく、頬っぺたが蕩けそうだった。よもやここまでの実力があろうとは、想定もしていなかった。
心の中で料理の腕を疑ってごめんさいと謝罪しつつ、陽介は次々とロールキャベツを口の中へ放り込む。
「あの……もしかして、無理に食べてますか?」
「ふぉふぉう! ふぉんふぉふぃふふぁいんふぁ!」
「あ……その……すみません。落ち着いて食べて下さって結構です」
あまりに感動しすぎて、ロールキャベツを大量に口へ含んだまま言葉を発してしまった。
少なからず食卓へロールキャベツのかけらが飛び、マナー違反この上ない状況になっている。
それでも雪村薫は嫌な顔ひとつせずに、微笑みながら布巾を使ってテーブルの上を綺麗にしてくれる。
「わ、悪い……本当に美味かったから、つい興奮してしまった」
ようやく口内のロールキャベツを胃袋へ流し込み、申し訳なさそうに発言した陽介とは対照的に、食卓を掃除し終えた女性は表情をパッと輝かせた。
心から嬉しそうに「本当ですか」と笑う。陽介に褒められたのが、本当に嬉しいのだ。こうして見てるだけでも、あまり裏表のない人間だというのがわかる。
だからこそ、相手の裏を勘繰ったりせず、素直に言われたことを信じるのだろう。もっとも、前にも言ったとおり、陽介はそれが雪村薫の魅力だとも思っている。
「確かに……こういう料理を食べるのは久しぶりだな……」
どこかの食堂に行ったりすればいいのだろうが、生憎と陽介はあまり同僚と食べ歩いたり、飲みに行ったりするタイプではなかった。
ならば自炊という手もあるが、料理下手なのにプラスして、手軽さからついついコンビニなどを利用する。
栄養のバランスが偏っている自覚はあったが、改善するにはそれなりの手間もかかる。慌しい仕事の日々を送っている陽介は、どうしても便利な方を選択してしまっていた。
「健康を維持するのに大事なのは、食事と睡眠です。杜若さんも、充分に意識してくださいね」
そう言って相手女性は、陽介のズボンのポケットを見る。今まさにそこへ手を入れて、煙草の箱を取り出そうとしていた陽介はギクリとした。
「いや……まあ、その……何だ。健康はもちろん大事だが、ストレスの溜めすぎもよくないぞ。ある程度は発散していかないとな」
もっともらしい理由を並び立てたあとで、そそくさと取り出した煙草に火をつける。
身体に悪影響なのは重々承知しているが、やはり煙草だけは止められない。そもそもあまり趣味もないのだし、煙草やお酒くらいは自由に楽しませてほしいものだ。
そんな陽介を見て、仕方ないなとばかりにため息をついたあとで、雪村薫は夕食の後片付けを始める。
陽介が食べているのを黙ってみていたわけでなく、相手女性も向かいに座ってロールキャベツを食べていた。
用意された夕食を全部食べ終えたので、使用済みの食器を重ねて、まとめてキッチンへ運ぼうとしている。
陽介が「俺も手伝おうか」と切り出すも、相手はゆっくりと首を左右に振った。
「杜若さんはゆっくりしていてください。これも泊めてくださっているお礼です」
そんなふうに考えなくていい――。そう言おうかとも思ったが、お節介のくせして、他人の好意に甘えるのはなかなか苦手な雪村薫のことである。
いいえ、そういうわけにはいきませんと、強い口調で返されるのがオチだった。それなら、相手の好きにさせておこうと考えた。
「ところで、職安はどうだったんだ。さっき、駄目だったって言ってたけど、少しくらいは手応えがあったのか」
ここで相手女性の様子が変わった。先ほどと同じ笑顔を浮かべてるにもかかわらず、どことなく沈んでるのがわかる。
陽介に心配をかけまいと、あえて気丈に振舞っているのだ。雪村薫の性格上、自分が相手を世話しても、逆に世話をされるというのは許容できないはずだった。
別に人の世話になるのが嫌だというわけではなく、単純に心苦しいのだろう。だからこそ、今日も熱心に職探しをしてきたに違いなかった。
ゆえに表には出さなくても、本人は落胆してるはずである。ここで陽介がさらにあれこれ言うのは、追い討ちをかけるも同然だった。
「ええ、担当してくださった方も親切でしたし、近いうちには決まると思います。杜若さんには、必要以上のご迷惑はおかけしません」
強がりなのは明らかだったが、相手の発言が本当の場合もある。何せ、陽介はその場にいなかったのだ。職業安定所の職員と雪村薫のやりとりを知ってるはずもない。
ただひとつ気がかりなのは、相変わらず陽介に迷惑をかけないと発言してる点だった。別にそんな風には思ってないのだが、こちらの言葉を額面どおりに受け取る相手ではなかった。
必ず台詞を深読みし、自分に気を遣ってくれてるのではないかという結論を導きだすのだ。こういう時こそ他人を信じてくれればいいのに、なんとも面倒な性格である。
「そうか。けど、無理をする必要はないぞ。決まるまで、ゆっくり探せばいい」
徒労に終わる可能性はあるものの、そう言わずにはいられなかった。相手は困ってるからという理由ひとつで、見ず知らずの他人にほぼ全財産を貸し出すほどの女性なのだ。
陽介が迷惑を被ってると勘違いすれば、強引に新たな就職先を決めかねない。新卒者でも就職氷河期と呼ばれている現代において、中途採用をポンポンしてくれる会社の数はそれほど多くないと容易に想像できる。
「ありがとうございます。杜若さんには、本当に何てお礼を言ったらいいのか……本当にありがとうございます」
ありがとうございますを二度ほど口にしたあとで、相手女性は深々と頭を下げた。心の底から感謝してくれるのはわかったが、陽介からすれば少し大げさなようにも思える。
とはいえ、雪村薫の問題は、あくまで本人が解決する必要があった。ある程度の手伝いやアドバイスはできるが、陽介は決して相手女性にはなれないのだ。
「……気にするな。情けは人のためにあらずって、よく言うだろ。誰かを助けていれば、いつか必ず自分も他人に親切にしてもらえる。いい言葉じゃないか」
陽介が言うと、本当にそのとおりだというように雪村薫は「ええ……」と感慨深そうに頷いた。
「そう考えれば、お前だって色々な人に優しくしてきたから、窮地に陥った時に助けてくれる人間が現れたんだぜ」
「それは杜若さんの――」
「――明日も仕事だから、俺はもう寝るぞ。そっちも、また朝から職安に行くんだろ。きちんと睡眠はとっておけよ」
なんだか照れ臭くなった陽介は、強制的に会話を途中で終了させ、ベッドの上に自分の身を投げた。
顔の火照り具合から、鏡を見なくても赤面してるのは明らかだった。それを見せたくないこともあり、ベッドへ横になった陽介はそのまま相手女性から顔を背け続ける。
行動があまりに露骨すぎたため、雪村薫にも陽介の心情がある程度理解できたのだろう。微笑ましそうにクスリとした。
「では、私は後片付けを終えたら、シャワーをお借りします。杜若さんも……気が向いたらあとでシャワーを浴びて、着替えをした方がいいですよ」
途中で言葉を途切れさせ、気が向いたらというのを挿入したのは、強要したくないという雪村薫の心配りと考えて間違いなかった。
――だから、気を遣いすぎなんだよ。背中で食器を洗う音を聞きながら、陽介は心の中で寂しげに愚痴る。
相手へ伝えようか迷ったが、そうしてるうちに、いつの間にか陽介は眠りについていたのだった。