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ラワン

作者: 麟太郎
掲載日:2005/10/28

パシクルはユーパロのコタン(集落)に住む若いアイヌである。

妻の名はクナイと言った。

二人は四百人近いアイヌが暮らすコタンの中でも沢に一番近い場所に住んでいた。

クナイは夏の或る日、(ふき)を採る為、沢に分け入った。

その年の蕗の生長は見事で、その朝の彼女は両手に持ち切れない程の食料を摘むことが出来た。

その夜のことだった。

「パシクルよ…」

自分を呼ぶ声に気付きパシクルは小屋を出たが、彼の目は声の主を見付けることが出来なかった。

気の所為などではないと思いながらも戻ろうとする彼を、今一度低い声が呼び止めた。

「パシクルよ!」

再び闇に向き直るパシクルは、脛くらいの背丈しかない老人を見留めた。

「あ…あなたは一体…?」

パシクルは小人と呼んで差し障り無い老人に目を見張ったが、当の本人はそんな彼の様子など意に介せずと言った風情で話を続ける。

(わし)は蕗下族のイナウ。

パシクルよ、お前の一族のことは遥か昔から知っておる。

お前の一族は長く沢を守ってくれておる…パシクル、お前も若くして両親(りょうおや)を亡くしたが、先祖の言い付けを守り、毎日感謝の念を忘れず善く生きておると思う。

…だが…」

老小人は、しばし言葉を切ったが、思い直したように次の言を告げた。

「パシクルよ…お前の嫁は、儂らの気に障ることをしてしまったな…。

クナイは今日、お前達二人では食べ切れない程の蕗を摘みおった…しかも、持ち切れない蕗を沢に落として行きおった…!」

「イナウ殿、妻は知らずにやったことなのです…!

よくよく言い聞かせ、二度とこのようなことはさせませぬ故、何卒…」

「言い訳は無用じゃ…」

老人はかぶりを振った。

「我が一族の怒りは、既に呪いとなりつつあるのじゃ…。

………パシクルよ、お前のコタンは飢えなければならぬ。

そして、お前自身は歓声を挙げることになろう…!」

「…飢え?

……歓声?

待って下さい!

…一体、それは…?」

パシクルは必死で尋ねた…が、もう遅かった。

彼の眼前には、漆黒の闇が広がるばかりであった。

夏が過ぎるとユーパロのコタンは急ぎ足で冬へ向かう。

集落に住むアイヌ達はこの時期、雪と氷に全てを鎖される季節に備える。

だが、この頃になるとコタンの誰もが異変めいたものの一端を肌で感じていた。

どんな弓の名人も鹿を仕留めることが出来ず、どんな巧みな罠も狐一匹、兎一羽捕らえることが出来なかった。

川を銀鱗で染め尽くす筈の鮭は一尾も帰って来ず、暑い盛りまであれ程の実りを与えた山は木の実一つ着けてはくれなかった。

イナウがパシクルに告げた話を(おさ)が聞いたなら、それこそ次の日すぐにでも対策を立てていたかも知れない。

しかし、イナウは蕗下族だけが知る古からの呪い(まじない)でも使ったのか、ともかくパシクルは忘れてしまっていたのだ。

老人の姿が消えたと同時、それこそ立ち所に。

そんな訳もあり、コタンの長老達は、近隣の集落との和解を急がなかったのである。

飢饉が起きた場合、コタン同士の相互扶助が常であるが、悪いことに春先のちょっとした諍いが元でユーパロのコタンは孤立していたのだ。

若者達は長老達に訴えた。食糧の貯えが底を尽きる前に近隣のコタンと和解し、援助を求めて欲しいと。

しかし、長老らは首を縦には振らなかった。

狩場を荒らしたのはそもそも隣の集落であるし、そんな自分達の主張を全く認めなかった周辺のコタン連合の歴々などに頭を下げようと考えるには、長老と言えどもまだまだ若過ぎた。

若者らは考えた。

エカシ(長老)達のあの様子では近隣コタンの助力はとても望めそうに無い。

このままでは冬を越せそうにないことは、実際に狩りに出る彼らが一番感じていた。

実際、夜も更けたと言うのに虫の音すら聞こえぬのは尋常である筈が無い。

「俺は…子供の頃に聞いたことがある…」

煮詰まった空気が肩に重くのしかかる中、暫く続いていた沈黙を破ったのはパシクルであった。

「…東の山々の向こうにはカムイが住むと…。」

「…あぁ…俺も聞いたことがある…。

…遥か高い山を幾つも幾つも越えると、そこはカムイモシリ(神々の地)だってな…。」

「パシクル…こんな時にお前、なんでまたそんな話を…?

