二人の大人と一人の幼子
自由に生きてもいい。その言葉に、期待しなかったと言えば嘘になる。
生きていた頃には自由がなかったのかと問われれば、俺は迷わず首を横に振るだろう。
俺が生まれたところはどんな国よりも平和で、どんな国よりも自由だった。血をまき散らしながら死んだあの時だって、自由に選べた数多くの選択肢のうちの一つを選んだ結果にすぎない。
ただ、もう終わってしまったものをどんな形であれやり直すことができるという奇跡に、期待しただけだった。
生前は必死に地面を駆けずり回っているうちに死んでしまったが、前世の記憶持ちというアドバンテージがあるのであれば、自分の立ち回り次第で終生を平和に過ごすことができるだろう。そのまま転生したほうがいいと言われた時には、そう楽観的に考えていた。
「あら、ランベール様。起きていらしたのですか?」
温かいベージュ色の天井を見上げながら憂鬱な感情に浸っていた俺の視界に、ヘッドドレスをつけた栗色の髪をポニーテール風に結い上げた少女の顔がひょこっと現れる。
平凡だがそれ故に可愛らしい顔立ちの彼女はにこにこと優しげに笑って、お母様の所へお連れいたしますねと俺の背中と膝の後ろのあたりへ手を差し入れ、いとも簡単に抱き上げた。温かく柔らかい胸の感触を右半身に感じて、嬉しいやら悲しいやら、複雑な気持ちになる。
――――既に生きている人間の体に魂を移されるのならまだしも、転生するということは子供時代を一から、赤ん坊からやり直すことになるのだということをすっかり忘れていた。
否が応にも視界に入る小さな手足が憎らしい。
こうなることがわかっていたなら全力で拒否していただろう。あの場で首を横に振ってもはいそうですかと言ってやめてくれるような雰囲気でもなかったが。
今の俺は、体は子供でも精神的には大人の男である。役得と開き直ればいいのかもしれないが、生前の自分よりも一回りは年下だろう女の子が相手となると、好きでもないオッサンの世話をさせているようでなんだか申し訳ない気持ちになる。
幸いだったのは、まだ生まれた直後の時点でははっきりとした意識がなかったことだ。多少ぼんやりとは大声を……おそらくは産声を上げたような記憶はあるが、定かではない。胎内にいる時に今のような意識があったならば、生命が誕生する奇跡の瞬間を身を以て体験するところだっただろう。
産道を降りて生まれる体験なんて普通はしてみたくても出来ないが、一人の男であった記憶がある俺としてはある種の後ろめたさを感じる。
俺の複雑な気持ちに気付くはずもなく、彼女は俺を抱いたまま子供用にしては広すぎる部屋の扉をくぐり、やけに凝った絵画や青い花を生けた高価そうなツボが飾られた廊下に出た。
そのままどこかへと向かう少女に大人しく抱かれていると、廊下のつきあたりにある優雅な模様が刻まれた扉の前にたどりつく。
どこまでも高級さを前面に押し出したものが目に入る。それでも厭味ったらしい成金趣味的なものは何一つとしてなく、芸術と言われれば素直に納得してしまいそうなものばかりだ。
少女は俺を優しく抱き直し、失礼しますとその扉に向かって声をかけた。
「奥様、ランベール様をお連れいたしました」
その扉の奥から入室を許可する女性の声が聞こえ、扉がゆっくりと開く。
開いた扉の向こうに見えたのは、優美な金の花模様が施された薄い紫の、つやつやしたドレスを着て椅子に座る儚げな女性と、上等そうな黒いマントを羽織り、金糸や銀糸で飾り立てられたいかにも貴族風の服を着た威厳のある男の姿だった。
「あら、公爵様?申し訳ございません、お邪魔でしたでしょうか」
驚いたような声を聞いて威厳のある男はいや、と首を振り、女性が座る背もたれに手を添えた。
「気にするな。この時間ならばここに息子が来ると聞いて来ただけだ」
男は整った髭の生えた顔に厳格そうな表情を浮かべていたが、ふと俺の方を見てその顔を少しだけ緩める。少女はそうでしたかと微笑んで部屋へ入ると、椅子に座る女性に俺を抱かせ、何かありましたらお呼びくださいと丁寧に腰を折って足早に部屋の外へ出て行ってしまった。
おそらく部屋の中にいた二人と俺に気を使ったのだろう。扉の方をちらりと見ると、その両脇には剣を佩いた男二人が直立している。さきほど少女と俺が来たときに扉を開けたのは彼らだろうか。
「おはよう、ランベール。よく眠れたかしら?」
