#4
僕は駅の売店でコーヒーを買って、待合い室に入った。
コーヒーを一口飲み、深呼吸。
そわそわして落ち着かない。時計を見ると、10時45分だった。少し早過ぎたか。
鞄の中身をチェックする。
ハンカチ、ティッシュ、目薬、花粉症の薬、リップクリーム、スマートフォンに財布に、レジャーシート、ごみ袋、小腹が空いた時用のグミに、食後のキシリトールガム、お水、絆創膏、虫よけスプレー。
準備は万端だ。
こんなに楽しい気持ちになったのはいつ振りだろうか。
いや、人生で初めてのことだ。
この前、山田さんの連絡先を聞いて、すぐに連絡をした。
それから、一日に一回くらい連絡を取り合うようになり、もちろん、仕事帰りにはコンビニに寄る。忙しくなさそうな時には、少し話しをすることもある。
そして、いよいよデートをする約束をした。
ちょうど桜が咲く季節で、近くの公園にお花見に行くことになった。この時期だとその公園には。縁日やキッチンカーが出ていてまるでお祭りのようになっている。毎年、カップルや家族づれでにぎわっている。今まで僕には縁のない場所だと思っていたが、好きな人とくることができるなんて、なんということだろうか。
そして、幸いにも天気は快晴だった。
そうこうしているうちに、駅入口の階段を上がってくる山田さんが見えた。
僕は思わず立ち上がった。
本当は両手を大きく振って名前を呼びたかったが、ただじっと立ったまま彼女がこちらに向かってくるのを見ていた。
彼女もこちらに気づいたようで、にこっと笑って、それから前髪を気にするようなそぶりをした。彼女も僕と一緒で落ち着かないのか、キョロキョロとあたりをみていた。
彼女が一歩一歩こちらに近づいてくる間の時間がまるでスローモーションのようゆっくりと流れている気がした。
「お待たせしました」
彼女は、そう言ってお辞儀をした。
「いえいえ全然待ってないです」
「今日は、お誘い頂いてありがとうございます」
「こ、こちらこそです。来てくれて、ありがとう」
彼女の私服は、この前見た時とはまったく印象が違うものだった。白い薄手のセーターの上に春らしい水色のコートを羽織り、下は花柄のロングスカートという恰好だった。あまりにもかわいくて、思わず笑顔になってしまった。
「どうしました? なにか変ですか?」
「いや、すっごくかわいいな、って思って」
山田さんは、顔を赤らめた。
僕もその顔を見て自分が唐突な事を言っているなと気づいて、顔が熱くなった。
「ごめんごめん。急にそんなこと言われても困るよね」
彼女は首を横に振った。
「そんなことないです。嬉しいです」
僕は、出だしから幸せ過ぎて死にそうだった。
僕たちは電車に乗って三駅移動した。
電車の中ではいろいろなことを話した。
最近見ているドラマのことや、好きな映画の話、それから通っている学校の事。
山田さんと連絡を取り合うようになって初めて知ったのだが、山田さんは大学生で、青いコンビニから近くの大学に通っているのだ。その大学は、地元では有名な名門校だ。かなり勉強しないと入れない。
「山田さんは、頭がいいんですね」
「そんなことないです」
「だって、そうでないとあの大学はいけないですよ。すごいです」
「神崎さんは、どちらの大学に行かれてたんですか?」
「僕は、名前も言うのも恥ずかしいくらいのFランク中のFランクの大学です」
「そんな言い方したら、お世話になった大学に失礼ですよ」
山田さんはそう言って笑った。
「でも、いいんですよ。大学も楽しかったから」
僕は言った。
山田さんは、ハッとしたように一瞬こちらを見て、すぐに目をそらした。
「やっぱりだ。神崎さんはすごい人です」
独り言のように山田さんが言った。
「え? なんですか?」
「いえ、なんでもないです」
すると電車の窓から桜が見えた。
「わあ! すごいきれいですね」
お花見をする公園は駅からすぐのところにあって、電車からの桜が見えるので、ドラマの撮影なんかでも良くこの電車がつかわれている。
「ほんと、満開ですね」
そんなことを言いながら、僕の目には桜なんて一切映っていなかった。
桜を見て、目をキラキラさせている山田さんの横顔に釘付けだった。桜なんかよりよっぽどきれいだ。
公園に着くと、予想以上に人でごった返していた。
