必修科目その2:地理
国がどこにあるやらどんな王が収めているやらといった勉強自体はそう難しくなかった。
問題だったのは国内の地理で、俺の住む国にはどんな領地があるやらどんな領主がそこを治めているやらまではまだよかった。一通りその勉強が終わると、次はどんな特産物があるやら父はどこの領主と仲がいいやらと、地理どころか父と他の貴族の間の交友関係まで覚えなければならなかったのだ。
さらに、父の領地であるリシュリュー領についてはどんな町や村があり誰が管理しているかまで勉強しなければならなかった。公爵という爵位を持っているだけあってリシュリュー領は一つの国が出来るほど広く、覚える量も今までやってきた勉強を合わせたものの倍近くはあった。
毎日聞いたことを紙に書き写し、復唱して必死に頭の中に叩き込んだが、元々よくない頭では追い付かず、布団の中にまで紙を引っ張り込んでヘビがのたくったような自分の字と格闘した。
これだけ勉強したのは多分、高校受験以来だろう。毎夜遅くまで紙とにらめっこしてた甲斐あって、二年経って地理の勉強が終わる頃には質問されれば大抵のことには答えられるようになった。
「その年でここまで覚えることが出来るとは……。文字も最初の頃とは比べ物にならないぐらい上手く書けていますし、十分すぎるほどですよ」
俺が今までの勉強の成果をまとめた紙を片手に、信じられないといった表情でパトリック先生が言う。
「素晴らしいですよ、ランベール様。10代前半の子供でもここまで理解出来ている子はいないでしょう」
まるで自分のことのように喜び賞賛してくれる先生には悪いが、俺は気付かれないように小さく苦笑した。
その年でここまでとは言うが、俺の精神年齢は肉体的な年齢よりもはるかに上である。確かに7歳でどこにどの領地があるか解っている子供は少ないと思うが、俺の場合は二年間頑張ればここまで出来て当たり前だ。
地理と並行してやっている勉強は作法の勉強と軽い算数の勉強ぐらいで、作法は普段使うものだから覚えて当然、最大四桁の計算ぐらい習わなくてもできる。
「しかし、参りましたねぇ」
にこにこと笑っていたパトリック先生は、急に真顔になって少し考える素振りを見せる。
「何がですか?」
不思議に思って、昔よりもしっかりした口調で聞くと、彼は困ったように笑った。
「いえ、まさかこんなに早くランベール様にお教えすることがなくなるとは思っていなかったもので……」
「えっ、勉強はもうこれで終わりなんですか?」
「ええ、私がお教えできるものはもうありません」
それを聞いて、やっとあの地獄のような勉強の日々が終わるのだと思って僅かに喜んだが、先生の言い方に引っ掛かりを覚えて首を傾げる。
「パトリック先生が教えて下さる勉強は、ですか?」
「ええ。私がお教えできる勉強は、です」
「……ということは、勉強すべきことはまだあるんですか?」
「ええ、もちろん」
持ち上がった気分が一気に冷めていく。がくりと肩を落として机の上に突っ伏すと、先生はまあまあと宥めるように苦笑した。
まあ、考えてみれば文字と地理の勉強だけで公爵家の嫡男としての勉強が終わる筈がない。俺にはまだ領地を経営するために必要だと思われる知識はないし、魔物や魔法といったこの世界における常識らしきものも教わっていない。
魔力についてなら簡単な説明を受けたが、生まれつき魔力の強さには差があって、先生には魔法が使えるほどの魔力がないから他の人に習うしかないということを聞いただけだ。
「では先生、他の勉強は誰から学べばいいんですか?」
「そうですねぇ……。普通はお父上のお仕事を少しずつお手伝いさせていただきながら学んだり、小さな領地を分けていただいて実際に管理してみたりすることが基本です。誰から教わるのかと言えば、お父上からでしょうね」
「父上から、ですか?」
「ええ。でもランベール様はまだお若いですから、当分先のことになります」
確かに、たった7歳の子供が父の仕事場に押しかけても邪魔になるだけだろう。もし何らかの間違いを起こしてしまえば、俺のせいではなく父のせいになってしまう。
それに小さなミスでも起こりうる可能性があるというのなら、厳格な性格の父がそれを許すとは思えない。
「では、普通は何歳ぐらいで学ぶものなのでしょうか」
「ううん……早くて15歳、遅くて20歳ぐらいからでしょうか。領地を分けていただくにしても、あまりに若すぎると領民が不安がってしまいますから」
そうか、領民のことも考えなければならないのか。そりゃあ小さな子供が自分の住む場所を管理すると言われれば誰だって不安がるだろう。
ただの平民が領主に口答えできるのかはさておき、俺が管理される側だったなら何を馬鹿なことをと反対する。
「ランベール、入るぞ」
