10
「もうすぐできますから、あと少しだけ待っててくださいね」
……どうして、こんな展開になったのだろう。キッチンで忙しそうに動く女性の背中を眺めながら、陽介はそんなことを考えていた。
最初はただ単純に、不思議に思っていただけだった。それがひょんなきっかけで会話をすることになり、あれよあれよという間に例の女性は現在陽介の自宅にいる。
誘ったのは陽介自身だが、別に下心ゆえの行動ではなかった。なんとなしに、こういう展開になっていたのである。
遠慮しながらも陽介宅に上がった雪村薫は、冷蔵庫の中身を確認するなり料理をすると言い出した。
お世話になるお礼にと、自ら調理係を申し出たのだ。自炊しない陽介にはありがたかったが、本当に食べれるものが出てくるかどうかは疑問だった。
陽介も手伝おうかとも考えたが、途中で止めておくべきだという結論に達していた。理由は幼少時代まで遡る。
まだ家族が幸せに暮らしていた頃、母親の手伝いがしたくて陽介少年は包丁を手に取った。
実際に使用した経験はなかったが、毎日料理する母の姿を見ていたので、できると勝手に判断していた。
そして数分後。泣きながら、大きくなるまでは包丁を持たないでと母親に懇願された。
当時を思い出すには記憶力が不足しているものの、相当に危ない手つきを披露していたのだと容易に想像できる。
それ以来、大きくなったら一緒に料理をしようというのが母親の口癖になった。もっとも、その願いは結局最後まで叶わなかった。
少しだけしんみりしてしまった気分を解消するべく、陽介はズボンのポケットに入っていた煙草の箱から一本だけ取り出す。口に咥えて火をつけ、息を吸うと先端が一気に赤く染まる。
肺全体に吸い込んだ煙を、小さく開いた唇の隙間から吐き出す。ゆらめく紫煙が天井にぶつかり拡散し、室内へ独特の臭いを充満させる。
それに気づいた雪村薫が、陽介の方を振り返って、何か言いたげにしている。
「もしかして……煙草の煙は嫌いだったか?」
自分の家なのに相手へ遠慮するのは変だったが、どうしても無理だと言うのであればやむをえない。嫌がらせみたいに吸っていても、あまり美味しくないからだ。それぐらいの優しさは陽介にもあった。
「いえ……私は平気ですけど……その……」
世話になる立場なだけに遠慮してるのか、相手の発言にいつもの切れはなかった。
「気にしないで言ってくれ。煙草は好きだが、嫌がってる相手の側で無理に吸うつもりはない」
「そうですか……では、あの……臭いは大丈夫なのですが、杜若さんがお体を壊すのではないかと思いまして……」
どうやら相手は煙草の煙が苦手だったのではなく、単純に陽介を心配してくれていたのだ。雪村薫らしいが、大丈夫なら煙草を消す必要はなかった。
「まあ、身体にいいものでないのは確かだろうから、万人に勧められるものではないな」
言いつつも、陽介はいつものとおりに煙草を吹かす。こうしてる時が、陽介の数少ない幸せのひとつだった。
「でも、俺はこれでいいんだ。人生がいつ終わるかなんて、誰にもわからない。それなら、少しでも好きなことをしていたいんだ。心配してくれるのはありがたいけどな」
煙草の煙を吸いながらかすかに笑ってみせると、少し悲しげではあったが「そうですか」と雪村薫は頷いた。
これには拍子抜けし、陽介は思わず目を真ん丸くする。
「え? ど、どうしたんですか?」
「いや……てっきり、いつもの調子で身体に悪いものは悪いんですっ! とか言ってくると思ってたからな……何か悪いものでも食ったのか?」
「そ、それはさすがにあんまりですよっ! た、確かに……そうしようかとも一瞬思いましたけど……でもっ! 私なりに杜若さんを理解しようと頑張ってるんですよ」
「でも、言おうとは思ったんだ?」
「もちろんです。身体に悪いものは悪いですから」
なんだかとても微笑ましい気分になり、陽介は自然に笑みを作っていた。愛想笑いが多くなっていたので、こうした機会はずいぶん久しぶりに感じられる。
だがその直後に、あまり笑い事にならない出来事が発生する。
キッチンから目を離して陽介と会話してる間に、調理中のフライパンが火を噴いたのである。
よくテレビで見る中華料理屋の厨房みたいな光景に、陽介は唖然として声を出せなかった。
それでもなんとか指を差した陽介だったが、当の雪村薫は自分が何か言われてると思ったみたいだった。
「私がどうかしたのですか……って、杜若さん、顔が真っ青じゃないですか。一体どうしたんですか」
どうかしてるのはお前の後ろだと言おうとしても、あまりの驚愕に言葉が出てこない。水面から顔を出して餌を求める金魚のごとく、口をパクつかせるのが精一杯だった。
早く状況を理解してほしいのに、雪村薫は背後の惨事に気づくことなく、ひたすら陽介の心配をしている。
身を案じてくれるのはありがたかったが、生憎と現在はそんな場合ではなかった。目の前にいる女性の背後を指差しながら、陽介はひたすら声にならない声を上げ続ける。
「何か言いたいのですか? それならきちんと言ってください。もしかして、そうできない理由でもあるのですか? きゅ、救急車を呼んだ方がいいのかしら……」
顎に指を当てて考えるよりも、もっと大事なことがあるだろう。そう言いたいのに、やはり陽介はうまく言葉を形成できなかった。
人間、本物の窮地に陥ると声も出なくなるとよく言うが、まさしくそのとおりだと実感せずにはいられない状況だった。
「私はどうすれば……それにしても、ずいぶん暑くなってきましたね。今日は熱帯夜にでもなるのでしょうか」
