#7
金曜日のお昼、山田さんから連絡がきた。
〈今日、復学願を出しに行きます〉
一緒に映画を観に言った後から、山田さんの口から復学を目指したいという話が出て、いよいよ決心がついたようだった。
僕は、すぐに「絶対大丈夫だよ。応援してる」と返信をした。本当だったら、すぐにでも山田さんのところに行って、まず一歩踏み出せたことをお祝いしたい気持ちだったが、今日の夜は会社の飲み会だ。明日の夜に山田さんと会う約束をしているので、その時なにかお祝いをしようと思った。
頭の中で、山田さんに何かプレゼントしようかとか、いいお店を予約しようかとか、どうやったら喜んでもらえるかと考えていて、午後は仕事が手につかなかった。
「おい、神崎。何、ボーっとしてんだよ。今日は、毎年恒例の暑気払いだろ。残業はできないぞ」
高島先輩に声をかけられて、就業時間になっていることに気が付いた。
「あ、はい。すぐに行きます!」
周りを見ると、営業部の人たちは、みんな帰る準備をしていた。
僕も急いで、パソコンをシャットダウンし、デスクを片付けた。
今日は、営業部で恒例になっている暑気払いで、飲み会ではあるが、部長から今年度の方針について説明がある重要な会となっている。
社長からの命令を真面目な場で説明すると、真剣に受け止め過ぎてしまうのが嫌だからという理由で、始まった。なんとも部長らしい発想だなと思う。部長曰く、営業マンにとって方針や、上からの命令というのも大事だが、目の前のお客様のことを考え、その思いに答えるために最善の行動をすることが最も重要なことだから、方針なんかに縛られないでほしいという事らしい。
今回の会場は、会社の近くの居酒屋だった。海鮮料理が美味しいお店だ。営業マンは総勢で10名程で、そんなに多くはないが、みんな男性なので、一堂に集まるとそれなりにむさくるしかった。
「今回は、なんか部長も張り切ってたな」
高島先輩が言った。
「そうなんですか?」
「まあ、今、会社の業績がそんなによくないからな。社長もピリピリしているし、なんとなく会社全体の雰囲気よくないだろ? 部長は、営業部からこの状況を変えていきたいんだとよ」
「先輩は、なんだか乗り気じゃなさそうですね」
「いや、そんなことないけどさ。部長はさ、たまに空回りするんだよ。あの人。だから心配なんだよ」
高島先輩は、そんなことを言いながら、お酒が来る前なのに、お通しの枝豆をつまんだ。
「とりあえず、神崎は、彼女のことだけ考えてればいいんだよ」
「な、な、なに言ってるんですか」
「お! その同様っぷり。さては、ようやく付き合ったのか?」
「い、いや、まだです」
「おいおいおい。どうなってんだよ。さすがに、待たせ過ぎじゃないのか」
「いいんです。順序ってものがあるんですよ」
僕は、先日、勢いで彼女に告白してしまった時のことを思い出した。彼女は、復学するまで待ってほしいと言ってくれて、そして今日、復学届けを提出しに行っている。ということは、今日から付き合える、ということなのか。今日、届けを出して、復学自体は2ヵ月後の9月からになるということだから、そこからお付き合いがスタートするということなのか。そんなことを考えていると、ふとある事に気が付いた。
そうか、僕は山田さんと付き合えるんだ。
じわじわとお腹から頭に向かって温かい何かが上がってくる感覚があった。
「なんだ。お前、にやにやして。気持ち悪いぞ」
高島先輩は言った。
そんな言葉は、今の僕には届かず。いてもたってもいられなくなっていた。僕は、慌ててポケットからスマートフォンを取り出し、山田さんにラインを送った。
〈復学願は出せた? 明日は、山田さんが一歩踏み出せたことをお祝いしましょう〉
正直、僕の頭の中はお花畑になっていて、仕事のことなんて考えられる余裕はなかった。
その時、ガラガラとお店の戸が開いて、部長が入ってきた。
「おお、みんなそろっているね。遅くなってすまん」
誰かが、飲み物注文お願い、と言った。
僕は、店員さんを呼び止め、人数分の生ビールを注文した。
ビールが運ばれてくると、部長が立ちあがった。
「まずは、皆さん、日頃の業務、お疲れ様です。そして、本日、忙しい中集まっていただきありがとうございます。私は、ビールを持ったまま話すのが、とにかく嫌いです。手が疲れます」
部長のいつもの冗談で、笑いが起きた。
「ということで、いきなり、乾杯しましょう! それは、皆さん、盛大に」
部長の掛け声に合わせて、みんなの「乾杯!」という声がお店中に響いた。若干昭和臭の残る職場なので、飲み会はいつも騒がしかった。
