#8
しばらくすると山田さんも落ち着き、「すみませんでした。もう、大丈夫です。ちょっと休めば良くなると思います。もう少し元気になってから復学についても考え直したいと思います」と言った。
僕は、「いつでも連絡して欲しい」と伝えて、その場を後にした。
一人にするのは心配な気もしたが、無理やり家に入るわけにも行かないし、僕が家の前にいたのでは、彼女も玄関にいなくてはいけなくなってしまうので、今日のところは一旦帰ることにした。
帰り道、これからどうしようかと考えた。
山田さんは口では「大丈夫」と言っていたが、おそらく大丈夫ではないのだと思う。彼女が精神的に追い込まれている状況で、その症状が身体面にも出ている。休む以外に立ち直る方法はないのかもしれない。それなら、僕にできることはなんだろうか。
僕は、自分の顔を叩いた。
まただ、頭の中でぐちゃぐちゃ考えて、結局自分で動けない状況に持って行こうとしている。違うだろ。とにかく、動かなきゃ始まらない。
僕は自分を鼓舞するために何度も自分の顔を叩いた。
そして、次の日の朝、さっそく僕は行動を開始した。
まずは、山田さんへ連絡。
〈おはよう。気分はどう? ちょっとうるさいかもしれないけど、山田さんのことが心配だから、これから細目に連絡させてもらうね。無理に返信しなくていいから。既読だけつけてもらえると嬉しいな。あと、食べたいものとか、欲しいものあったら、教えてね。持って行くから〉
それから、着替えをしてコンビニへ向かった。
山田さんが好きな物を次々にカゴに入れた。山田さんは、生クリームが好きだから、クリームたっぷりのロールケーキに、フルーツサンド。おにぎりは鮭が好きだって言ってたな。それから、ブリトーもよく食べているイメージがある。確かカップラーメンは焼きそばが好きって言っていたな。
僕は、どっさり買い込んで膨れ上がったビニール袋を持って、山田さんの家に向かった。
アパートの部屋の前で、スマートフォンを確認すると、既読がついていた。
ビニール袋をドアノブにかけて、コンコンッと控えめにノックした。
「山田さん。おはよう。食べ物、持ってきたら、ドアノブにかけておくね。とりあえず、今日はそれだけ。また来るからね」
返答はなかった。
僕は、すぐにその場を立ち去った。
帰り道、スマートフォンが鳴った。
山田さんからのラインだった。
〈ありがとうございます。嬉しいです。でも、神崎さんこそ、無理しないでください。放っておいてもらって大丈夫ですから〉
〈無理なんかじゃないよ。たまにはおせっかいを焼かせてください。なんでも注文つけていいからね〉
山田さんの声が聞けない、顔が見れないというのは、寂しいな、と思った。
ただ、こうしてつながりが確認できるだけでも少し嬉しかった。
それからというもの僕は、出勤前と、仕事終わりに彼女の家を訪ねるようになった。もちろん家の前までではあるが、その時に、彼女の好きそうな食べ物や、必要だと思うものを買っていった。
連絡は細目にしていたが、返信はある時とない時があった。
時には、彼女の様子から、自分のこういう行動も迷惑なのではないかと不安になることもあった。そのたびに、高島先輩に言われた言葉を思い出しながら、自分の不安を拭った。
彼女のためにしてあげられることはなんでもしてあげたかった。
数日後、仕事終わりに高島先輩にご飯に誘われた僕は、山田さんの家に寄って、食料を置いてから、先輩と合流した。
「さっきも行ってきたのか?」
高島先輩が、ビールを煽りながら言った。
今日は、中華料理屋だった。テーブルには、餃子やチャーハン、回鍋肉、酢豚と沢山の料理が並べられている。
「もちろんですよ」
「愛だね」
高島先輩は、そう言って微笑んだ。
「でも、時々不安になります」
「なにが?」
「山田さんは、本当は、もう僕に会いたくないのかなって」
「そうかもな」
「え? なんでそんなこと言うんですか」
「なんでって、自分で言ったんだろ」
「いや、そこは、そんなわけないよって言ってくれなきゃ駄目じゃないですか」
「面倒臭いやつだな」
僕は、不貞腐れて餃子を頬張ってビールで流し込んだ。
「でもよ。メンタルが落ち込んだ時って、周りを遮断して、今つながっている縁を全部切りたくなってしまうこともあるらしいぜ」
「だとしたら、山田さんもそうなんですかね」
「そうかもしれないな」
僕は、黙り込んでしまった。