ということは、少なくとも15歳までは勉強しなくてもいいということだろうか。勝手に浮足立った俺は、前触れなく頭の中に響くような低い声が聞こえて現実に引き戻された。
机にへばりついていた俺が慌てて姿勢を正して声のした方を見ると、そこには金の刺繍がされた紺色の服を着た父が、護衛の男二人を従えて立っていた。
椅子を蹴飛ばすように慌てて立ち上がり、深く腰を折る先生を制して、父は俺の方へとやってくる。
「ランベールよ。勉強は進んでいるか?」
俺の肩に手を置き、厳つい顔を少しだけ緩めて聞かれ、素直に頷いた。
「はい、父上。パトリック先生が言うには、もう先生から教わることはないと」
父は少し驚いたように目を瞠り、パトリック先生の方を見る。
「……本当か?パトリック」
「は、はいコルネーユ様。私がお教えすべきことは全てお教えいたしました」
「なんと……」
驚いて言葉をなくしていた父だったが、口元に嬉しそうな――――本当に嬉しそうな笑みを浮かべて、俺の頭を優しく撫でた。
「そうか。お前は本当に賢いな、ランベール」
「いえ……僕はただ、先生から教えていただいたことを覚えただけです」
今までにないくらい優しい手つきで撫でられてむず痒く思いながら、真面目くさった顔で言う。けれど父は俺が内心で照れていることなんてお見通しだったんだろう、一層優しげに頭を撫でて笑った。
前世でもされた覚えがない撫でられ方にどぎまぎして、話題を変えるためにそういえば、と呟いた。
「何かご用があったのでは?」
ああ、と思い出したように父は厳しげな顔に戻る。いつもながら切り替えが早いなと思いつつ、父の手が俺の頭から離れて行ったことにすこしほっとした。
「三ヵ月後に王都で催されるパーティーに、お前を連れて行くことになった」
「……はい?パーティー、ですか?」
安心したのもつかの間、一瞬何を言われたのか分からず、思わず聞き返す。
「国王陛下主催の、殿下が7歳になられたことを祝うパーティーだ。念入りに準備しておくように」
早口にそれだけ言うと、父は忙しそうに背を向けて護衛の男二人を引き連れて出て行ってしまった。
三ヵ月後にパーティーに連れて行くから準備をしておけと言われても、何をどう準備しろと言うのだろう。ぽかんと口を開けて父の背を見送った俺とは対照的に、パトリック先生は緊張の糸が説けたように力を抜いて笑っていた。
「流石は公爵閣下。何度お目通りしても緊張しますねぇ。それにしても……国王陛下主催のパーティーですか。ランベール様は、パーティーに出席したことはあるのですか?」
「え……ああ、いや。」
随分気のない返事を返したにもかかわらず、何が楽しいのかパトリック先生は一層にこにこと笑う。
「ということは、陛下主催のパーティーが社交界デビューとなるのですね。素晴らしいではないですか!」
「ええと……」
「丁度ランベール様も7歳ですから、デビューするのに適切な年齢ですね。自分の家が主催するパーティーではなく陛下主催のパーティが初めての社交界だなんて、素晴らしいデビューですよ」
普段あまり興奮しない先生がしきりに素晴らしいと繰り返すことから、普通ならば自分の家で開くパーティーに出席して、そこで初めて社交界デビューとなるのだろう。俺も貴族の息子として生まれたのだから、いつかはそういう所に出るのだろうとは覚悟していた。
けれどまさか、国王自らが主催するパーティーにたった7歳で、それもまだ貴族のパーティーとやらがどんなものかわかっていないうちに出席することになるなどと誰が思うだろう。
「でも先生、父上は準備をしろと僕に言いましたが、パーティーが初めてである僕には何を準備すればいいのかわかりません」
「ああ、ランベール様はパーティーが初めてでしたものね。そうですねぇ……では、私がお手伝いいたしましょう。国王陛下が主催となると、気合を入れて準備しなければなりませんしね」
私が教えることはもうないと思っていたのに、こんなところでお役にたてるとは嬉しいですねぇ、と張り切るパトリック先生に、拒絶とも言えない小さな反抗を封じ込められて、ひきつった笑みを返す事しかできなかった。
なんやかんやと理由をつけて駄々を捏ねたかったところだが、国王主催のパーティーともなると参加する意思表明をしておいて欠席するわけにはいかないだろう。
結局俺は父に言われるがままにパーティーに参加する準備を進めた。とはいえ荷造りをしてくれたのはメイドとパトリック先生で、俺自身はほとんど何もしていない。やったことといえばパーティー用の服を作りにやってきた仕立て屋に寸法を測ってもらったり、先生と共に礼儀作法の復習をしたことぐらいで、あとはどんどん勝手にできていく大量の荷物を口元をひきつらせながら眺めていただけだ。
この大荷物の中にそんなに必要なものがあるのだろうかと疑問に思いながらもあっというまに三ヶ月が過ぎて、がたんごとんと外装の豪華さとは裏腹に乱暴に揺れる馬車に乗り、俺と両親は王都へ向けて出発していた。
