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誰かが泣いている。どこからか聞こえてくる声が、杜若陽介の胸をざわつかせる。
何故にこれほど不安になるのか。何故にこれほど苛々するのか。その理由はまったくわからない。
ただ暗闇の中で聞こえる泣き声が、どうしようもなく胸をざわつかせるのだ。
一体誰だ! 叫ぼうとしてるのに、陽介の口からは声が出ない。ますます混乱する頭脳に回答を求めても、応じてくれるはずがなかった。
「いい加減にしろっ!」
勢いに任せて上半身が浮上し、視界が急速に開けてくる。周囲へ視線を飛ばせば、見慣れた光景が映る。
ここは間違いなく陽介の部屋だった。荒くなっている呼吸を整えながら、自分がベッドの上に座っているのを確認する。
……夢か。ひと息ついたのち、陽介は先ほどまでの出来事を、そのひと言で片付けた。
だが例の泣き声が耳の奥にこびりついており、目を閉じればまだ夢の中へいるみたいに大迫力でリピート再生される。
「――チッ。変な夢を見ちまった。よっぽど疲れてるみたいだな」
自分自身をシャキッとさせるため、陽介は自宅アパートの洗面台へ向かう。
先ほどベッドの横に置いてある時計を見たら、すでに午前七時になっていた。
社会人である陽介は就業開始である午前八時までには、所属している会社に行かなければならない。そうしなければ金を稼げず、ご飯が食べれないからである。
面倒くさくはあるが、これも産まれたこの国の社会システムなので従うしかなかった。
洗面所で顔を洗い、朝食用に昨夜スーパーで買っておいたおにぎりを冷蔵庫から取り出す。中の具は無難に梅干を選択している。
たいして美味くもないが、マズくもない。手軽な値段で手軽に食べれることから、朝食には最適だった。
同じく冷蔵庫から取り出した小さなパックの牛乳を飲みながら、おにぎりを二つ平らげる。
空腹が見たされたところで、陽介は先ほどのベッドがある場所へ戻って煙草を手に取る。
食卓へ戻ってきてから、椅子に座って百円ライターで煙草へ火をつける。
肺全体で煙を吸い込んでから、ゆっくりと吐き出す。紫煙がゆらゆらと天井へ舞い上がり、途中で儚げに消えた。
もっとも目に見えなくなっただけで、成分はしっかり室内に残ってるのが臭いでわかる。
朝のリラックスタイムを終え、再びベッド付近へ戻る。出勤用のスーツへ着替えるためだった。
陽介が住んでいるのは1LDKのアパートで、比較的築年数は新しい。最寄り駅から多少遠い位置に建ってはいるが、なかなかの物件である。
都会でこれぐらいの部屋となれば、家賃もそれなりにかかる。安給料の身分としては痛いが、生活の拠点となる場所を確保するためには仕方なかった。
準備を終えて時計を見ると七時十五分になっていた。これから十五分かけて駅まで歩き、いつもの電車でさらに十五分揺られる。その後、五分ほど歩けばつまらない会社に到着である。
行きたくないと駄々をこねるわけにもいかないので、玄関で靴を履いた陽介はそのまま自宅をあとにする。
「まったく、移動ほど面倒なものはねえな」
降り立った駅で愚痴りながら、某猫型ロボットの便利なアイテムを思い浮かべる。
本気で欲してる自分自身に、思わず陽介は失笑する。やはりだいぶ疲れてると考えて間違いなかった。
駅のホームを出て、人通りの多い交差点を渡る。途中にある公園を無事に通過すれば、会社はもうすぐそこだった。
「……ん?」
足早に公園を通り過ぎようとする陽介の視界に、ひと組の男女が映った。
心から幸せそうに笑う女性の姿を眺めながら「その幸せを、少しでいいからわけてほしいもんだ」と呟く。
