第6話 開かない玄関
まだ日が高い中、私とヘルガは「お疲れ様です」と周りに言いながら、図書館を後にした。館内は疎らだったけれど、一歩外に出た途端、多くの人たちの行き交う姿が目に入った。
するとヘルガが私の肩に手を置き、気にするな、とばかりに言ってきた。
「図書館は貴重な本を保存する倉庫。そう思いましょう」
「だけど困った時には手を差し伸べなければね。図書館は広いから」
「私たちが書架の位置を覚えるのも、館内を整えるのも、その時のためってね」
「利用者あっての私たちなのだから、けして蔑ろにしてはいけないわ」
「彼らのために我々がいるのだから。ふふふっ、思わず館長の言葉を復唱してしまったわ」
閑古鳥が鳴いている図書館に勤務する私たちを励ますように、館長は常々そう言っている。怠けてはいけない。その姿も見せてはいけない、と戒めも含めて言ってくれているのだ。
「それなのに早引きしている私たちって……」
「あらっ、アゼリアだって賛同したんだから、同罪でしょう?」
まぁ、そうなんだけど。この世界でも、占いをしていいんだという誘惑には勝てなかったのだ。
勿論、グリフィスを驚かせたい気持ちもある。お世話になっている人に対して失礼だとは感じるものの、イタズラ心に火がついた。
あとはそうだな。友人を家に招きたかった。うん。これが一番しっくりくる理由だと思う。
私はヘルガに向かって笑顔で誤魔化した。けれど誤魔化し切れないものもある。それは……。
「あれ、玄関が開かない」
自宅に着き、いつものようにドアノブを捻った。
「そりゃ、鍵を挿していないんだから、無理でしょう?」
「あっ、そっか。鍵……」
ヘルガに指摘されて鞄を探ること、数秒後。私はあることに気がついた。
「玄関はいつもグリフィスが開けてくれていたから……私、鍵を持っていないんだった」
正確にいうと、持たされていない。いや、渡されていないのだ。けれど今は、そんなことなどどうでもいい。家に入れない、ことが問題なのだ。
「グリフィス・ハウエル……あんの男はまったく……」
「ヘルガ?」
「アゼリアを大事にし過ぎってことよ。鍵がなければ、一人で外出できないし、帰れないでしょうが」
「……た、確かに」
なんでそのことに気がつかなかったんだろう。あの黒いフードの男たちに狙われているから、グリフィスなりに色々と考えがあったのかもしれない。
「で、でも、私は不便に感じていなかったわけだし――……」
「そうであっても自由がないでしょう? 出勤の時はアゼリア一人だけど、退勤はいつも迎えに来るし……もしかして仕事以外での外出はさせてもらえない、とか?」
「……ううん。そんなことはないよ」
必ずグリフィスと一緒に出かけているから、自由がないと言えばそうなのかもしれなかった。だけど、外出した先で何かあった時、頼れる人物は……やはりグリフィスしかいないのだ。
ここで生まれ育ったヘルガから見れば、不思議に思うかもしれない。だけど、地に足をつけた人間と、馴染めずにゆらゆらと布のような道を歩いている私とでは、根本的なところが違うのだ。
しかしそれを言えるはずもなく、私は愛想笑いをしてヘルガの腕を掴んだ。
「ねぇ、ここで不毛な議論をしていても、玄関は開かないわけだし。ここはグリフィスのところに行ってみない?」
「え? アゼリア、場所知っているの?」
「っ! 当たり前じゃない。お、夫の仕事先くらい、知っているわよ」
売り言葉に買い言葉で咄嗟に出てしまった。偽装とはいえ、一応夫婦なのだから、グリフィスを夫と言っても不思議ではない。だけどつい、言葉に詰まってしまった。
疑われたかな、と思いそーっとヘルガの方に視線を向ける。するとなぜか、満足そうに微笑むヘルガの姿が目に入った。
「えっ、何?」
「ううん。一方的じゃないんだって分かったら、ついね」
「一方的? 何が?」
「残念だな~。鏡を持っていたら、見せてあげられるのに」
「だ、だからなんなのよ!」
一向に本当のことを言わないヘルガに、私は前のめりになった。
「今のアゼリアの顔。真っ赤なんだもの」
「えっ!?」
「結婚して、まだ一年は経っていないんでしょう? アゼリアも満更じゃないって分かって安心したのよ」
「~~~~~っ!」
嘘っ! 満更じゃないって……ううん。一応、夫婦という関係なんだから、この反応で合っているはず。ヘルガが上手い感じに勘違いしてくれたんだから、今はそれに乗るべき……なんだけど。
これが演技じゃないってところが、一番の問題だった。
***
けれどグリフィスの顔を見た途端、その悩みが一気に吹き飛んだ。
「アゼリアっ! どうしたんですか!? まさか体調が……」
自宅から少し離れた場所にある本屋の扉を開けた途端、二つの音が重なった。一つは扉が閉まる音。もう一つは、グリフィスが椅子から立ち上がる音だった。それも勢いよく立ち上がったものだから、椅子が後ろに倒れ、扉の閉まる音がかき消されたのだ。
グリフィスを驚かせてみたい、というヘルガの目論見は見事に達成したわけだけど……ここまでとは思わず、私は一歩、後ろに下がった。ズカズカとグリフィスが迫って来るから、という意味もある。
けれど逃げる暇もなく、両肩を掴まれてしまった。
「違う違う違う! 早引きさせてもらったの!」
「つまり体調が悪いということではありませんか。正直に言ってください。どこが悪いんですか?」
「悪くないし、ひとまず落ち着いて!」
「落ち着けるわけがないでしょうが!」
「なんで!?」
そう反論している間にも、グリフィスは私の体をまじまじと見て、身体検査までしてくる始末だった。近くにヘルガがいなければ、突き飛ばすか、本屋から出て行くのに……!
「まぁまぁ。奥さんが心配なのは分かりますけど、言い分くらい聞かないと、嫌われますよ?」
「……嫌われるのは覚悟の上でやっていますので大丈夫です」
何それ……じゃなくて、今はヘルガを援護しないと。
私を助けてくれたのは有り難いけれど、二人が向き合っている状況は、あまりよろしくなかった。睨み合っているのならまだしも、にこやかな顔で対面しているのだ。
「ぐ、グリフィス。こちら、一緒に働いているヘルガ・マイザーさん。早引きして、突然帰ってきたのは悪いと思っているわ。だけど、ヘルガといがみ合うのは――……」
「いいえ。アゼリアは不真面目な人間ではありません。早引きを唆した人物がいると考えるのは、おかしなことではないと思いますが」
「そ、それは……」
間違っていないんだけど……でも、初対面の人間に敵意を向けるのは、やっぱり筋違いだと思うよ、グリフィス。
「はいはい。唆したのは私ですよ。だからって、アゼリアに怒りをぶつけないでくれますか?」
「ぶつけていません」
「あら、そうなのですか? ということは、そんなに怒っていない、と判断していいわけですよね」
「……えぇ」
「ふふふっ、良かったわね、アゼリア」
「え? そういう流れじゃなかったと思うけど」
「いいの、いいの。それにさっさと用件を済ませた方が、お互いの為だと思わない?」
さらに頭の中ではてなマークが飛び交ったけれど、ヘルガの言うことも一理あった。ヘルガがここまで来たのは、私に占ってほしいからで、私もその約束を守りたい。そしてグリフィスは現状に不満を抱いている。
それならば私が取るべき行動は一つだけ。
「グリフィス。家に入りたいから、鍵を渡してくれない?」