俺達が領主の館から出たのは今から五日も前だ。しかし普通は館から王都まで馬で二日もかからないと聞いた。だというのにここまで時間がかかっているのは、ある一定の距離を移動すると近くの町にある公爵家の別荘に泊まり、朝になるとまた馬車に乗って一定の距離を移動してと、疲労が蓄積するのを回避するためかどうかは知らないが、そうやって必要以上にのろのろ進んでいるためらしい。
らしいというのは、俺は生前でも今生でも馬車に乗って移動したことがないし、外を見ていないためにどれだけの距離を移動したのかが分かりにくいからだ。いや、見ていないと言うよりは、見えないと言った方が正しい。
公爵家の家紋が刻印された、無駄に凝った装飾で飾り立てられた豪勢な馬車には、窓がない。父の言葉によると、万が一襲撃された時に窓から攻撃されることを防ぐためで、長距離を移動するほとんどの馬車には窓がないそうだ。
「父上、王都にはまだつかないのでしょうか」
長い間馬車に揺られていたせいで、ふかふかのクッションをしいた座席がまったく意味を成していない。
がたんごとんと上下左右に揺れる馬車のせいで、そろそろケツが我慢できないほど痛くなってきた俺がそう聞くと、腕を組んで静かに座っていた父は閉じていた目を開けた。
「マルトーを出発してかなりの時間が経った。もうすぐ到着するだろう」
もうすぐ、か。そのもうすぐにどれぐらいの時間がかかるのかはわからないが、マルトーは確か王都のすぐ近くの町だった筈。少なくとも今日中には到着しそうだと安堵のため息を吐いた俺に、父の隣に座っていた母はクスクスと笑う。
「私も小さい頃に馬車に乗った時、体が痛くて痛くて仕方なかったわ。こっちへいらっしゃい、ランベール」
手招きされて、今座っている父と母を合わせてもあと四人はゆったりと座れそうな向かいの座席に移動する。
母は隣に座った俺に白く細い手をかざすと、目を閉じて集中するような素振りを見せた。
「癒しを」
耳を澄ましていなければ聞こえない程小さい声が聞こえ、ふわりと体が浮くような感覚と同時に、驚くほど唐突に体中の痛みが消えた。
「今のは、魔法ですか?」
「ええ。私は光の属性魔法が得意なの。魔力が少なくてほんの小さな魔法しか使えないけれど」
残念そうに言う母の口から出てきた聞きなれない言葉に首を傾げる。
「光の属性魔法?」
「ええ。魔法には風、火、水、雷、土、水、光、闇の8つの属性があるの。その中でも四大属性って言われている風、火、土、水は得意不得意関係なく誰でも行使できるけれど、雷、土、光、闇の属性魔法を使える人は少ないのよ」
なるほど。その四大属性は誰でも使えるが、他の四属性は何らかの素質がある人間にしか使えないということか。
風から土まではどんな魔法かなんとなく察しが付く。しかし、光は先ほど母が俺にやってくれたように人を癒すような魔法だとして、闇とはいったいどんな魔法なのだろう。光と対になってそうな気配からして、人を傷つける魔法なのだろうか。
「父上の得意な属性はどれですか?」
「コルネーユ様は雷と闇の二つの属性が得意なの。魔力も多くて、私なんかよりもっとすごい魔法が使えるわ」
では闇の魔法は何ができるのですかと聞こうと身を乗り出したその時、こんこんと馬車の側面を叩く音がした。父が馬車の扉についている細い木の板をずらすと細いのぞき穴が出来、いつも父に付き従っている二人の男のうちの一人の声が聞こえてきた。
「コルネーユ様、そろそろ王都へ入ります」
「そうか」
短く返答した父は木の板を元の位置に戻し、再び腕を組んで目を閉じる。母に質問する機会を失って、俺は大人しく椅子に深く座りなおした。どうせ魔法については学ぶ時が必ず来るという話だし、今に今知る必要もない。
しばらくして何か群衆のざわめきのようなものが聞こえ、何事かと首を傾げる俺に母が口を開く。
「王都の人々が、私たちがやってきたのを歓迎するために集まってくれているのよ」
確かにそのざわめきは、今か今かと待ち焦がれて興奮しているようにも聞こえる。
貴族がやって来るだけで人が集まるものなのですかと聞くと、父は重々しくうなずいた。
「娯楽が少ない民衆にとって、貴族が乗ってくる馬車を見ることは数少ない楽しみの一つなのだ。故に、王都に行く用事のある貴族たちの多くは、自分の権力を見せつけるために護衛や馬車を年ごとに変えていらぬ金をかける」
くだらないことに金を使うバカは多いぞ、と吐き捨てる父に苦笑したその時、俺達の乗る馬車が王都の門をくぐったらしく、小さかったざわめきが一気に爆発のような歓声に変化した。
とどろく歓声が馬車の内部まで響き、うるさそうに顔を顰める父を盗み見ながら、とうとう来てしまったか……と肩を落として嘆いた。
次話はだんすぱーちー