いつまでも他人をやっかんでる趣味はないので、すぐに視線を外して己が向かうべき場所を真っ直ぐに目指す。会社へ入る頃には、先ほどの男女のことなど、一切気にならなくなっていた。
いつもと変わらない業務プラス残業を終え、陽介は会社から外へ出る。
基本的には書類整理などのデスクワークが主となるため、営業とは違って業務時間中に外出したりする機会は少ない。仕事場でもブラインドがかかっているため、稀に日の光が恋しくなったりする。
帰宅する頃になれば、太陽はすっかり隠れて月の出番になっている。
闇夜を照らす月というのもなかなか趣があるものの、さすがにほぼ毎日だと飽きてくる。
コンビニへ寄って本日の夕食と明日の朝食を調達し、早く自宅へ戻ろうと考える。
同僚に飲み会などへ誘われたりもするが、基本的にあまり酒が好きでない陽介が参加することはほとんどなかった。
スーツの懐から取り出した煙草の箱から、一本だけ口に咥えて取り出す。ライターで火をつけて、闇に包まれた世界へ新たな明かりを灯した。
夜風とともに入ってくる煙が肺に染みて、生きているという充実感を陽介に与えてくれる。
このぐらいしか幸せがないというのも寂しい限りだが、それほど不満に思ってないのでよしとする。
夜空へゆらゆら舞い上がる煙を眺めながら歩いていると、陽介に視界にふと人影が映りこんできた。
歩いている場所は今朝も通った公園。会社と駅を往復する近道であり、緑の爽やかさを堪能できる場所でもある。
問題点があるとすれば、街灯の少なさのせいで夜は日中より格段に不気味さを増すところぐらいだ。
なので午後十時を過ぎた現在くらいになれば、ほとんど人はいなくなる。
好んで滞在しているのは、いかがわしいことをしようと画策しているカップルと、それを覗き見たがっている出歯亀連中ぐらいだった。
だからこそ余計に目を引いたのだ。ベンチにひとり座ってる女性の姿が。どこか寂しそうにしながら、夜空を見ている。
夜の寒さでかじかんだ手を温めるように息を吐きかけながら、まるで何個の星が輝いてるのか数えてるみたいだった。
変な女だな――。それが陽介の第一印象だった。
誰かと待ち合わせしてるのだろうが、この時間を選択していることからもロクな相手ではないだろう。もっとも陽介には関係ないので、無視して通り過ぎるだけだった。
その途中で、陽介はとある光景を思い出す。まだ日差しが降り注いでる時間に、公園で男性とはしゃいでいる女性の姿。該当人物の顔が脳裏へフラッシュバックされた瞬間、迂闊にも「あっ」と声を発してしまった。
丁度ベンチ付近を通ろうとしていただけに、女性の耳へもまともに間抜けな声が届いてしまった。
するとそれまで空を見上げていた女性が、急いで顔を戻した。
「あっ……」
物真似でもしたかったのかと考えてみたが、そんなはずがあるわけない。証拠に女性は陽介みたいな声を出したあとで、残念そうな表情を浮かべた。
声を聞いて待ち人が来たのかと勘違いしたのだろう。悪いことをしてしまったと思いつつ、陽介は恥ずかしさからすぐにこの場を離れようとする。
だがここで予想外に、その女性が「あの……」と陽介へ声をかけてきた。
陽介の態度が明らかに挙動不審だったせいもあり、何を言われるのかとドギマギする。
けれど相手が発したのは、想定外のひと言だった。
「何か……ご用でしょうか」
「は?」
いきなり変な声を出さないでください――。そんなふうに責められるのかと思いきや、先ほどの発言である。
心の中であれこれ言い訳みたいな台詞を用意していたのに、何ひとつ役に立ちそうもない。それが余計に陽介を焦らせた。
何も言えずにうろたえる陽介を見て、訝るどころか女性は穏やかな微笑を浮かべる。
「先ほど、話しかけられませんでしたか?」
丁寧かつ穏やかな口調で尋ねてくる女性に対して、違うと意思表示するために陽介は慌てて首を左右に振る。
