#9
山田さんから、引っ越しの日を聞きだすのは一苦労だった。
彼女は、僕が来たら別れるのが辛くなるから、来ないで欲しいの一点張りでなかなか教えてくれなかった。
しかし、僕も引き下がるわけに行かなかった。
ずっと前に山田さんへのプレゼント用に買った物があり、それを渡したい、と伝え、引っ越しの日を教えてもらった。
二日後に両親が来るということだった。
それを聞いて、二日間あれば十分だ、と僕は思った。
山田さんの家から自宅に戻ると、すぐに高島先輩に電話をした。
「え!お前、本気か?」
高島先輩は、僕の決意を聞いて、甲高い声を出した。電話越しだったが、目ん玉をむき出しにしているのが想像できた。
「もちろんです。本気です」
「……そうか」
高島先輩は、数秒間をおいてから言った。
「よし! そうと決まれば、あとは、やる事やるだけだな。それで、俺に電話してきたってことは手伝わせくれるんだよな」
僕は、高島先輩はお人好しだな、と心底思った。
「お願いします。僕一人じゃ、わからないこともあるので、力を貸してください」
「オッケーだぜ。そしたら、ちょうどいいことに明日は土曜日だ。朝から出かけるぞ。9時にお前んちに車で迎えにいくから、準備しとけよ」
「ありがとうございます!」
「じゃあ、今日は早く寝ろよ!」
「了解です!」
僕がそう言って電話を切ろうとした時に、高島先輩が言った。
「ちょっと待てよ」
「はい」
「神崎さ。なんか、お前、かっこいいよ」
「なんですか。恥ずかしじゃないですか」
「いや、ほんとにさ、男らしくなったと思うよ」
「そうですかね……」
「そうだよ。これも全部、コンビニの彼女のおかげだな。感謝しないとな」
「……あと、先輩にもです」
高島先輩は、声をあげて笑った。
「間違いないな」
それから、「明日遅刻するなよ」とつけ足して、電話が切れた。
僕も、シャワーを浴びてからすぐにベッドに潜り込んだ。
だが、これからのことを想像するとなかなか寝付けなかった。
次の日、予定通りに高島先輩は車で迎えに来てくれた。
車に乗り込むと早速、本題に入った。
「さて、どういうプランでいくかな」
先輩は言った。
「とりあえず、ちゃんとした服を買いたいな、と思ってまして」
「それもそうだな」
先輩と僕は、近くのショッピングモールへ行き、その中にある紳士服売り場へ入った。
いつもは安いビジネススーツばかり着ているので、どれがいいのか全く分からなかった。
店員に勧められたスーツを数着試着した。
「やっぱり、馬子にも衣装ってやつだな」
高島先輩が言った。
僕も、いつもは買わないようなスーツを着ていると、自分に自信が持てるような気がした。値札を見た時には、多少驚いたが、今はそんなことを言っている場合ではないと腹をくくった。一か月の給与が飛んでしまう勢いだったが、服とシャツ、靴、ネクタイ等一式をそろえた。
「よし、一通り添えたし、喫茶店で、休憩するか」
「そうですね」
僕たちが、買い物を終えて、喫茶店に入ろうとしたその時だった。
スマートフォンが鳴った。
確認すると、山田さんからのラインだった。
ドキッとして、一瞬で体が熱くなった。
〈神崎さん。これまで、ありがとうございました。最後に、神崎さんに会って話ができて良かったです。私は、大学生になってからうまく行かない事ばかりで、地元を出たことをずっと後悔していました。そんななかで、神崎さんと出会えたことは、大学生活の中で唯一の楽しい思い出です。きっと神様がプレゼントしてたんだと思っています。神崎さんの気持ちに応えることができなくてごめんなさい。それから、嘘をついてごめんなさい。もう、神崎さんの顔を見たら、自分の選択を後悔してしまいそうなので、嘘をつきました。今日、実家に戻ります。どうか、幸せになってください〉
僕の手は震えていた。
「おい、どうした?」
「まずいです。山田さん、今日、実家に帰ってしまうみたいです」
「え!なんだって!」
僕は、スマートフォンを先輩に見せた。
「ほんと、世話が焼けるよ。ほら、行くぞ」
僕と先輩は、走って車に乗り込んだ。
「まだ昼間だ。間に合うかもしれない」
「急いでください!」
「あ、ちょっと待て。忘れ物した」
「え!?」
高島先輩は、外に出ると走っていってしまった。
僕は、焦りながら、とりあえず、山田さんにラインを送った。
〈今、どこにいますか? まだ家ですか?〉
数秒、画面を見つめていたが、既読にならない。
すぐに高島先輩が戻ってきた。
「どこ行ってたんですか?」
「悪い悪い。さすがに手ブラじゃまずいと思ってな」
そう言って、一輪のバラを手渡してくれた。
「あ、ありがとうございます」
「よし、飛ばすぞ」
車が発進した。
どうか間に合ってくれ。
心の中でつぶやいた。
「おい!」
「はい!」
「なに、固まってんだよ」
「え?」
「その子の家まで、すぐそこだろ? 着替えろよ」
「あ、はい!」
僕は、車の中で、新品のスーツを袋から取り出した。狭い車のなかで着替えをするのは、なかなか大変だったがなんとか着替えを終えた。
「大丈夫か?」
高島先輩が、言った。
「はい! 大丈夫です!」
「そろそろ、着くぞ」
車は、県道から小道に入り、少し走ると山田さんの住んでいるアパートが見えてきた。
高島先輩は、ハザードをつけて車を路肩に寄せた。
僕は、先輩よりも先に外に出た。
アパートは、むしろいつもより静かな様子を見せていた。