急に怖くなったのだ。自分が良かれと思ってやっていたことが相手を苦しめていたとしたら、あまりにも辛すぎる。
「とりあえず今は、止めてくれとも言われたないわけだろ?」
「そ、そうですね。止めくれとは言われてませんね」
「だったら、大丈夫なんじゃねぇの。さすがに、嫌だったら、言うだろ」
「だといいんですけどね」
高島先輩は、酢豚を口に入れてビールで流し込んだ。
「でも、こういうのって難しいよな。……どうしたら、よかったんだろうな」
高島先輩の言葉が過去形だったことに、違和感を覚えたが、すぐに、もしかすると高島先輩の頭の中では、赤城さんのことを思っているのかもしれない、と想像した。
「そう言えば、赤城さんは、どうしてますかね?」
僕は言った。
高島先輩の動きが一瞬止まり、それから、ゆっくりとビールを飲んだ。
「人づてに聞いたんだけど……。どうやら、入院してるらしい」
「え? なんでですか?」
「……車の運転してて、電柱にぶつかったらしい」
「事故ですか」
自分で言った言葉にハッとした。
「事故だったら、まだいいよな」
高島先輩が言った。
「お見舞い行ったんですか?」
「それがさ、赤城さんが退職した後も、定期的に連絡してたんだよ。なんだか心配でさ。でもある時、パタッと返信が来なくなって、既読もつかずで、おそらくブロックされたんだな。それからしばらくして、入院したって話を聞いたんだよ。それを教えてくれた奴は、赤城さんの兄と知り合いらしくて、兄経由で聞いたらしい。だけど、どこで入院してるかとか、詳しい事は赤城さんが言いたくないっていうことで教えてもらえてない。……だから、お見舞いに行こうにも行けないんだよ」
「心配ですね」
「そうだな。心配だな」
僕たちは、しばらく沈黙した。
周りの席の騒がしい話声が聞こえてきた。
「だからさ。神崎は、とにかく、お前自身が後悔しないように、やってあげたいと思うことを存分にやってあげるといい。もしも、相手がそれを嫌がっているなら、向うの方から遠ざかっていくよ」
「ありがとうございます。高島先輩には、感謝しかないです」
僕は、深く頭を下げた。
これは冗談でもなんでもなく、無性に、高島先輩のやさしさに感謝したくなったのだ。いつでも話を聞いてくれて、思いを受け止めてくれる。僕もそんな先輩のようになりたいと、思った。
「なんだよ。急に。やめろよ」
そう言って、高島先輩を僕の肩を掴んで上体を起こした。
「いや、とにかく感謝したいんです」
「いいから、いいから」
高島先輩は、僕のグラスと自分のグラスにビールを注いだ。
「飲もうぜ」
もう一度乾杯をして、ビールを煽った。
次の日、営業部長が営業部の人たちを集めて会議を開いた。
営業部長は会議が嫌いで、あまり話し合いということをしないタイプの人だった。どちらかというと、話している時間があるなら脚を運んで営業をして来いといつも言っていたので、会議を開くということにみんなが動揺していた。
「今回、みんなにわざわざ集まってもらったのは、この前話した件についてだ」
部長が言った。
僕は、先日の暑気払いで部長が話していたことを思い出した。たしか、前期の決算がかなり悪くて、営業方法にテコ入れをするという話だった。
「近年、営業成績はどんどん落ちてきています。それは、『努力不足』などというそんな簡単な言葉で片付けられるものではないと思ってます。だからこそ、こうやって話し合いをすることにしました。みんなも分かっている通り、私は会議が嫌いな人間だ」
部長が自慢げにそんなことを言うものだから、みんなが思わず笑った。
「そんな私が、どうして会議をしようと思ったか。それは、このままではいけないと、変わらなくてはいけないと思ったからです。今までとは違ったアプローチで顧客の獲得を目指さないと道は開けない。だからこそ、みんなでアイデアを出し合いたい」
それから、僕たちは、新たな営業方法についてアイデア出しを行った。
これまで営業の方法は各々で考えてやってきた部分が大きかったため、こうやって話し合いをすることに慣れていなかった。しかし、最初こそ沈黙した時間があったが、徐々に意見が出るようになり、最終的には、熱気を感じるくらいにヒートアップしていた。
インターネット、SNSを使った手法や、メールマガジンなどの流行りに乗ったアイデアや、健康イベントの開催や、ワークショップの開催など地元に密着したアイデアなど様々なものが出てきた。出てきたアイデアについて、ああだこうだと言いながら、気が付けば2時間以上経過していた。