話しかけようとか、ナンパをしようなどと思っていたわけではない。単純に、驚きから声が漏れてしまっただけだった。
今朝、同じ公園で幸せそうにしていた女性が、半日以上経過してなお同じ場所へいる。
恐らくは他の場所へ移動してから戻ってきたのだろうが、会社で仕事をしていた陽介には確認しようもなかった。
そのため、ずっとこの場へ留まってるような印象を受けたのだ。根拠のひとつとして、服装が同じだった点も上げられるが、今になって考えてみれば一日に何度も着替えてる人間の方が珍しい。
自分の早とちりが恥ずかしくなり、とりあえず相手の女性へ「ごめん」と謝罪する。
陽介の頭の中だけで勝手に自己完結しているので、当然のごとく女性は何で謝られたのかわかっていない。ここで初めて笑顔ではない表情を見せた。
もっとも怪しんでるとかではなく、あくまで不思議がってきょとんとしている。
ここまで接触しておいて、何も言わずに走って逃走するのもばつが悪い。仕方なく、陽介は自分が謝罪した経緯を女性を説明する。
「そういうことだったのですね」
話を聞き終えた女性が、再び優しげな笑みを作った。
袖の長いTシャツを身にまとい、下半身ではロングスカートを着用している。
キャミソールなどが流行している昨今、年頃の女性にしては珍しいくらいの露出度の少なさだった。
残念がってるわけでなく、単純にそんな感想を持っただけだ。もちろん、相手女性にこのことは言わない。教えたら、今度こそ変な目で見られるのがオチである。
年の頃は二十代後半といった感じで、現在二十八歳の陽介と同年代に見える。闇夜の中でも、はっきりとした存在感を示す長い黒髪が風に揺れてなびく。穏やかそうな外見にマッチしており、女性の魅力をこれでもかというぐらい強調していた。
十人中九人は、この女性を見れば綺麗だという印象を持つだろう。価値観の多様な現代においても、きちんと評価されるべき美貌を誇っていた。
これだけの女性なのだから、彼がいて当然であり、朝のイチャつき具合も納得がいく。恋人がいない陽介からすれば多少癪だが、だからといって他者を徹底的にやっかむほど人間は腐っていなかった。
「だとしたら、謝る必要はありませんよ。貴方の想像どおりですから」
もう一度謝ってこの場から立ち去ろうとした時、女性が思わぬ発言を口にした。
陽介の想像どおりで正しいというなら、この女性は十時間以上もずっとこの公園へ滞在していることになる。
驚かされた仕返しの可愛い冗談だと判断した陽介は、愛想笑いを浮かべながら「それは大変ですね」と皮肉ともとれる返しをした。
「ええ……本当に……」
これまでほとんど笑顔だった女性が見せた暗い表情に、陽介はドキリとする。
女性の言葉は冗談でなく、本当だったのである。だとしたら、とんでもない発言をしてしまった。
慌ててまた謝罪をしながら、今日はやたらと謝ってばかりだなと内心で呟く。女性は怒ったりせず「いいんです」とすぐに笑顔へ戻る。
「冗談だと思われても仕方ないです。私も……まだ信じられないくらいですから」
思い雰囲気を移しては大変と気遣ってくれてるのがわかるも、これだけヘビーな話を聞かされればどうしても気持ちは沈む。何と言ったらいいかわからず、またも陽介は挙動不審モードへ突入する。
「ごめんなさい……見ず知らずの他人に、いきなりこんなことを言われても困りますよね」
「い、いや……で、でも……何で、そんなことに……?」
深入りをしたら駄目だとわかっているのに、何故か陽介は女性にそう尋ねていた。
「ええと……そうですね。もうだいぶ話してしまってますし……」
少しだけ躊躇ったのち、女性は少しだけ俯き加減になり、事情を説明してくれた。
「ここで待っていてほしいと言われて、それっきりです」