僕も、みんなに合わせて、グイッとビールを流し込んだ。
「ビールを飲みながら話を聞いて下さい」
部長が話を始めた。
「まず最初に、いつもであれば楽しい話から、希望のある話から始まる暑気払いですが、今年は、若干重たい話からのスタートになりますことを、謝罪させてください。申し訳ない」
飲みながらでいいと言われたが、とてもビールを飲めるような雰囲気ではなかった。
「ええ、先日、社長と話をしました。どうやら前期の決算は、すこぶるよくなったようです。現場でお客様の対応をしている我々営業も肌で感じていることとは思いますが、顧客の数は減って来ています。そういう話をすると、だいたいこんな意見が上がります。『ネット販売が広まった世の中で健康食品の営業代行が流行るわけがない』と。私はこの意見を全否定するつもりはありません。社会情勢は、明らかに我々にとって、逆風であるのは間違いないでしょう。ただ、だからと言って、そこで思考停止していていいのか。いいわけがない。皆さんには、今一度、なぜ、自分が営業マンになろうとしたのか。それを考えて頂きたい。もちろん、様々な理由があると思いますが、お客様を笑顔にしたい、これは皆様が共通して持っている思いなのではないでしょうか。自分の営業で、お客様が喜んで契約をしてくれた時、嬉しいですよね。お客様がいい買い物をしたって思ってくれた時、それが私たち営業マンの喜びですよね。その原点を、もう一度振り返って、今期は、V字回復を目指しましょう。我々ならできると、信じています!」
部長が話を締めくくると、盛大に拍手が起こった。
確かに重たい話ではあったが、数十分もしないうちにいつもの宴会の雰囲気になった。
高島先輩のせいで、僕はあらゆる先輩職員から、質問攻めにあう羽目になった。
「なんと神崎は、今、恋をしています! みんな! 乾杯だ!」
高島先輩が、そう言ってグラスを掲げると、みんなも盛大に乾杯をした。
「ちょっと、冷やかさないで下さいよ!」
僕は言った。
「冷やかしてなんかいないよ。俺たちはお前を応援するぞ!」
それから、僕は、何度も同じ質問をされた。どこで出会ったとか、どんな子なのか、写真はないのか、名前はなんていうのか、出身はどこなのか、もう付き合っているのか、なぜ告白しないのか、などなど。
最後には部長まで、写真を見せろと言い出した始末だった。
とても面倒くさい状況ではあったが、山田さんの写真をみて、みんなが「かわいい」と褒めてくれたり、羨ましそうにしてくれるのは、僕にとっても嬉しいことだった。
宴会が終わり、お店の外に出る頃には、夜の九時を過ぎていた。エアコンの効いた部屋にいて、冷えた体には、外の生ぬるい空気が心地よかった。
僕は、スマートフォンを確認した。山田さんからの返信はまだない。
もしかしたら、シフトを変更して、アルバイトをしているかもしれないな、と思った。ただ、妙な感じもした。山田さんのことだから、復学届を出したなら、その時に連絡をくれそうな気もするが、お昼ごろ連絡をもらった以降、音沙汰がない。ほんの少しだけ不安がよぎったが、明日会う約束をしているし、その時に話ができればいいか、と気持ちを切り替えた。
「神崎。二次会行くぞ」
高島先輩が言った。
「おい。なんだ、まさか、この後予定があるなんて言わないよな」
「行きます行きます。ちょっと、高島先輩、飲み過ぎじゃないですか?」
「そんなことねぇよ。本番はこれからだよ」
高島先輩は気持ちよく酔っているみたいで、ふらつきながら歩いていた。
今すぐ、山田さんに電話したい気持ちもあったが、あまりしつこく連絡するのも良くないなと思い直し、先輩のあとを追っかけた。
次の日、朝、目が覚めてすぐに、スマートフォンを確認した。
既読はついていたが、山田さんからの返信は来ていなかった。
こんなことは初めてだった。
既読がついて一晩連絡がなかったことは今まで一度もない。僕は、数分考えてから、電話をかけてみることにした。今日、会う約束をしているわけだし、不自然なことではないはず。しかし、耳に当てたスマートフォンからはコールが聞こえるばかりで、つながらなかった。
胸騒ぎがする。
とりあえず、僕は、山田さんにラインを送った。
〈おはよう。昨日はどうだった? 今日のお店の相談とかもしたいので、もしよかったら時間がある時に連絡ください!〉
自分を落ち着けるために、コーヒーを淹れた。
テレビをつけてみても、雑誌をめくってみても全然頭に入ってこなかった。
どうしても落ち着くことができず、意味もなく立ち上がったりしてしまった。