山田さんの部屋の前まで行くと、インターホンを押した。
反応はない。
もう一度押す。
「どうだ?」
後ろから高島先輩が言った。
「……遅かったみたいです」
「くそっ!」
先輩が悔しそうに地面を蹴った。
僕は、心臓がバクバクと爆破寸前の爆弾みたいに脈打ちながらも、頭では冷静に考えていた。
まだ、昼過ぎだ。引っ越しの荷物を全部車に積んだとしても、そこまで遠くに行ってないはず。ここから、山田さんの実家をめがけて行けば追いつくかもしれない。いや、その前に、もしかしたら……。
僕は、走った。
「おい! どこ行くんだよ!」
高島先輩が言った。
「先輩! ありがとうございました! もしかしたら、山田さんに会えるかもしれません!」
僕は、後ろを振り向いて、そう言うと、前を向き直して自分の持てる力を全て出して、全速力で走った。
脚を動かすたびに、全身に振動が伝わり、膝には痛みが走った。こんなに一生懸命に走ったのは何年ぶりだろうか。身体がついて行ってなかった。吸い込む息が熱くなり、肺が痙攣しているかのように苦しかった。
それでも、脚を止める気にはなれなかった。
僕には、得も言えない自信があった。向かう先に、きっと山田さんがいる。それならば、立ち止まっている場合ではないと思った。
そして僕は、彼女と出会った場所、青いコンビニの駐車場に着くと、脚を止めて呼吸を整えた。
駐車場には、白いボクシーが止まっていた。ナンバーをみると東北地方の地名が書いてあった。
そして、コンビニの店内に目をやると、山田さんが、店長に向かってお辞儀しているのが見えた。山田さんの後ろには、おそらく山田さんのご両親だと思われる方が、立っていた。
山田さんは、律儀な人だ。自分がお世話になったお店に、挨拶もなく行ってしまうなんてことはしないと思ったのだ。
なかなか、荒れた呼吸が収まらなかった。
そうこうするうちに、山田さんと両親が、お店を出ようとしていた。
僕は、大きく息を吸って、吐いた。
自動ドアが開いたとき、山田さんは目を見開いて、立ち止まった。
そのせいで、後ろにいたご両親がつっかえた。
「神崎さん……」
「良かった。間に合った」
僕は、ゆっくりと彼女に近づいた。
視界の端で彼女の両親が身構えているのが分かる。しかし、今は、そんなことを気にしている場合ではない。自分勝手かもしれない。けれども、後悔しないように。僕にとっては、彼女以外は、いないのだから。
「山田さん、聞いて欲しいことがある」
「神崎さん。あの、ごめんなさい。私、どうしてお別れが辛くて、嘘をつきました」
山田さんのお父さんが、何か言いかけたが、お母さんがそれを無言で咎めた。
「いいんだよ。僕は、山田さんとお別れなんて、するつもりはないから」
「え?」
彼女は僕を見上げた。
まるで、このコンビニで初めて声をかけた時みたいだな、と僕は思った。山田さんが、驚いた顔で固まっている。彼女の顔は、相変わらずきれいだった。
僕は、一輪のバラを差し出した。
「山田さん。結婚しよう」
自分の言葉に全身が熱くなるのを感じた。自分でもおかしなことを言ってることはわかってる。ただ、これ以外の方法が思いつかなかったのだ。
山田さんは、短い驚きの声を上げて、顔を真っ赤にした。
「あらま」
山田さんのお母さんが、両手を頬に当てて、にっこりと笑った。
「な、なんだね。君は!」
山田さんのお父さんが、怒鳴った。
でも、その声は僕に耳には、まるで虫の声みたいに、うっすらと聞こえているだけだった。
僕は、山田さんを見つめた。
山田さんは、拳にした右手を胸に押し当てて、ゆっくりと左を伸ばした。目には涙が、溜まっているせいか、まるでそこに宇宙が広がっているみたいにキラキラしていた。
そして、僕が差し出したバラを受け取った。
「神崎さん……。ありがとう」
彼女の声はとても小さかったが、僕の頭の中で反響した。
「あの、お二人とも、たいへん楽しそうなところ申し訳ないんだけど、お店のお邪魔にもなるから場所を変えませんか?」
山田さんのお母さんが言った。
「ああ! すみません!」
僕は正気に戻って、頭を下げた。
「いいの! いいの! 神崎さん、ですよね。とりあえず、車に乗って頂戴」
僕たちは、お母さんに促されるままに車の後部座席に乗り込んだ。
お母さんは、助手席に乗り込むと、言った。
「さあ、お父さん。行き先変更ね」
「え!」
お父さんは、困惑している様子だった。
「さっきの話聞いてなかったの?」
「このふたり結婚するのよ」
「何を言ってるだ、お前はーー」
「だから、田舎に帰らなくてよね。そうでしょう?」
お母さんは、こちらを振り向いて、山田さんに向かって言った。
「……うん」
山田さんは、こくりと頷いた。
「だか、しかしだな」
お父さんが言った。
「いいの! この子がそう言ってるんだから。早く、車を出して」
「ああ、もう!」
お父さんは、頭をかきむしりながら、ハンドルを握った。
「ねえ。神崎さん」
「は、はい!」
「こんなことなら、荷物を積む前に言って欲しかったわ。いくつか田舎に配達頼んじゃったのよ」
「……すみません」
「なんてね。冗談よ」
お母さんは、そう言って笑った。
ふと、横をみると、山田さんがバラを大事そうに持って、見つめていた。
僕は、そっと彼女の手の上に、自分の手を重ねた。
山田さんは、こちらを見た。
それから、にっこりと笑った。