みんなの脳が疲れ切ったところで、部長がパンと手を叩いた。
「みんな、ありがとう。今日はここまで。今、たくさんアイデアが出たと思う。また、人のアイデアを聞いて、刺激を受けた部分もあったと思う。みんな、それぞれ感じた事や、考えたことを、まとめて来週の水曜日までに、正式に企画として提出してほしい。そしてもう一度会議を開きます。今度は社長にも来てもらい、そこでみんなにプレゼンをしてもらいます。みんな、通常業務で忙しいとは思いますが、会社の命運はみんなにかかっているといっても過言ではない。よろしくお願いします」
部長は、そう言って頭を下げた。
会議後、社内は妙な雰囲気だった。そわそわしているような感じで、やる気に満ち溢れ、早速資料づくりを始める人もいたし、疲れ切ったように椅子に座って天井を見上げていている人もいた。
僕は、なんだか落ち着かなくて、給湯室に行き、自販機で缶コーヒーを買った。
本当なら、僕もみんなと同じ温度で仕事に挑みたいところだったが、正直な気持ちとしては、山田さんのことが頭の中の九割を占めていて、仕事に身が入りそうもなかった。
「疲れた顔してんな」
高島先輩も、給湯室に入ってきた。
「お疲れ様でした。会議って疲れますね」
「ほんとな。俺、企画とか考えるの苦手なんだよな」
高島先輩は、そう言いながら、自販機で缶コーヒーを買った。
「お前はそう言うの得意だろ?」
「いや、そんなことないですよ」
「なんだよ。疲れた顔して」
高島先輩は、僕の隣に座った。
「なんていうか、せっかくみんなの士気があがっているところで、僕も一緒になって頑張れたらって思うんですが、どうしても、気持ちがついていかなくて」
「……コンビニの彼女のことか?」
「恥ずかしい話ですが、その通りです」
僕は、ため息をついた。
「別に恥ずかしいことじゃないよ」
高島先輩は言った。
「今のお前にとったら、仕事より彼女のことが心配で当然だろ」
「すみません」
「謝んなよ」
「はい……。すみません」
「だから、謝るなって。今、彼女のそばにいてやれるのはお前しかいないだろ。でも、仕事ができる人間はこんなにたくさんいるんだ。そんなこと気にするなよ」
高島先輩は、そう言って、僕の背中を叩いた。
「その代わり、諦めんなよ」
先輩の声が急に真剣な色を帯びていたので、思わず僕は顔を上げて先輩の顔を見た。先輩はまっすぐに僕を見ていた。
「きっと彼女も苦しみながらも諦めているわけじゃないんだ。諦めきれないからこそ苦しんでいるんだと思う。だからこそ、お前もあきらめないで、頑張れよ」
そうだ。その通りだ。
僕は思った。
高島先輩の言う通りだ。
諦めきれないからこそ苦しくなるんだ。
それは、僕も一緒だ。
山田さんと一緒にいた時間が楽しくて、自分にとって山田さんが誰よりも大切な人になった。山田さんとこれからも一緒にいれる人生を諦めきれないんだ。それが、僕にとって一番欲しいものなんだ。
僕は、心の中にかかっていた靄が晴れていくような感覚を感じた。自分の本心を一つ見つけたのだ。
「高島先輩。ありがとうございます」
僕は立ち上がってお辞儀をした。
「な、なんだよ。急に」
「俺、ちゃんと掴んでみせます」
「お前ならできる。頑張れよ」
僕は、缶コーヒーを飲み干して、先輩に見送られながらその場を後にした。
オフィス内は、さっきまでの熱をまだ引きずっていて、残業をしている人たちがたくさんいたが、僕はそんな中、早々に会社を出た。
向かう先はもちろん、山田さんのところだ。
まず、青いコンビニに立ち寄り、食べ物を買った。ハムのサンドイッチと、カフェオレ、それから鮭のおにぎり。山田さんは、ハムのサンドイッチが好きなのだ。僕はずっとタマゴのサンドイッチが好きだったのだが、山田さんに勧められてハムのサンドイッチを食べたことがあった。その時にあまりの美味しさに驚いて、それから僕もハムのサンドイッチをよく食べるようになった。「ハムのサンドイッチは、私が神崎さんに教えたんです」と自慢げに言う山田さんの顔をよく覚えている。
いつものように、山田さんの顔を思い浮かべながら、買い物を済ませると、急いで、山田さんの家に向かった。その道中、自分の頭の中で、山田さんになんて声をかけようかと思案した。頭の中をグルグルと回して考えてみても適切な言葉は思い浮かばなかった。そうこうしているうちに、山田さんのアパートの前についた。