何が起こっているのだろうか。スマートフォンを無くしてしまったのだろうか。もしもそれならむしろ安心できる。事故や事件に巻き込まれてないか、心配で仕方がなかった。
冷静に考えれば、気分が乗らないとか、タイミングの問題で、一日くらい返事を返さないことくらいは、僕にもあることだから、そんなに慌てることでもないのかもしれない。ただ、どうしても妙な胸騒ぎが消えてくれない。
それから、お昼を過ぎて、約束をしていた夕方五時が近づいてきても、返事は来なかった。とりあえず、五時に駅前集合で約束をしていたので、僕は着替えをして集合場所に向かうことにした。
駅についてもやはり山田さんの姿はない。
時計を見ると四時四十五分だった。
連絡してみようかどうか迷っていると、スマートフォンが鳴った。
山田さんからのラインだった。
〈神崎さん、ごめんなさい。今日は会えません〉
僕はすぐに返信した。
〈大丈夫? なにかあったの?〉
既読はついたが、待てども返信はこなかった。
僕は、確信した。きっと昨日、復学願を出しに行った時に何かがあったのだ。もともと、山田さんにとってストレスの原因だった場所に行くのに、辛くないわけがない。どうして僕は、山田さんを一人で大学へ行かせてしまったのだろうか。無理に昨日じゃなくてもよかったんだ。僕が仕事を休める日に一緒に行くという選択肢もあったかもしれない。結局なにもしてあげられない自分が情けなかった。
こんな時、どうしたらいいのだろうか。
女性と付き合った経験のない僕には、あまりにも難しい問題だ。
ほんとうなら、彼女の家に行って、話を聞いてあげたい。でも、付き合っているわけでもないのに、そんな図々しいことをしていいのだろうか。放っておいてほしいと思っているかもしれない。下手な事をして余計に嫌な思いをさせてしまったらどうしよう。頭の中は、まるで絡まったロープのようにぐちゃぐちゃで、決断ができずにいた。
僕は、ベンチに座りため息をついた。
「おい。神崎」
名前を呼ぶ声が聞こえて顔を上げると、高島先輩がいた。
隣には、露出度の高い恰好をした金髪の女性も一緒だった。
「高島先輩。どうしてここに」
「奥さんと買い物だよ」
「どうも。初めまして。君が、神崎君? よく家で話を聞いてるよ」
金髪の女性は高島先輩の奥さんだった。パチンコ屋で出会ったという話は嘘かと思っていたが、もしかしたら本当なのかもしれない。
「はじめまして。神崎です。先輩にはいつもお世話になっています」
「すごい好青年。あんたとは大違いね」
奥さんはそう言って笑った。
「ところで、神崎こそ、こんなところでうなだれて、どうしたんだよ」
「えっと、実は、その……」
高島先輩は、僕が戸惑っている様子を見て何かを察したのか、奥さんに「先に行っててくれ」と言った。
「神崎。ちょっと待ってろよ」
そう言って、近くの自販機で缶コーヒーを買ってきてくれた。
「まあ、飲めよ。とりあえず、落ち着けよ」
僕は、一口コーヒーを飲んだ。
「それで、どうしたんだ。この世の終わりみたいな顔して」
「すみません。奥さんとお出かけしている時に」
「いいのいいの。まずは、聞かせてくれよ。何かあったんだろ?」
「実は、その山田さんの話なんですけど——」
僕は、今にいたる経緯を話した。山田さんが休学していること。昨日から連絡がつかず、さっき『今日は会えない』とだけ連絡がきたこと。そしておそらく昨日復学届を出しに行った時に何かがあったということ。
「なるほどな。それは確かにその可能性が高いな」
「こういう時、どうしたらいいですかね」
「まあ、難しいよな」
「僕、彼女がいたことないですから、本当に分からなくて、山田さんがどうしてほしいのかなって考えても何も思い浮かばなくて」
「……なあ、神崎。お前の気持ちも、もちろん分からなくはない。ただ、ちょっと思うのが、相手が何を求めているかを考えることがそんなに重要か?」
「何言ってるんですか。重要に決まってるじゃないですか。もしも何か落ち込むことがあったとして、山田さんは一人になりたいタイプかもしれないし、それなのに何度も電話したりしてたら、嫌がれちゃいますよね」
「嫌がられたらどうなるんだよ」
「嫌われますよ」
「それがどうしたよ」
「それがどうしたって……。そりゃあ、好きな人に嫌われたら辛いじゃないですか」
「それは確かに辛いかもな」
「ですよね」
「だけど、お前、好きな人が落ち込んでるかもしれないって時に、嫌われるのが嫌だからって何もしなくて、後悔しないか」
