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#6

 もうすぐ夏になる。

 そんな予感をさせる空だった。

 駅の待合室で座って、誰のためでもなく流れているテレビを観ていると、トントンと肩を叩かれた。

「ぼーっとしてますよ」

 山田さんだった。

「もう! 手を振ったのに、無視しないでくださいよ」

 山田さんは、そう言って頬を膨らませた。

「え、ごめんごめん!気がつかなかったよ」

 僕と山田さんは、休みの日には一緒に出かける仲になっていた。そして、今日も映画を観に行く約束をしていた。

「まあ、今回は、許してあげます。次から私を待ってるときは、気を抜かないように」

「はい。以後気をつけます」

 山田さんに勇気を出して声をかけたあの日から毎日が楽しかった。もちろん、それまでも楽しくないわけではなかったけれども、山田さんの存在が僕の生活において必要不可欠なものになっているのは間違いなかった。

 映画館に着くとポップコーンとコーラを買い、上映を待った。

「来週の金曜日の夜、ご飯食べに行きませんか? 」

 山田さんが言った。

「来週の金曜日か。ああ、ごめんね。来週は、会社の飲み会があるんだ」

「そうですか⋯⋯。なら仕方ないですね!また、今度行きましょう!」

「次の日の土曜日はどうかな?」

「いいですね! 土曜日にしましょう!」

 山田さんは、予定が決まると嬉しいそうにカバンから黄色い手帳を取り出して、予定を書き込んだ。

 それから、彼女が言った。

「あの⋯⋯神崎さんは、お仕事楽しいですか?」

「えっと⋯⋯。そうだね。楽しいと言えば楽しいよ。たいへんなこともあるけど」

「神崎さんは、すごいですよね」

「そんなことないよ」

「お仕事、いつも頑張ってますよね」

「そんなことないよ。ただやらなきゃいけないことをやってるだけで」

「それが、すごいと思うんです。私は⋯⋯。やらなきゃいけないこともやれてないから」

 山田さんはそう言って俯いた。

 彼女は今、大学を休学中で、普段はコンビニでアルバイトをして過ごしている。彼女は、決して不真面目な人間ではない。だからこそ、同学年のみんなが大学へ通っている中、自分だけが学校に行けずにいることを、お気楽には考えられないのだろう。

「山田さんはさ。将来はどんな仕事がしたいとかあるの?」

「仕事ですか⋯⋯。実は、私⋯⋯キャリアウーマンになりたいんです」

「キャリアウーマン⋯⋯?」

 山田さんは、少し恥ずかしかったのか、頬を赤らめている。

「キャリアウーマンって、バリバリ働く女性って感じの?」

「そうです。なんか、バカみたいですよね」

「そんなことないよ。全然、そんなことない」

「職種とか、業種とか、そういうのはよく分からなくて、ただ昔から、スーツ着て働く女性に憧れがありまして」

 僕は、山田さんがスーツを着ている姿を想像してみた。

「いいよ! すごくいいと思う!」

「え!そうですか!?」

「ほんといいよ!めちゃくちゃ素敵だよ!」

「そんなに言われると逆に恥ずかしいです!」

「山田さんならきっとかっこいい大人になれるよ!」

「ありがとうございます!そう言って、もらえると勇気が出ます」

 山田さんは、頭を下げた。

「だけど⋯⋯このままだと、ちゃんと就職できるかもわかりません。しっかりしなきゃいけませんね」

「全然大丈夫だよ。結局、就職してみて思うのは、大学で学んだことなんて全然役にたたないし、大学行かなくたって、サラリーマンはできると思うよ」

「そうですかね⋯⋯」

 彼女は不安そうな表情で、こちらをみていた。

「心配ないよ。絶対大丈夫。僕が保証するよ」

「ありがとうございます。神崎さんを信じます」

 彼女はそう言って、笑顔を見せたが、いつもの無邪気さはなく、どことなくさみしげに見えた。

 上映時間が近くなりスクリーンが開放され、僕たちは席に座った。薄暗い空間、物音を立ててはいけないような静けさの中で、彼女が隣にいることに心臓が高鳴った。

 映画が始まっても僕はついつい彼女の横顔に視線が行ってしまった。映画に釘付けになる彼女の横顔がとてもきれいで、むしろ映画なんかよりも素敵なものに見えた。

 もちろん映画は映画で十分に楽しかった。王道の恋愛映画で、普段だったら率先して観ようと思うような内容ではなかったけれど、彼女と一緒に観たことで、この映画の価値が一段も二段も上がったような気がした。