…まさかお前…」

「狩りも漁もさっぱりだ…。

…このままチップ(食糧)の当てが立たないなら…」

「……立たないなら?」

「…俺達に出来る事は幾つもない…。

…もう一度エカシを説得して他のコタンに助けを求めるか…

…他のコタンに戦を仕掛けるか…

…カムイモシリを目指すか…

…後は…」

「……後は?」

「……後は……なんだと言うのだ、パシクル…?」

「…………飢え死にするくらいしかないじゃないか……!?」

カムイモシリを目指し山越えをする人員の選考が行なわれたのは、次の日であった。

若者達が中心となったのだが、エカシ達に刄をちら衝かせつつ周辺のコタンとの懐柔を謀るまでに彼らの分別は無さ過ぎはしなかったし、長老達のように自分達の命をカムイの天秤に載せようとする程に彼らは齢枯れてはいなかった。

希望者はコタンの四分の一に達し、パシクルらはこれを更に半分に絞った。

勿論、先の宵パシクルの家に集った者は全員が含まれていた。

長老連は当然の如く彼らの行動を非難し、パシクル達がやろうとしている事が如何にカムイの意に沿わぬことであるかを説いた。

が、エカシは充分過ぎる程わかってもいた。それが如何に無駄な説得であるかと言う事を。

コタンの中心に位置する長老の家にパシクル達が呼ばれたのは日が傾き始めた頃で、出立が二回目の朝と決まったのは夕方、そして神の地に向かう若者達に一日分の食糧の八倍を持たせる事が決まった頃には漆黒の闇が辺りを覆っていた。

コタンに蓄えられたチップの量を考えれば、それは寛大が過ぎる程の措置であった。

旅が始まった。

アガニは崖から落ちて死んだ。

ニンクシは雷に打たれて命を落とした。

キクルムは疲れ果てしゃがみ込むと二度と立ち上がることがなかった。

旅は難航を極めた。

彼らは知る由も無かったのであるが、パシクル達が越えようとしている山々は、私達の言葉で言うと千五百メートル級の山脈なのである。

山を登り始めた時、道なき道を歩む彼らが唯一の扶けとした獣路など、三度朝を迎えた頃には影も形も無かった。

それにしても鳥獣の類はコタンより遠く離れた山の中ですらこれ程姿を見せぬとは。

彼らの前に現れたのは、唯一キムンカムイ(ヒグマ)のみ。

冬を待つ彼らの恐ろしさをよく知るパシクル達は注意に注意を重ねてヒグマとの遭遇を避けたのであるが、それでもその爪に懸かった者は少なくなかった。

シャクシャも。

キハルチも。

アインユも。

ヒリニウも。

そして、その多くは狂暴な牙の餌食にもなった。

スヒキニも。

チイキニも。

ユワミも。

サンニテも。

チミイチも。

幾つの山々を越えて来たのかわからなかった。

唯、彼らが持つ概念を超越した数の山を登り降りして来たのは確かであった。

そんな、永劫とも思える冒険を乗り越えて来たパシクル一行が更に一つの登頂を終えた時、彼らの眼下には広大な平原が白々と横たわっていた。

伝説でのみ耳にした神の大地をその目で見た者は、自身の持つ数の概念で理解出来る程の人数を残すのみであった。

あれだけ居た屈強な男達は、五人だけとなっていたのだ。

だからこそ僅かな食糧でここまでの悠かな道程を凌いで来れたのであるが…。

熊笹生い茂る山裾から葦に覆われた平地に足を踏み入れた、カムイモシリに分け入った彼らはしかし、絶望に近い感情に支配され尽くしていた。

伝承によれば、山を越えればそこは神々の地なのだ。

カムイ住まわる地とは、このような荒涼たる平原であるのか。

アイヌモシリ(人の地)と同じく、冷たい風も吹けば雪が大地を覆い隠すのか。

願いを口にしよう。

命を落とした同胞の為、飢えに苦しむコタンの為。

元より食糧の尽きたパシクル達には、この地で希望を見付ける以外に何も残されてはいないのだ。

「カムイよ!聞き給もう!!」

「我らがコタンに銀鱗の群れを!」

「我が手に春を迎え得るだけの木の実を!」

「腹を空かせた子供達に鹿の肉を!」

「孤立した我がコタンに平和を!」

「カムイよ…願い乞い乍ら死んで行った我らの同胞の命では…足らぬと言われるのか……カムイよ……」

パシクルが発したのは言葉と言うよりは泣き声となった。

嗚咽は他の者にも伝染し、辺りには五人の哭声が響き渡った。

が、その喚き声はただ空に呑み込まれるだけであった。

がっくりと膝を着いた一行の中、パシクルは不図視線を上げた。

遥か前方の上空を、何かが舞っているのが見えた。

「……皆んな立て!!