僕は、高島先輩の言葉に心臓を撃ち抜かれた。思わずハッとして顔を上げた。
「相手が何を求めているか考えるのも、そりゃあ、大事だよ。だけども、お前が相手にどうしてあげたいかってことも大事なんじゃねえの。男は、時には嫌がられても抱きしめるくらいの根性持たなきゃな」
「先輩!」
僕は、思わず立ち上がっていた。
「先輩には、感謝しかないです!」
そう言って頭を下げてから、僕は走った。
「気をつけろよ!」
高島先輩の言う通りだ。
山田さんはきっと今辛い状況にあるんだ。そんなときに、何をジッとしているのだろうか。自分の好きな人が困っている時に駆けつけてあげられないなんて、そんな悲しいことがあるだろうか。山田さんは嫌がるかもしれない。迷惑に思うかもしれない。
それでも、かまわない。山田さんが心配だから、僕はそばにいてあげたいと思うのだ。
前に、一緒に飲んだ帰りに家まで送ったことがあった。普段は道を覚えるのが苦手な僕だが、この時は一度で山田さんの家を覚えた。
僕はとにかく急いで、山田さんの家に向かった。
家に着いた頃には、全身から汗が噴き出て、息も上がっていた。
少し、息を整えてから、インターホンを押した。
数分経ってから、ドアが小さく開いた。
「山田さん」
僕が声をかけると、小さな悲鳴が上がって、バタンッとドアが閉まった。
それから、ドア越しに山田さんの声が聞こえた。
「ど、ど、どうして!? 神崎さん。どうしたんですか?」
「ごめん。迷惑かなって思ったんだけど、どうしても山田さんが心配で」
「……今日はすみませんでした」
「それは、いいんだよ。山田さん、大丈夫?」
「……心配かけてすみません」
山田さんの声は、震えていた。
「あのさ、僕でよかったら、話してくれないかな」
沈黙。かすかに鼻をすするような音だけが聞こえる。
「無理にとは言わない。今でなくてもいい。とにかく、僕は、山田さんが心配で、走ってきたんだ。もしも、山田さんが辛い思いをしているなら、僕も一緒に悩ませてほしいんだ」
「やっぱり、神崎さんは、素敵な人です。私には、もったいないです。それが、今、よくわかりました」
「どうしてそんな風に思うの?」
再度、沈黙したが、数十秒待っていると、山田さんはゆっくり話してくれた。
「私、神崎さんに『好き』って言ってもらえて本当にうれしかったんです。だから、自分も自分のことちゃんとして、神崎さんの気持ちに応えたいなって思ったんです。だから、復学届を出すことを決めました。だけど、昨日、大学へ行ったときに、偶然友達にあったんです。勘違いしないで欲しいんですが、けっして悪い友達ではないんです。友達は、私の事を心配してくれました。それから、最近の授業の事とか、卒業論文の作成で忙しいこととか教えてくれました。これは私が悪いんですけど、そんな話を聞いているだけで、自分が取り残されている現実を突き付けれているみたいで、すごく辛くなってしまったんです」
山田さんの感情が高ぶっていくのが、声の変化で分かった。
「……それから、友達の一人が言ったんです。『4月頃、男の人とお花見に来てなかった?』って」
「え……」
山田さんと初めてのデートの時に、山田さんが友達がいるのを見つけて木陰に隠れたのを思い出した。
「『あの人彼氏?』って聞かれて、違うって答えようとしたんですけど、続けざまに『いいね。私なんて、卒論とバイトが忙しすぎて彼氏に振られたんだよ』って言われたんです。私、その言葉を聞いた時に、息が出来ないくらいに辛くなっちゃって、急いでその場から逃げたんです。彼女たちが悪気があって言ったわけじゃないのはよくわかってます。それでも、まるで、自分が、学校にも行かないで遊んでばかりでいいよねって責められているような気持ちになっちゃって、それで、それで……こんなちっぽけな出来事で、立てないくらいにショックを受けちゃって、それから体が重たくて、部屋から出られないんです。自分でも変だなって思うんですけど、でも辛くて……」
彼女は、声をあげて泣き出した。
「山田さん……。辛かったね……」
なんだか僕も涙があふれてきた。
「だから、私、こんなんじゃ、復学なんてできないと思って、届出も出せなかったんです。私……神崎さんに、待っててくださいなんて言ったのに……全然だめだから、もう、見捨ててください。お願いします」
音だけでも彼女が泣きじゃくっているのがわかった。
僕は、今すぐにでもこのドアぶち破って、彼女を抱きしめてあげたいと思った。けれども、ドアノブに手を掛けるのが精一杯で、どうしてもドアを開けることができなかった。