にこにこと笑いながら頬をつつくこの女性は俺の母である。垂れた目じりとやわらかく弧を描く口元におっとりとした雰囲気が出ており、絶世の美人というわけではないが、人を惹きつけるようなものを感じる顔立ちをしている。
今生の母である彼女に対してよく眠れた、と返すかわりに赤ん坊特有の声を上げると、彼女は嬉しそうに笑みを深めた。
「元気に育っているようだな。この前会ったときはまだまだ小さかった気がするのだが、赤ん坊とは成長が早いのだな」
女性の肩を抱きながら俺の顔を覗き込んで言うこの男性は、俺の父。眉間によった皺、高く通った鼻筋、きつく吊り上った鷹のような目と、髭と相まって近寄りがたい空気を醸し出している。しかしそれは整った顔つきのせいでもあり、その顔に刻まれた皺の数からするとそれなりに年をとっているのだろうが、若い頃は美男子と持て囃されただろうということが伺えた。
「コルネーユ様に似た精悍な男の子を産むことができて、私は本当に幸せです」
「私が来るたびに同じことを聞かされている気がするぞ」
穏やかに会話する二人を見て、心の中で溜息を吐く。俺を抱く母と優しげにその様子を見守る父の姿はさながら一枚の絵画のようだ、と他人ごとのように思った。
「コルネーユ様、そろそろお時間が……」
「……わかっておる。リディ、また会いに来る」
扉の前に立っていた二人の男のうちの一人が申し訳なさそうに声をかけると、父は緩んでいた表情を引き締め、母の頬にキスをするとくるりと背を向けて部屋から出て行ってしまった。
去っていく後ろ姿ににまたいらしてくださいねと笑った母は、彼の姿が控えていた男二人と共に閉じた扉に遮られて見えなくなると同時に、少し寂しそうな表情で俺を見る。
「お父様は今日も忙しいみたい。早く大きくなって、忙しいお父様のお仕事を少しでもお手伝いできるようになってちょうだいね?」
とんとんとあやすようにやさしく背中を叩かれる。俺が小さく声を上げると彼女は嬉しそうに微笑んだが、すぐに顔を上げて、父が消えた扉の向こうをじっと見つめはじめてしまった。
父がいつからここにいたのかはわからないが、おそらくそれほど長い時間一緒にいたというわけではないらしい。
さて。ここまでくればわかると思うが、俺を抱いてここまで来た少女の言うように父は公爵であり、母は公爵夫人である。ということはつまり、俺は公爵の息子として生まれたわけだ。今まで聞いたことから察すると俺に兄弟はなく、初めて二人の間に生まれた子が俺である。
第一子、ということは、俺はいずれ公爵である父の跡を継がなければいけないのだろう。意識がはっきりして自分の置かれている状況を確認してからずっと考えないようにしていたが、いつまでも目をそらしたままではいられない。
……なぜ俺はあの時、これから行く先が自分の良く知った世界ではないということに気が回らなかったのだろうか。
この世には「魔法の世界」と「科学の世界」の二つの世界があり、俺の魂は「魔法の世界」のものであると言われた時になんとなくファンタジーの世界を想像したが、中世ヨーロッパのような封建制があるとまでは思わなかった。
思ったとしても、前世の俺は平凡な庶民の子で、特別なものなどなにも持っていない。その俺が貴族よりも何十倍も数が多い平民ではなく、平民を支配する支配者層の頂点に近い上流貴族として生まれるかもしれないとまで誰が思うだろうか。
まだ子爵や男爵といった下流貴族であったならば平和に暮らすこともなんとかなっただろう。目立つようなことをせずひっそりと生きて行けばいい。
何故よりにもよって公爵なのか。まさかあの神々の神とやらの計らいなのだろうか。舌を噛みそうな呼ばれ方をしやがって、なんという余計なお世話だ。
俺が求めていたのは、自由で平和な生き方だった。
ファンタジーの世界によくいる冒険者のように、気ままに旅をしていつか気に入った町に住みつくような生き方をしてみたかった。これじゃ身分に縛られて冒険どころの話ではない。
とはいえ両親を恨んでも仕方がない。彼らには自分しか息子がいないのだし、子供を選んで産めるわけでもない。気紛れに旅になんぞ出てしまったら、産んでもらった恩を仇で返すことになってしまう。
こうなったらもう生まれてしまったものはしかたないと、自由に生きる夢は心のどこかでぐるぐる回る憂鬱な感情と共に捨て、早々に諦めることにした。
ただしジムなんとか、お前は許さない。絶対にだ。
生まれ変わった後の状況を説明するシーンが一番苦手でござる