人知れない覚悟
俺がこの世界に生まれてから約二年が経った。
生まれてからまだ数ヶ月しか経過していなかったときは、あのだだっ広い部屋に置かれた小さなベビーベッドで寝ているか、抱き上げられて母の下へと連れて行かれるかしかできなかった。このままでは退屈で死んでしまうのではないかと危惧していたが、赤ん坊特有の寝て起きて食べて寝るという生活のおかげで退屈だと思う間もなかったな、と少しだけ振り返えってみて苦笑する。
今では自分の足で歩けるようになって、メイドの付き添いで館の中を探索することも許されるようなった。拙いながらも喋ることだってできる。その分寝る時間が減って起きている時間が増えたのだが、赤ん坊の頃のように自分では何もできないというわけではないので、それほど退屈ではない。
歩けるようになってすぐメイドと探索に出たおかげで知ることが出来たのだが、俺が寝起きする部屋があるこの館は予想以上に広い。
歩くだけで運動になる長い廊下は一階と二階で二つあり、部屋は数えてみただけでも五十は下らない。付き添いのメイド曰く、使っている部屋よりも使われていない部屋の方が多いらしい。使われていない部屋はどうしているのかと聞くと、公爵主催のパーティなどがあった際に招待客用に解放されるようだ。それでも満室になることは極稀なことだそうだが。
にもかかわらず、この屋敷の敷地内にはこことは別に本館と使用人のための別館がある。
俺の寝室がある館は公爵一家や客人用の居住用の館だ。本館には父の執務室やだだっ広い食堂などがあり、別館は使用人たちが寝泊りするのに使っている。
居住用の館でも目が痛くなるほど豪勢だというのに、本館はこれの比ではない。外装も内装も飛びぬけて派手で、敷地内にあるどの館よりも大きい。
父が公爵であると知った時に多少覚悟はしていたが、初めて本館へと訪れた時は開いた口がふさがらなかった。あれは貴族が凄いのだと取るべきか、公爵である父が凄いのだと取るべきか……。
「ランベール様、公爵様がお呼びです」
今生の名前を呼ばれて振り返ると、栗色の長い髪をポニーテールにした少女が部屋の入口に立っていた。
彼女の名前はカリーヌ・モルガンと言って、俺が両親の元へ行く時にいつも必ず一緒に来てくれるメイドだ。こうして俺の家で使用人をしているが、彼女自身もモルガン家という貴族の娘なのだという。
貴族が貴族の使用人をしている、というのはどこか違和感を感じるが、子供を自分より爵位が上の貴族の家で働かせ、礼儀作法などを身に着けさせようとすることはままある話らしい。
彼女が俺の部屋をノックもなしに訪れたとは思えない。ぼうっとあの豪勢な館を思い出していた俺は、その小さな音に気付かなかったのだろう。
「うん、わかった」
頷きながら上手く回らない舌で言って、子供が10人はゆったりと寝られそうな天蓋付きのベッドから飛び降りる。
覚束ない足でとてとてと彼女に走り寄り、二人で部屋の外へ出た。そのまま父のいる本館へと案内するように、よくわからないがおそらく高いのだろう絵画などが飾ってある、相変わらず凝った装飾がされた壁が続く廊下を先導して歩いてくれるカリーヌに黙ってついていく。
一年ほど前まではどこに行くにも誰かに抱き上げてもらわないといけなかったのが、歳をとってそれなりに体が発達した今ではこうして自分の足で歩くことがきる。立つ、歩く、喋るといった、前世では当たり前にできていたものができなくなってしばらくは、ままならない体に怒りを覚えたこともあった。
赤ん坊ということもあってか、感情をコントロールできずに泣きじゃくる俺を宥めてくれたのはカリーヌだった。
彼女にかけてしまった数々の迷惑を考えると、俺は一生彼女に頭が上がらないんじゃないだろうか。俺よりも大きいが、それでも小さな背中を見上げて不恰好に歩きながら、ぼんやりとそう思った。
居住用の館から本館にある執務室の扉の前へと案内されて、初めて入るそこに緊張しながら小さな手でノックする。蔦の装飾が縁を飾る堅牢な木製の扉は、子供の拳で叩くには少し痛かった。
「ちちうえ、ランベールです」
「ああ、入れ」
短い返答を聞いて、カリーヌが俺の代わりに扉を開ける。開いた扉の向こうには、壁に張り付くように設置された大きな黒い書棚と飾り棚、そして暗い茶色の硬そうな木で出来た広い机が見えた。