深呼吸。
それから、とりあえず、買ってきたものを山田さんの部屋のドアノブにかけた。
また、深呼吸。
声をかけようとしたその時、ゆっくりとドアが開いた。
「山田さん?」
僕は驚いて声をあげた。
「神崎さん……。いつもありがとうございます」
「大丈夫?」
「あの……。お時間ありますか?」
山田さんの声は、しゃがれていて、一緒に遊びに行った時に聞いていた声とはまったく別人の様だった。ただ、彼女の声を久しぶりに聞けて、それだけでも、嬉しかった。
「も、もちろんだよ」
「よかったら、中で話しませんか?」
そう言って、山田さんはドアを大きく開けた。
僕は、緊張しながら部屋の中に入った。
部屋の中は、花のような甘い匂いがした。よく考えると女の子の部屋に入るのは生まれて初めてで、妙な緊張感が全身にまとわりついていた。
部屋は廊下にキッチンがあるタイプの1Kで、リビングの入って左側に黄色のベッドがあり、中央には楕円形のローテーブルがあった。奥の窓際には勉強机があり、その隣に本棚があった。壁には飾りという飾りはなく、シンプルな部屋だった。
「座ってください」
山田さんは、僕に丸い座布団を差し出した。
「お邪魔します」
僕は座布団に座った。
山田さんも隣に座り、数秒沈黙が流れた。まるで真空の中にいるような気分だった。自分の心臓の音だけが聞こえる。
「神崎さん」
「……はい」
「あの、いつも、いつも、差し入れ、ありがとうございます」
山田さんは、そう言って頭を下げた。
「いやいや、やめてよ。僕が、おせっかいで勝手にやってることだから。逆に迷惑だったかなって思いながら……」
「迷惑なんてことは本当にないです……」
彼女は、そこで、言葉を詰まらせて、口を横に結んだ。
「それよりも、私、神崎さんが毎日来てくれることが嬉しくて、何とか自分を保つことができていました。それなのに、顔も出せなくて、連絡も返せなくて……ごめんなさい」
彼女は、大きく息を吐いた。
「自分で自分が、嫌になります。あんなささいなことで、まるで人生そのものが駄目になってしまったみたいな感じで、塞ぎ込んでしまいました。私、普通に生きていく自信がありません……。でも、神崎さんみたいな素敵な人に、好きになってもらえたことは、唯一の自慢です」
彼女はそう言って、微かに笑ってみせた。
「神崎さんが、買ってきてくれたものを見るたびに、私、泣いてました。だって、全部、私の好きなものだったから」
彼女の目からポロポロと涙が落ちた。
「私のことを考えながら、選んでくれたんだな、って思って。でも、だから……神崎さんの重荷になりたくない。そう思って、顔も出さないようにしてました。その方が、神崎さんにとってもいいはずだって思ってました」
「そんなことないよ。僕は……」
言いかけた言葉を遮るように、彼女は言った。
「ただ、最後に、どうしても神崎さんに会いたかったんです」
彼女は、僕の目を見ていた。彼女の目は、限界まで涙を溜めて、まるでそこに、宇宙に浮かぶ青い星があるかのようだった。
「最後……。どういうこと?」
「この前、両親から連絡がありました。それで、これまでのことを話しました。そうしたら、一度、帰って来なさいって言われました。私もその方が、いいと思いました」
彼女の言葉に僕は驚いてしまった。しかし、冷静に考えれば当然のことだろう。ご両親が心配しないわけがない。以前、山田さんから、実家の話を聞いたことがある。実家は、東北の田舎にあって、地元ではわりと大きな家で、次女である山田さんは、いつまでも実家にいないで、早く独り立ちするようにと言われて育ったと話していた。だからこそ、大学を休学したとしても、実家には戻らず、アルバイトで生計を立てて自分で生活していく選択をしたのだ。
「実家に戻ったら、たぶん、もうこっちには、帰って来ないと思います。父が、実家の方で仕事を紹介してくれるって言ってました」
「……そっか」
沈黙。
僕は、言葉を探すというよりも、今、この瞬間を噛みしめるように黙り込んだ。きっと山田さんも同じだったと思う。
僕は、彼女を見つめた。
泣いていて、頬が赤くなっていたが、とても綺麗だった。
「もう、決めたんだね」
僕は言った。
「はい……。決めました」
彼女は頷いた。
その瞬間、僕もあることを心に決めた。
「ちなみに引っ越しの時には、ご両親は来られるの?」