12
出勤した会社で普段どおりの業務をこなしつつ、陽介は時折頬を緩ませる。
意識してるわけでなく、自然とそうなってしまうのだ。理由は、先日から同居している女性の存在だった。
今朝もひと悶着あったが、出社する前には「いってらっしゃい」と声をかけられた。
実家以外でそうした送り出しをされたのは久方ぶりだっただけに、妙な嬉しさを覚えた。
喜んでる内心を悟られたくないがゆえに、素っ気無く「ああ」と答えたのはご愛嬌である。
当の居候女性こと雪村薫は、新たな住み込みの職を探すために職業安定所へ行っている頃だろう。
人を信じることを信念にしてるも同然な女性だけに、変な人間に捕まってないかだけが心配な点だった。
「……会社で心配しても、仕方ないか……」
ひとり言を呟きながら、陽介は座っていた椅子からお尻を上げる。
缶コーヒーでも買って、小休止をしようと考えたためだ。
例の販売機がある場所へ行くと、以前の二人組みがまた噂話をしていた。
仕事をしなくていいのかと思いつつも、陽介は自然と耳を傾けてしまう。
「そういえば、あの話はどうなったんだ。お前の友人が、例の女にちょっかいだしたんだろ」
「ああ、あれか。それが変な男が邪魔しにきて、失敗したとか言ってたな。ま、犯罪者にならなくてよかったんじゃねえか」
ひとりの女の人生がめちゃくちゃになる可能性があったにもかかわらず、男たちは非常に楽しそうな様子で会話に花を咲かせている。
飛び出していって殴りかかりたい衝動に駆られたが、そんな真似をしたら例の女こと雪村薫を助けたのが陽介だと知られる。
そうなったら会社の噂になるのは必然で、先日路地裏で出会った男の耳にも入る可能性が出てくる。
あんな危険そうな男に付け狙われるのは、できることなら避けたい。ここは苛立ちを抑えてでも、おとなしくしてるのが上策だった。
二人組みがいなくなったのを見計らって、今度は陽介が自販機で目当ての飲料を購入する。
噂話をするのも結構だが、どうせなら自販機の側では勘弁してほしかった。
もっともそのおかげで、以前は雪村薫が襲われるかもしれない情報をキャッチできたので、あまり悪くも言えない。
「それにしても……人助けってのは、意外と疲れるものだな」
狙って実行したわけでないにしろ、結果的にこれまでの陽介の行動は、紛れもない人助けだった。
こうした経験があまりないだけに、気の遣う部分の多さに若干辟易していた。
とはいえ、それも雪村薫が新たな職と住居を見つけるまでの話だ。長くは続かない。
そう考えつつも、内心では想定どおりにいかないだろうとも思っていた。
何せこの不況下である。住み込みの仕事など、そう簡単に見つかるはずもない。
そのような展開になれば、当然のごとく雪村薫は陽介宅に居候するしかなくなる。
内心で喜んでいる自分自身に、陽介は苦笑する。あくまでも相手の境遇に同情して、部屋を貸してるだけだ。
己にそう言い聞かせながら、陽介はズボンのポケットから取り出した煙草を一本口に咥えるのだった。
仕事が終わって帰宅する際にいつもの公園を通っても、例のベンチに雪村薫はいない。
正体不明の男性に金を貸し、おけらお同然になった女性は陽介の家に居候している。
決して広い部屋ではないが、二人くらいであれば、なんとか生活できる程度のスペースはある。
部屋の前に着くと、鍵を使ってドアを開ける。ガチャリと音がした瞬間に、リビングの方からパタパタと足音が近づいてきた。
「お帰りなさい」
服装こそ先日と同じだが、エプロンをつけてる姿はまさに新妻チックで、思わず陽介はドキッとした。
玄関先にまでいい匂いが届いてきており、雪村薫が何かしらを調理してるのはキッチンを見るまでもなかった。
「あ、ああ……」
出かけた時と同様に、どうしても返事は素っ気無くなる。こうしたケースに慣れてないので、むしろ当然だと陽介は自分で自分に弁解する。
「どうしたんですか? 早く中に入ってください」
微笑みながら告げる相手女性にドギマギしつつ、ドアを閉めた陽介は靴を脱いで我が家への帰還を果たす。
その際に洗面所に立ち寄って、自分の顔が赤くなってないかチェックする。思春期の中学生じゃあるまいし、この程度で狼狽するなど恥ずかしいだけだった。
平常どおりの顔色であるのを確認した陽介は、内心でホッとしつつリビングへ向かう。
今日も普通どおりに仕事をしていたので、深夜とまではいかなくても、すでに結構遅い時間になっていた。
時間的余裕があったためか、雪村薫の手料理もほぼ完成していた。どうやら今夜のメニューは、ロールキャベツみたいだった。
ジャケットをハンガーにかけたあとでネクタイを緩め、陽介は食卓につく。それを見ていた女性が、手際よく盛り付けたメニューを運んできてくれたのだ。
「ロールキャベツか……」
「はい。私、結構得意なんです」
おっちょこちょいなドジこそあったものの、昨夜もその片鱗は見せていた。
というより、他ならぬ陽介の調理レベルが壊滅的なため、誰を見ても上手だと思ってしまう。従って、本当に相手女性が料理上手なのかはまだわからない。
ロールキャベツと一緒に出されたフォークとナイフを手に取るものの、陽介は両腕の動きを途中でピタリと止めた。
今にも食べようとしていた矢先の展開に、じっと見ていた雪村薫が訝る。
美味しそうな匂いにつられて食す直前に、陽介は気づいてしまった。冷蔵庫には、ロールキャベツの素材など何ひとつなかったはずである。
にもかかわらず、こうして料理が目の前にあるということは、前方にいる相手女性が食材を調達してきたと考えて間違いない。