 映画館を出て、僕たちは近くのデニーズに入った。僕が、パフェを頼むと、山田さんも同じものを頼んだ。

「映画、どうでしたか?」

 山田さんが言った。

「恋愛映画ってあんまり観ないんだけど、すっごい面白かったよ」

「よかった。女の子が観るような映画だから、神崎さんの趣味に合うか心配だったんです」

「全然、そんなことないよ! しっかり楽しめた」

 山田さんは、にこっと猫みたいに笑った。

「また、行きましょうね」

「うん。また行こう」

 僕は、とてつもなく幸せだった。ずっと好きだった人と、仲良くなって一緒に映画を観に行くことができたのだ。これ以上幸せなことがあるだろうか。

 パフェを食べ終わると、彼女は言った。

「なんだか、逆にお腹が空きましたね」

 僕は思わず笑った。

「ご、ごめんなさい。なんか食い意地張ってるみたいですね」

「違う。違う。実は僕も同じこと考えていたから」

「なんだ、よかった! 変な人だと思われちゃったかと、思いました⋯⋯」

「そんなわけないよ。同じこと考えていたのがおかしくてさ。そうだ、これから近くの居酒屋に行こうよ」

「いいですね! 大賛成です!」

 僕たちは、デニーズを出て、歩きながら居酒屋を探した。

 何が食べたいかとか、どんなお店がいいかとか、話しながらお店を探すことすら楽しく、自分の気分がどんどん高揚していってるのがわかった。

 僕たちは、結局、山田さんの提案で歩いて数百メートル程のところにあった焼き鳥屋に入ることにした。

 それから、お酒を飲みながらいろいろな話をした。もちろん、映画の話もしたが、それ以外にも、山田さんのアルバイト先の人間関係についての話なんかも聞いた。最近は、山田さんも自分のことを話してくれるようになって、僕に心を許してくれているように思えて嬉しかった。

 山田さんのアルバイト先の店長は気分屋な人で、イライラしてる時には店員にあたるように怒鳴ったりすることもあるらしい。だから、入社してすぐに辞めてしまう職員も多いという。

「仕事で、感情的になる人っているよね」

 僕は言った。

「ほんと、嫌になりますよね。仕事なんだから、もっと冷静になって欲しいものです。だから、みんな辞めていっちゃうんですよ」

 山田さんは、お酒がまわってきているのか、ほんのり赤い顔をしていた。それにいつもより少し饒舌だった。

「うちの会社でもそういう人は、いるよ」

「神埼さんの会社みたいにちゃんとしたところでもそんな人がいるんですか?」

「別に、ちゃんとした会社でもないよ。しがない中小企業だよ。それに、誰だって自分の感情をいつも抑えていられるほど大人じゃないよ」

「なんか、神崎さん。かっこいいです」

 山田さんの、言葉に僕はドキッとした。今まで感じたことのない感情が湧き上がってきた。

「え、え、えっと。なんかちょっと、カッコつけちゃったかな」

 山田さんは、僕の目をじっと見ていた。なんだろうか。いつもと少し違う雰囲気の山田さんに僕はどうしていいかわからなくなっていた。

「ねえ、神崎さん」

 僕があたふたしていると山田さんが言った。

「は、はい。なんでしょうか」

「今日の映画、ほんとうに、面白かったですか?」

「ど、どうしてですか?」

「ちゃんと、見てたのかなって思いまして」

「見ていたよ。ちゃんと集中して見ていたよ」

「本当ですか?」

「え、なんでですか?」

 僕は、山田さんが何を言いたいのかわからず、それでも、なんだか妙にドキドキしていた。

「だって、映画観ている時、神崎さん、しょっちゅう私の方見てませんでしたか?」

「え⋯⋯。そう、かな⋯⋯」

「すごい、視線を感じてたんですよね。もしかして⋯⋯」

 山田さんは、会話の途中でビールを一口煽った。

「映画より、私を見たかったんですか? ⋯⋯なんちゃって」

 僕は、あまりに図星だったので、驚きと恥ずかしさで、言葉が出てこず、黙り込んでしまった。

「ちょ、ちょっと神崎さん。冗談ですよ! すみません。悪ノリでした」

 山田さんは、そう言って頭を下げると、顔を赤らめて、バツが悪そうにビールを飲み干した。

 僕の頭の中はいろいろな言葉がまるで街頭に集る虫のようにブンブンと飛び回っていた。

 どう言葉を返すべきだろうか。

 そんなわけ無いじゃん、と強がってみてもいいかもしれない。でも、それだと嘘になってしまう。だって、本音は映画なんかより、山田さんを見ていたかったのだから。

 冗談めかして、山田さんがきれいだったから、なんてキザなことを言ってみるか。なんだかそれも性に合わない気がする。

 あれこれ考えるうちに僕の脳内で変なスイッチが入ってしまったみたいで、全部正直に言ってしまおう、そんな思いが強烈に湧き上がってきた。

 僕は昔からそうなのだ。

 追い詰められた時には、本音を全部言ってしまおうと、極端に、そう思ってしまうのだ。昔、小さかった頃に母さんのお気に入りの映画のDVDをーー記憶が曖昧でタイトルはあやふやだが、おそらく「プラダを着た悪魔」とか「レイチェルの結婚」とか、そんな類の映画だったと思うーー友達に貸してそのまま、その友達とは疎遠になってしまったことがあった。その時も、濡れ衣で怒られている父親の姿を見るに見かねて、僕はすべてを洗いざらい話した。母親にこれでもかと怒られたあとに、父に「お前が正直者に育ってくれたことを誇りに思うよ」と言われたことが鮮明に記憶に残っている。

