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結果的に簡単なものとなった食事も終わり、後片付けをしたあとで陽介はバスルームにて入浴した。
いつもならシャワーを浴びるだけで済ませるのだが、きちんとお風呂に入った方がいいとお節介な雪村薫が沸かしてくれたのだ。その間に部屋の掃除もしており、料理の失敗を取り戻すのに一生懸命だった。
事実、片付けにしても、大半が雪村薫ひとりによるものだった。
きちんと着替えをしてからバスルームを出ると、今度は雪村薫が「お風呂をお借りします」と言ってきた。
部屋を貸すのだから、それぐらいは当たり前である。普通に許可を出すと、相手女性は少し恥ずかしそうにしながら、バッグを持ったままリビングから退室していった。
何なんだと思いながらソファに座った時、ようやく陽介は理由に気づく。下着類などの着替えを見られたくなかったのである。
いくら泊めてもらうとはいえ、ショーツなどをわざわざ陽介に見せる必要はない。そんな真似をされても、こちらがどうすればいいかわからなくなる。
「ん……待てよ」
ここで陽介はふと考える。このマンションではバスとトイレは同じ部屋にある。
トイレの横に仕切りがあって、シャワーとバスタブがあるのだ。つまり、トイレをするためには、どうしても雪村薫が入浴中にお邪魔する必要があった。
どこぞの深夜番組みたいに、シルエットが映るほど薄くはないので、入浴の様子が見えたりはしない。トイレも水を流しながらすれば、相手を不快にさせることもないだろう。だが、だからといって入室できるはずもなかった。
もしかしたら、雪村薫も同じ結論に辿り着き、陽介が入浴してる間トイレを我慢していたのかもしれない。さすがにそれは考えすぎかと思いつつ、そんなシーンを想像してる自分に苦笑する。
思春期の中学生じゃないのだから、こんなことぐらいで動揺する必要もない。そもそもトイレなら、相手が入浴する前に済ませておけばいい話だった。
幸いにして今日はしばらく尿意を催しそうになかったので、雪村薫がシャワーを使ってる間は楽に乗り切れるだろう。明日からは、注意しておけば問題ない。
「ま、なるようにしかならないか」
独り言を呟きながら、陽介は食卓の上に置いておいた煙草に手を伸ばす。雪村薫が入浴中の今なら、変な論争をして料理が焦げることもない。
火をつけた煙草の煙を肺全体で吸い込みながら、陽介はリモコンを使ってテレビをつける。
色々とチャンネルを変えてみるも、ろくな番組がやっていない。ドラマもニュースもバラエティも、すべて各局似たり寄ったりで何の目新しさもないのだ。
昨今、視聴率が低迷してると言われているが、これなら無理もない。インターネットやアニメなどのせいではなく、番組自体がつまらないのである。
結局、煙草を吸い終えると同時にテレビを消し、ソファの背もたれに身体を預ける。
「どうもありがとうございました」
まったりしてる間に入浴が終わったらしく、リビングのドアを開きながら女性がお礼を言ってきた。
両手でしっかりバッグを抱える姿は入浴前と一緒だが、格好が違っている。リラックスできる部屋着に着替えていた。
「あ、あんまり見ないでください。恥ずかしいです……」
「あ……わ、悪い」
何でこんなにドキドキしてるんだ。静まるように言い聞かせるも、陽介の鼓動は激しくなるばかりだった。
下手に動揺すると、相手に伝わってしまう。そんな格好悪い醜態を晒した挙句、気まずいムードになるのだけは避けたかった。
相手にバレないよう小さく深呼吸をしたあとで、陽介は「そろそろ眠るか?」と切り出した。
帰ってきたのもいつもより遅く、料理時にぼや騒ぎもあったため、すでに日付が変わる時間になっていた。
「そうですね……でも、その……私は、どこで眠ればいいですか」
女性がそう発言するのも当然だ。陽介のアパートにあるベッドはひとつだけなのである。
他に部屋があると言ってはいたが、実際に誰かが借りれる場所はない。あくまで雪村薫を一時的に受け入れるための方便だった。
だからといって、無理やり襲いかかろうなんて魂胆はもっていない。陽介は、最初からリビングのソファで眠るつもりだった。
「そ、そんなの駄目です。こちらが押しかけたのですから、私がソファで眠ります。それだけで充分です」
わざわざ使ってるベッドを提供してもらわなくても、雨風をしのげるだけマシと考えているのだろう。それについては陽介も同感だったが、そうだなと簡単に同意できない。
このご時勢で男だからなんて言うつもりはないが、客人をソファで眠らせるような真似はできない。陽介にも、まだその程度のカッコつけ根性は残っていた。
「そんなに汚くないから、遠慮しないでおけ。それに、どっちにしろ同じ部屋でねるしかないんだ」
鼻の頭をポリポリ掻いてるうちに、陽介の照れ臭さはどんどん増大してきた。
1LDKのアパートだけに、寝室なんて上品なものは存在しない。これまでは陽介ひとりで住んでいたこともあり、ベッドの周囲に仕切りなどもつけてなかった。
従ってベッドで寝ようが、ソファで寝ようが互いに寝顔が見える位置で休む事実には変わりない。
「騙されたと思うかもしれないが、まあ、勘弁してくれ。変なことをするつもりはないからさ」
「そんな……騙されたなんて……でも、やっぱり私がソファで――」
このままではいつまでたっても休めそうになかったので、半ば強引に陽介は雪村薫をベッドの方へ押す。そのあとで自分は予備のタオルケットと毛布を取り出す。