見よ……

……コタンクルカムイだ…!!」

パシクルは言うが早いか走り出した。

直ぐ様、他の者も後に続いた。

コタンクルカムイ、集落の守り神の意で、即ち梟のことである。

名が暗示する様に、その鳥はコタンの間近に巣を作る。

その上、未だ明るい内から梟が飛ぶなど珍しくない訳がない。

パシクルが一心にコタンクルカムイを追い掛けたのは無理なからぬことなのだ。

そして何より、鳥なぞ暫く目にすることすら無かったではないか。

彼らが不乱に梟に追い縋ったのには、充分過ぎる程の理由があったのである。

どれくらい走っただろうか。

パシクル達の前方上空には、計ったように同じ速度で飛ぶコタンの守り神の姿があった。

息が切れそうになることも忘れていた。

早鐘の如く胸を打ち続ける心臓の音も、彼らの耳には届かなかった。

「…見ろ!!」

梟の飛ぶ空の向こうを差し示すパシクルの指の先に、旅人達は幾筋もの立ち昇る煙を見付けた。

「…あぁ…

…これは…これは…!!」

尚も走り続ける彼らの鼻腔を擽ったのは、間違えようもない匂いだった。

それは…鮭の焼ける香であった。

天高く聳える山々を越えて来た長久たる冒険の日々。

辿り着いたのはカムイモシリではなかった。

悠久の時を越え、人間達がその営みを刻んで来たアイヌモシリであった。

雲衝く山脈の向こうには、パシクル達と同じくアイヌが暮らす大地があったのだ。

「トカプチ!(やった!)

トカプチー!!(やったー!!)」

周囲の空気をつんざかんばかりの歓声が、パシクルらの咽の奥から沸き上がった。

堰を切ったように熱い物が人々の頬を伝った。

「トカプチ!」

「トカプチ!」

「トカプチ!」

「トカプチ!」

「トカプチ…

…トカプチ…

…トカプチーー!!」

コタンに迎えられたパシクル達は、エカシらに事の次第を話した。

集落の相互扶助はこの地方も同じらしく、食糧の援助の約束を取り付けたが、直ぐにでもユーパロに帰りたいとの彼らの願いは猛反対に遭った。

山々は既に白く染まっており、とても越えられそうもなかった。

歓喜に沸き返った五人はこうして餓えの心配は無いにせよ、絶望に近い感情と共に春を待ち侘びることとなった。

そこまでの時間を掛けてチップを持ち帰ったところで、コタンが、彼らの家族が飢え死にしていない可能性が高いとは到底思えなかったのだ。

冠雪が消えると同時に、パシクルらは復路を踏み始めた。

幸いなことに一人の脱落者も出す事はなかったが、ユーパロのコタンに到着した頃には、既に大地が緑溢れる時候となっていた。

だが、彼らの足取りは軽やかだった。

コタンは人々の命の営みに溢れていた。

パシクル達は嗅いだのだ。ここでも…鮭が焼ける香を。

「あなた達が旅立って暫く経ってからのことだったの。」

クナイはパシクルとの再開の抱擁もそこそこに語り出した。

「…川が銀色に染まったのは…!」

「…トカプチ…!」

パシクルはもう一度妻を抱く腕に力を込めた。

すっかり目立つようになった彼女のお腹を気遣いながら。

「『トカプチ』か…誠に善き言葉ならんや…。」

遠目にこの様子を伺っていた山向こうのアイヌ達は微笑みを浮かべ呟いた。

コタンを救う為の食糧はパシクル達だけでは運ぶ事が出来ず、数十人の援助隊が結成されていたのだ。

彼らは再び山を越え故郷のコタンに帰ると、何時からか自分達の集落をトカプチと呼び始めた。

今日(こんにち)私達がその土地を称する『十勝』の名に、伝承の一端を窺い知る事ができる。

「イナウ殿…。」

パシクルの家に程近い沢に足を踏み入れた者があったなら、微かに響く声を聞いたかも知れない。

「…イナウ殿、あなたは予想していたのですか…?」

「…クシリか…。

儂はただ、飢えたアイヌが遅れて来た銀鱗の群れに歓喜の声を挙げるだろうと思っていただけじゃ…。

…それにしても…

…人間とは、げに危険なものとなったことよ…この期に及び何故喜べるのであろうか…。

…そうであろ?

少しの間を待つことが出来たなら、鮭が戻って来るのを知ったのじゃ…あれ程の贄をカムイに捧げることも無く、な…。」

ラワン蕗の大きな葉が揺れたのは、風の所為であっただろうか…。

<了>

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