第12話:愛の値段、一枚のパン
かつて「聖女」と呼ばれた少女は、声を失っていた。
元王城の裏手に設けられた作業小屋。
朝から晩まで洗濯と仕分けに追われ、与えられるのは水で薄めた粥と、乾いた黒パンの切れ端だけ。
名前を呼ばれることは、もうない。
帳簿に記されているのは、ただの労働番号だった。
空腹が、限界を超えた。
――エドワード様。
その名を心の中で繰り返しながら、彼女――リリアーナは、ふらつく足で敷地の外れへ向かった。
そこには、下水処理区と隣接した小さな詰所がある。
元王子エドワードは、そこで帳簿係として働かされていた。
いや、働かされているのではない。数字を返済させられているのだ。
「……合計が合いません」
掠れた声。
泥と紙屑にまみれた男の前に、無言で帳簿が突き返される。
「再計算だ」
そう告げたのは、かつて“正義”を語っていた騎士――カシアンだった。
声に感情はない。業務連絡と同じ抑揚だ。
「遅延損害金が発生している。今日の配給は減る」
エドワードは何も言い返さなかった。
言い返す権利は、既に計上されていない。
その光景を、リリアーナは遠くから見ていた。
助けを求める声が、喉まで上がって――消えた。
代わりに、足が前に出た。
跪いたわけではない。
ただ、立っていられなかった。
「……パンを……」
自分でも驚くほど、声は小さかった。
カシアンは一瞬だけ彼女を見た。
次に視線を落としたのは、帳簿だった。
「労働実績不足だ」
それだけ言って、視線を戻す。
否定でも拒絶でもない。
条件未達成という判断。
その時、敷地の外から馬車の音が近づいた。
白ではない。
純白ですらない。
帝国の財務総監専用馬車。
無駄を削ぎ落とした黒と金の配色。
扉が開き、レティシアが降りる。
彼女はまず、現場全体を一瞥した。
人ではなく、配置と効率を見る目だった。
「進捗は?」
「予定通りです、レティシア様」
カシアンの返答に、彼女は頷いた。
そして初めて、リリアーナを見る。
――見る、というより、確認する。
「ああ……」
思い出した、というほどの反応もない。
「まだ生きていましたのね」
それは事実確認だった。
リリアーナは、最後の力で口を開く。
「お願い、です……。
私、働きます……。
だから……パンを……」
レティシアは首を傾げた。
「パンは商品ですわ。
対価は?」
答えられなかった。
沈黙を、レティシアは待たない。
「……なるほど」
彼女はカシアンに視線を向ける。
「彼女の労働記録を」
差し出された帳簿に、指先で目を走らせる。
「横領は……ありませんわね。
計算ミスもなし」
一瞬、エドワードの方を見る。
彼は何も言わない。
言えない。
「では」
レティシアは小さく息を吐いた。
御者に手を伸ばす。
「通貨を一枚」
渡されたのは、帝国マルクの硬貨だった。
それを、リリアーナの掌に置く。
「あなたの労働価値ですわ」
硬貨は冷たかった。
「それで、私の商会からパンを買いなさい」
量も、質も、選択肢はない。
リリアーナは震える手で硬貨を握りしめ、
無言で売店へ向かった。
戻ってきた時、手にあったのは――
一切れのパン。
彼女は、それを見つめた。
次に、エドワードを見る。
彼は、何も言わない。
何もできない。
リリアーナは、ゆっくりとパンを口に運んだ。
一口。
噛む。
飲み込む。
その間、誰も言葉を発しなかった。
パンがなくなった時、
彼女の手には――何も残らなかった。
レティシアは、それを確認してから踵を返す。
「以上ですわ」
処罰も、宣告もない。
ただの清算。
愛は、破棄されたのではない。
買われ、消費され、在庫が尽きただけ。
その場に残ったのは、
数字と、
沈黙と、
もう戻らないという事実だけだった。