ソファへごろりと横になると毛布類を腹にかけ、普段は腰痛対策として使っているクッションを枕代わりにする。
「そんじゃ、お休み」
それだけ言うと陽介は上げた片手をひらひらさせて、目を閉じた。まだ雪村薫が何か言っていたが、付き合っていたらしまいの果てには口論になる。
明日――正確には今日も仕事があるだけに、そのような展開になるのだけは避けたかった。
しばらくは目を閉じたまま相手の様子を窺っていたが、意外と疲れがあったのか、気づけば陽介は深い睡眠へと落ちていた。
「ん……」
鼻先をくすぐる香りにいざなわれ、陽介は夢の世界から帰還する。
いつもみたいに寝返りをうつと、途端に重力が失われて眠っている場所から落下しそうになる。
――危ない。慌てて目を開いて、陽介はバランスを整える。ソファで眠っているのを、すっかり忘れていた。
普通にベッドで寝てる感覚で動こうものなら、ドスンと床へ落ちるのも当たり前だった。
もっとも今回は寸前で防げたため、間抜けな姿を晒すことはなかった。
「もう朝か……」
上半身を起こしてベッドの方を見ると、そこには誰もいない。とはいえ、シーツ類が多少乱れているので、きちんと眠ったのだけは間違いなさそうだった。
意地を張って一睡もしない可能性がある相手だっただけに、とりあえず陽介はホッとする。
だがリビングに雪村薫の姿はない。洗顔でもしてるのか、もしくは責任を感じて出て行ってしまったのか。考えるも、半分寝ぼけてる今の状態では、ろくな答えを導けない。
ソファの上でボーっとしてるうちに、リビングのドアが元気よく開いた。キッチンがある場所からやってきたのは、雪村薫当人だった。
ニッコリ笑顔と明るい声は、万人が想像する朝の光景そのものだ。雪村薫は両手にお皿を持っており、ツカツカとこちらへ歩いてくる。
「昨日はすみませんでした……やっぱり杜若さんは気を遣ってくださっていたのですね。なるべく早いうちに――」
「――朝から湿っぽい話はなしだ。憂鬱感が倍増する」
気にするなと言っても、額面どおりに受け取る人物ではないだけに、謝罪攻勢が始まる前に陽介は相手の言葉を遮った。
「ところで……手に持ってる皿は何だ」
天井へ立ち昇り続ける湯気が、やけに香ばしい匂いを放っている。大体想像はついたが、万が一の予期せぬサプライズが炸裂するかもしれない。
そこまで考えたところで、それはないなと陽介は自嘲する。その様子を訝しげに思ったらしく、リビングの出入口付近に立っている雪村薫が小首を傾げる。
しかしすぐに皿の中身の話題へ戻り、食卓の上へ置きながら「これは昨日のお礼です」と告げてきた。
皿の上に乗っていたのは、目玉焼きだった。誰がどう見ても、間違いようがない。とはいえ、自炊しない陽介が出来立てのを見たのは久しぶりだ。
朝早くから雪村薫が料理していたことよりも、自宅の冷蔵庫に卵がひとつでも残っていた事実が驚きだった。
「……よく、卵なんてあったな……」
「はい。冷蔵庫をよく探してみたら、奥に一個だけ転がってました。本当はベーコンエッグにしたかったのですけど、材料が……その……」
途中まで言って、食卓側にいる女性が口ごもる。恐らく、泊めてもらった身分で人の家の冷蔵庫に言及するなんて……とか考えて、ひとり後悔をしてるに違いない。
また例のが始まるなと思った陽介は、先手を取って「謝らなくていいぞ」と釘をさしておく。すると相手女性は、少し困った顔で「うっ」と呻いた。どうやら図星だったようである。
「杜若さんは、優しいのか意地悪なのか、よくわかりません」
「そんなことはないさ。その証拠に、目玉焼きの最初のひと口を譲ってやるよ」
「え? だ、駄目ですよ。杜若さんに喜んでいただこうと、作ったんです。私のことは気にせずに、おひとりで食べてください」
一個しかない卵を調理しただけに、もうひとつ目玉焼きをすぐ作るのは物理的に不可能だった。ゆえに、雪村薫は遠慮してるのだ。
「遠慮するな。せっかく作ったんだったら、二人で食べればいい」
そう言って陽介は、食卓の上にある箸やスプーン、フォークなどを入れてる容器から箸を取り出した。
雪村薫が食べないなら、自分もいらない。陽介が告げると、相手女性は感激した様子で「そこまでおっしゃっていただけるのなら」と、自分もフォークを掴んだ。
それでも遠慮気味に白身の端っこを少しだけ取り、食卓についたばかりの女性は自らの口へ運ぶ。
もぐもぐと口を動かして、味を確かめた上で「美味しい」と舌鼓を打つ。塩胡椒で味付けをしてるみたいで、新たに調味料を加える必要はなかった。
「杜若さんも食べてください」
食べずにじっと雪村薫を見てる陽介を不審がり、相手女性はそんな言葉をかけてきた。
けれど陽介は箸を動かさない。それには確かな理由があった。
「それにしても、よく卵なんてあったな。ここしばらくは、買ってなかったはずなんだが」
「……え?」
陽介の発言に、相手女性がぴしっと顔を引きつらせる。明らかに動揺していた。
「あ、あの……つ、つかぬことをお伺いしますが……し、しばらくっていうのは、どれぐらいでしょうか」
「そうだな……記憶として残ってるのは、半年ぐらい前かな」
「――っ!!」
衝撃的な事実を聞かされた相手女性は、いきなり立ち上がってキッチンへ走っていく。その後姿を見ながら、陽介は「食べ物を粗末にしたら、駄目だろ」と半笑いで忠告してみる。
すると、ドア向こうのキッチンで「やっぱり、杜若さんは意地悪です――っ!」という雪村薫の魂の叫びが放たれたのだった。