その机の向こうの椅子に座り、高く積まれた書類の間から姿勢をピンと伸ばしてこちらを見る父は、俺の姿を視界に入れるとその気難しそうな顔を少しだけ緩めた。
今まで見たどんな部屋よりも豪華で統一された部屋に気後れしながら、あからさまに高そうな紅い絨毯をおそるおそる踏むと、俺が緊張していることを悟ったのかこちらに来いと手招きされる。
手招きに応じて机の前へと来ると、父は顎に手を当てながら口を開いた。
「ランベールよ。お前はもうすぐ三歳の誕生日を迎えるのだそうだな」
「はい、ちちうえ」
「お前は我が公爵家の嫡男だ。いずれは私の跡を継ぎ、国王陛下のために心血を注いで貴族としての義務を果たさねばならない」
「こころえております」
父は俺の返答に満足した様子で頷いた。
「うむ。そのためにお前は陛下や他の貴族への礼儀、領地を経営するために必要な学など様々なことを学んで力をつけ、私の跡を継ぐにふさわしい者となる必要がある」
そう言いながらゆっくりと立ち上がった父は机の上の書類の一つを手に取ると、それに目を通しながら俺の方へと歩いて来た。
「そこでだ。明日からお前に教師をつける」
「きょうし?」
首を傾げて聞き返した俺に、父は教師という言葉の意味を聞かれたものだと思ったらしい。教師というのはお前にものを教えてくれる人物のことだと丁寧に説明してくれる父には悪いが、前世の記憶をもって生まれた俺が「教師」を知らないわけがない。
父の説明を話半分に聞きながら、学校に行かせるというわけでもなく、教師をつけるということの意味をつらつらと考えていた。
教師がつく、ということは家庭教師が来ると言うことなのだろうか。よくよく考えてみれば、俺はあの女神とやらの手によって転生させられただけで、この世界がどんな世界なのかという知識がない。
これは家督を継ぐための勉強になるだけでなく、俺があくまでも自然に世界の知識を手に入れる手段にもなる。
「普通ならば学ばせるのにはまだ早い歳だが、お前は賢い。学ぶには十分だろう」
何気なく言った言葉なのだろうが、俺の考えを読まれたかのようでぎくりとする。
この世界に俺を生んでくれた両親は、俺が「科学の世界」から「魔法の世界」へと転生した男だということを知らない。
下手に物事を知っている素振りを見せれば気味の悪い子供だと思われるかもしれないと必死に年相応に振舞っていたつもりだったのだが、俺の演技が不十分だったのだろうか。
恐る恐る鷹のような碧眼と目を合わせて――――。
……父の俺を見る目には不信感などといった負の感情が一切ないということを知った。厳しそうな表情はいつもと変わらない。
よく思えば、お前は賢いと話す父の自慢げな口調は、自分の子供が他人より賢いことを誇りに思っている様子だった。
それを見てああよかった、バレていないとほっとすると同時に、俺はこの世界でたった一人の父を騙しているのだということに罪悪感が湧き、ちくりと心が痛んだ。
「お前は明日の昼からその教師に学を授けてもらうのだ。よいな?」
確認するような父の言葉に、静かに頷く。
――――罪悪感を感じて、騙す事を心苦しく思ってどうするというのだ。前世は別の世界で生きていた何の変哲もない男で、賢いわけでも人より成長が早いわけでもないのだなどと打ち明けるわけにはいかないだろう。子供のつまらない妄言だと取られるのが関の山だ。
……前世がどうのこうのと明かすことが出来ないのが心苦しいのならば、そのかわりに父の期待に応えよう。
公爵家の嫡男として生まれ、その跡取りとなることを期待されているのだ。俺を賢いと思ってくれている父の期待は、俺が思うよりも大きいだろう。簡単なことではない。だが、生まれを恨んで諦めることは親不孝に輪をかけて親不孝だ。
生まれてから死ぬまで親すらも騙そうと決めたこんな親不孝な息子ができる恩返しは、それぐらいしかないだろうから。
心の内でひっそりと覚悟を決めた俺の下へゆったりとした足取りで近づいて来た父は、自分の腰までもない位置にある俺の頭を撫でて少しだけ笑みを浮かべた。
「お前の教師となる者は明日の昼にお前の部屋へ行くように伝えてある。良く学び、良く育て。公爵家の嫡男として相応しくなれ、ランベールよ」
「はい、ちちうえ」
深く腰を折って、ふかふかの絨毯を踏みしめながら部屋を後にする。背後で重々しい扉の閉まる音がした。
次の投稿は二日後に。