 その時から、何も進歩のない僕は、今、頭の中を渦巻いている言葉をそのまま口にした。

「その通りだよ」

「え?」

 山田さんは、僕の言葉に驚いた様子だった。

「僕は、どんな素敵な映画なんかよりも、山田さんを見ていたいと思う。正直、僕は、山田さんとこうして遊ぶようになるずっと前から⋯⋯」

 山田さんは、空のジョッキを握りしめながら、僕の目をジッとみていた。

「山田さんが、好きでした。できることなら、お付き合いしたいと思っています」

 自分の脳から出たはずの言葉が、口から出た途端に、まるで他人の言葉のように聞こえて耳が熱くなった。それから、後悔のような達成感のような例えようのない電気信号が全身を駆け巡った。

「え!⋯⋯」

 山田さんは、目を見開いて、驚いた表情を浮かべて硬直した。

 僕は僕で、何も次の言葉を言えないままに硬直していた。

 それからどれくらいの時間が経ったかわからない。五分、いや、十分。体感としては、最近の映画のエンドロールくらいには長い時間だったように思う。

「嬉しいです」

 山田さんは、言った

「神崎さんにそう言ってもらえてほんとうに嬉しいです」

 山田さんは、そう言いながら、目に涙を溜めていた。

「ただ、お付き合いはできません」

 僕は、彼女の言葉に弾丸を打ち込まれたような感覚を覚えた。

「そっか⋯⋯。まあ、そうだよね」

「私も、神崎さんのことは⋯⋯好きです。ただ、今の私にとって、神崎さんは、あまりにもいい人で、かっこよくて、不釣り合いだと思ってしまうのです」

「不釣り合いだなんて、そんなわけないよ」

「違うんです。私⋯⋯。神埼さんとは、ちゃんと向き合いたいんです。だから、私が、こんな、大学も通えていないような状態のままでお付き合いするのが嫌なんです。私のわがままでごめんなさい」

 僕は一生懸命に彼女の言葉を飲み込み、彼女の気持ちを想像しようとした。

 僕の中にもずっとしこりのように残り続けている劣等感のような物が、きっと彼女の中にもあるのだろうと思った。山田さんは真面目さゆえに、それを抱えたままに、堂々と幸せになって行くことができないのだろう。

「だから⋯⋯少し待ってくれませんか」

 彼女の真剣な言葉に、僕はただ頷くことしかできなかった。

「もう一度、きちんと復学して、大学に通って、自分に自信が持てるようになったら、私から告白させてください。だから、お願いですから⋯⋯。待っていてもらえませんか?」

「もちろんだよ。待ってる」

 僕は彼女の手を握った。

「僕にとって山田さんは、とっくに大切な人なんだよ。だから、その、なんていうか。山田さんしかいないっていうか」

 山田さんが握った僕の手に、もう一方の手を添えて、うなだれるように顔を伏せた。肩が小刻みに震えていて、僕の手の甲に雫が数滴落ちた。

 彼女はしばらく泣いていた。

 僕はそんな彼女のそばにいてあげることができたことが嬉しかった。

 山田さんは、僕が想像していた以上に、休学してしまったことを悩んでいたのだろう。自分だけが取り残されているような、そんな孤独感を感じていたのかもしれない。

 僕は自分の人生と彼女の人生を重ね合わせながら、そんなことを思った。

 山田さんが、落ち着いた頃、お店を出た。

 外は夜だった。

 街灯がほんのり照らす道を歩きながら、他愛もないことを話した。

「ちょっと、危ないですよ」

 彼女が言った。

「横見てばっかりで、前向いてないと転びますよ」

「あ、ごめん」

「でも、いいですよ。見ても」

「——ありがとう」

「ありがとうって変ですよ」

 彼女はそう言って、笑った。

 月は丸く、真っ暗な空の中で、ポツンと光っていた。

 きっと、これから彼女は大きな挑戦をしなければいけない。

 僕も、その挑戦に最後まで力になろうと心に決めた。

 でも今はそんなことは微塵も思わせないくらいに穏やかな空気が流れていた。これから夏が来る。おそらく今日が春の心地よい夜の最後の日になるだろう。


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