「これ……大丈夫だよな……」
せっかく料理を作ってもらっておきながら、失礼極まりないひと言なのは重々承知していた。
しかしながら、今朝の一件があったため、そう聞かずにはいられなかったのだ。
すると雪村薫は「杜若さんじゃないんですから、そんな意地悪はしませんっ!」と頬をぷくーっとふくらませた。
わかりやすい表現で、相手が不機嫌さを露にしたため、陽介は慌てて謝罪をする。
「わ、悪かったよ、俺が悪かった。けど、よくこんな食材を買うお金があったな」
この家から職業安定所までは、そこそこの距離がある。電車を使うほどではないものの、陽介は車を所持していないので、必然的にバスを利用することになる。
決して歩いていけない距離ではないが、辿り着いた頃にはひと運動終えた状態になるぐらいの移動時間を要する。だからこそ、交通施設の利用は必須だった。
けれど、前方にいる女性がバスを使って職業安定所へ通うことになれば、それなりの費用を必要とする。
一回の乗車料金はそれほど高くないものの、一日で往復の料金がかかる。毎日利用すれば、結構な額となるのだ。
ゆえに少しでも節約しようと考えるのが普通だった。まして陽介の記憶が確かならば、雪村薫の所持金は三千円程度だったはずである。
「こんなに親切にしていただいてるのですから、御礼をするのは当然のことです。遠慮せずに召し上がってくださいね」
そう言ってもらえるのは嬉しかったが、やはり気になるのは相手女性の懐具合である。
頼まれればある程度は貸せるが、雪村薫が自発的に借金を申し込んでくる可能性は限りなく低い。
「明日の朝食とお弁当も私が作りますから、杜若さんは出勤時間に間に合うギリギリまで眠っていてくださって結構ですよ」
そこまで聞いたところで、陽介はおもむろに席から立ち上がった。
どうしたのですかと不審がる雪村薫を尻目に、キッチンへ向かって冷蔵庫をガバッと開ける。
ほとんど中身など入ってないに等しい空箱だったはずが、中には新鮮なキャベツなどの野菜がしっかり詰め込まれていた。
お金を渡して、お使いを頼んだわけではない。自身も知らない間に、冷蔵庫に保存されていたのだ。
陽介の仕業でないとすれば、考えられるのはあとひとりだけだった。居候の雪村薫が自腹で購入してきたのである。
「あんまり冷蔵庫を開けてると駄目ですよ。せっかくの冷気が逃げてしまいます」
「そうだな。見慣れない光景なので、つい見入って――じゃない! な、何なんだ、これは」
冷蔵庫を閉めつつ、陽介は側に来ていた居候女性へ尋ねる。
「何って……野菜やお肉などの食材ですよ。普段から自炊しないのであれば、わからなくても無理はありませんね」
「自炊しなくても、野菜や肉ぐらいはわかるっ! 俺が聞きたいのは、食材をどうしたのかって意味だ」
天然気味の相手にイラつきながら、陽介は冷蔵庫を指差したポーズで雪村薫にツッコみを入れる。
結構な剣幕になっていたはずだが、当の本人は微塵も臆したりせず、逆にきょとんとした表情を浮かべていた。
「それなら、さっき説明したじゃありませんか。買ってきたんですよ」
さも当然と言いたげに、にこりと笑みを作った居候女性が答える。
確かに先ほど聞いたばかりなので、陽介もその辺は重々承知している。
これで万引きしてきましたと言った日には、迷いなく警察へ突き出しているところだ。
「それはよくわかっている……けど、結構な量を買ってきたな。かなりの金額を支払ったんじゃないのか」
遠まわしに尋ねても埒が明かないので、単刀直入に疑問をぶつける。
すると雪村薫の魅惑的な唇が、衝撃的な言葉を紡ぎだしてきた。
「そんなことはありません。総額で三千円くらいですから」
「さん……っ!」
金額を聞いて、陽介は絶句した。その場で固まり、しばらくの間ポカンと間抜けな顔を晒してしまう。
普通の人間とは違う感性を持ってると理解していたが、よもやここまでとは想定もしていなかった。
「杜若さん? どうかしたんですか、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしてますよ」
可笑しいとばかりに女性はクスクスするが、本来なら笑ってられるような状況でないのは向こうだった。
「そ、そりゃ、するだろう! だ、だって、お前の全財産って……さ、三千円ぐらいだったよな?」
否定してくれるのを願っていたが、相手女性は満面の笑みで「はい」と頷いた。
あまりに堂々としてるので、陽介は考えなしに使ったのではないかという予想を改める。
そういえば、まだ職業安定所での結果も聞いてなかったのだ。もしかして、これは雪村薫の就職祝も兼ねてるのではないか。そう考えるとしっくりきた。
「そ、そういうことか……おめでとう。よかったな」
せっかく新たな門出を祝福してやったのに、相手女性は何がとばかりに小首を傾げる。
予想とはまったく違う仕草を目の当たりにして、陽介の中で嫌な予感が爆発的に膨れ上がる。
「しゅ、就職……決まったんだよな……?」
「いいえ。何社か申し込んだんですが、面接もしてもらえませんでした。住み込みの仕事というのは、なかなかないものですね」
恐る恐る口にした質問は、即答であっさり否定された。
要するに雪村薫は、金策の当てもないのに全財産をはたいて食材を購入してきたのである。
「お、お前は……アホか!」
本来ならお礼を言うべきなのに、陽介の口から発せられたのは室内の窓が震えるぐらいの怒声だった。