的外れな発言をしながらではあるものの、ここでようやく雪村薫が自身の背後にあるコンロを見てくれた。
「…………にょわ――っ!!!」
しばらくの沈黙のあと、ようやく事態に気づいた女性が両手を上げてビックリポーズをとる。
「ひ……火だっ! とりあえず、コンロの火を止めてくれっ!」
相手の大声で、ようやく金縛りから回復した陽介が雪村薫に指示を出す。それを受けて身をかがめた女性が、なんとかコンロのつまみを回して消火させる。
その間にキッチンから飛び出した陽介は、室内に設置されている小型の消火器を持ち出して、またすぐに雪村薫のもとへ戻る。
どうしようと慌てふためいている女性を下がらせ、轟々と燃え盛っているフライパンの上目掛けて陽介は消火器を発射する。
ブシュウウウと勢いよく中身が飛び出し、フライパンの上で調理されていた何かごと炎を白く染めていく。火事というレベルにまでは達してなかったため、ほどなく火は消失し、室内に平穏が戻った。
「と、とりあえず……火は消えたみたいだな……」
確認のために陽介が呟くと、背後で身体を小さくしていた雪村薫がそろそろとフライパンに近づいて状況を確認する。
「ええ……もう大丈夫です……すみませんでした……」
頷いたあとで、しょんぼりと相手女性が頭を下げてくる。先ほどまでの元気はすっかりなくなっており、見てるこちらが切なくなるぐらいだった。
もっともある意味当然と言えるかもしれない。居候させてもらう相手の家で、いいところを見せようとした挙句にぼや騒ぎを発生させたのだ。これで大笑いでもしてた日には、人間性を疑われる。
そんな相手を見てればとても怒る気にはなれず、陽介は肩をすくめて軽く息を吐いただけで終わらせる。もとより、雪村薫を怒鳴るつもりなど、最初からなかった。
「そんなに気にすんな。それより……何を作ってたんだ」
フライパンの上の物体は丸こげになった挙句、消火器の洗礼を浴びている。もはや外見で元が何かと、推測するのは不可能な状態だった。
「……パスタです。一応は得意料理のつもりだったのですが……」
そう言って、雪村薫は途中で口ごもる。陽介もパスタは好きなので、確かに買い置きがあった。どうやら相手の発言に、間違いはなさそうである。
「パスタか……」
食べれなくなると、急に食べたくなるのが人情というものだ。その欲求を解消するべく、陽介は押入れへ向かって歩き始める。
「それなら、今度は俺が調理してやるよ」
言いながら押入れの扉を開けた陽介が中から取り出したのは、カップ型のインスタントパスタだった。
丁度二つあったので、陽介はやかんでお湯を沸かしてそれぞれを同時に調理した。
もっともお湯さえ沸かせれば工程の半分は完了するため、調理などとたいそれたものでもなかった。
しかしながら最近のカップパスタも進化しており、なかなかに美味だったりする。だからこそ、陽介も買い置きをしていたのである。
陽介と雪村薫は二人して向かい合いながら、ズルズルとパスタを食べ続ける。危うく火事の元凶となりかけたフライパンは、キッチンで水に浸かっている。
これで万事解決と思われたが、正面にいる女性が時折ため息をついてるのを見ると、そう感じてるのは陽介ひとりみたいだった。
「まだ気にしてんのか?」
何度目かのため息姿を見たあと、陽介は相手女性に話しかけた。
「え……あ、はい……私のせいで、こんな食事になってしまって……」
火事まで起こしかけたのだから、気落ちするのも当然だったが、いつまでもこの状態では美味しい食事とるのなど不可能だ。柄ではないと知りつつも、陽介は相手を励まそうとする。
「おいおい。こんな食事なんて言ったら、このカップパスタを作ってるメーカーに失礼だろ。それに、これだって充分に美味しいんだ。晩飯に不適格ってわけでもないさ」
「ありがとうございます。励ましてくれてるんですよね。でも……やっぱり、杜若さんに手料理をご馳走してあげたかったので、残念です」
――ど、どういう意味だ!? 陽介の鼓動速度が急激に上昇する。髪の毛が邪魔にならないよう、手で寄せながらパスタを食してる相手を眺めつつ、ドキマギする。
「そ、そうか……」
それはどういう意味ですかとはとても聞けず、陽介はどもりながら返事をするので精一杯だった。
心臓に悪い女だと思いながら、パスタを口に運ぶ。すると相手は再度「本当に申し訳ありませんでした」と謝罪してきた。
どうやら陽介が考えてるような意図はなかったらしく、単純に居候させてもらうお礼として料理をご馳走したかっただけみたいである。
残念さとともに落胆しそうになってる自分に気づき、陽介は気分を変えるべく慌てて火事になりかけた場面を思い返す。すると、唐突に笑いがこみあげてきた。
クックと笑う陽介を不審がり、雪村薫は「どうかしましたか?」と尋ねてくる。
「いや、お前の悲鳴が傑作だったからさ。今時、にょわーはないだろ。にょわーは」
陽介にからかわれると、今度はこちらが火事かと思うような勢いで雪村薫の顔が真っ赤になった。
「そ、そんな悲鳴は上げてませんっ! ね、捏造しないでください」
「捏造って……ムキになってるのが証拠だろ。ひょっとして、自分でも覚えてるんじゃないのか?」
陽介の言葉にギクリとした表情を見せたあとで、相手女性は「知りません」とそっぽを向いてカップパスタを平らげていく。照れ隠しなのは明らかで、その姿を眺めてるとまたもや顔が自然に笑みを作る。
「か、杜若さんは意地悪です……っ!」
そう言いながら、最終的には雪村薫も笑顔を見せるのだった。