「すごい人だね」
僕は言った。
「桜の花びらとどっちが多いですかね?」
「山田さんって面白い人だね」
「私、変な事言っちゃいましたかね……」
「いいや。変じゃないよ。ユニークだなって思ってさ。そういうところ、素敵だね」
「……ありがとうございます」
山田さんは、俯いて微笑んだ。
なにか褒めるたびに彼女の見せる反応がかわいくて、僕まで顔が熱くなってしまう。
「と、とりあえず、あっちに屋台とかキッチンカーがあるから、お昼を買いに行こう!」
「そ、そうしましょう!」
僕たちは、キッチンカーと屋台で、焼きそばやら、おにぎり、それからビールを買った。
意外だったが、山田さんもお酒が好きなのだ。
「食べ物と飲み物が揃ったけど、座る場所がないね……」
辺りはすでにレジャーシートが敷かれていて、座れる場所がなかった。
「こっちはどうですか?」
山田さんが指さした方向に向かうと、ベンチが一席空いていた。
「山田さん、ありがとう。おかげで座れるよ」
山田さんと僕はベンチに腰かけて、それからふとなぜかこのあたりだけ人がいないことに気が付いて、そしてすぐその理由も分かった。
「ここだと桜が見えませんね」
山田さんが言った。
このベンチの位置は桜並木の反対側にあり、周りには銀杏の木があった。
「でも、最高の場所だよ。ありがとう」
僕は言った。
山田さんがこちらを見た。
「正直言うとさ、僕は、桜よりこっちが気になるんだ」
そう言って焼きそばとビールを指さした。
「私もです!」
山田さんが、いつもの笑顔でにっこり笑った。
僕たちは、乾杯をしてビールを飲んだ。
これまでに飲んだどのビールよりも美味しかった。
そして、彼女も楽しそうで、それが何よりもうれしかった。
飲んで食べてお腹がいっぱいになると、僕たちは、桜を見ながら散歩をした。
彼女と他愛もない話をしながら歩くこの時間は、ほんとうに現実なのだろうかと疑ってしまうくらいに、幻想的だった。
これが恋愛の魔法なのか。これまでの僕だったら、桜を見ても、「お酒飲みたいな」としか思っていなかったのに、ひらひらと舞う桜の花びらが、まるで星のかけらのようにキラキラと光って見えるのだ。
「あ!」
急に、山田さんが声を上げた。
「どうしたの?」
彼女の視線の先には、三人組の女性たちがいた。おそらく山田さんと同い年くらいの女の子たちだった。
「えっと、あの……こっちに来てください!」
そういって、山田さんは僕の手を引いて通路を作っている垣根の裏手に回った。そして前から歩いてきた女の子たちが通り過ぎるのを待った。
「ご、ごめんなさい。急に」
「どうかしたの? あの人達、知り合い?」
「実は同じ大学の友達で、冷やかされるのが嫌で、つい隠れてしました」
山田さんは、そう言って困ったように笑った。
僕は、本当のことを言うと、気になる事があったが、彼女を余計に困らせるわけにはいかないと思った。
「分かるよ。その気持ち。僕も休みの日とかに偶然会社の人を見かけるとついつい隠れちゃうんだよね」
「怒ってますか?」
山田さんが言った。
「全然、全然。怒るようなことじゃないよ」
「……よかった」
彼女は安心したのか、ふっと息をついた。
それから、ずっと僕の手を握っていたことに気が付いて、慌てて手を離した。
「ごめんなさい」
「こっちこそ、ごめんね」
また、僕たちは歩き出した。
お花見の後は、カフェに行って甘いものを食べたり、雑貨屋さんを巡ったりして過ごした。夕方まで十分楽しんで、帰路についた。
本当に、最高の一日だった。
これが死ぬ前日でもなんの後悔もないと、そう思える位に幸せだった。それは、間違いない。
駅の前で、お別れをして、彼女の背中を見送りながら、ほんの少しだけ、小骨が喉に刺さった時のような、妙な違和感を感じた。
どうして、彼女は大学の友達から隠れるようなことをしたのだろうか。
言っていた通りに冷やかされるのが嫌だっただけなのだろうか。
確かに、その気持ちは分かる。だけどあんなに慌てて隠れるほどのことだろうか。
それともやっぱり、僕みたいな冴えない男と一緒にいるのは恥ずかしいのだろうか。
また別の理由があるのだろうか。
ふと、地面に目を落とすと、桜の花びらが誰かに踏まれてアスファルトに張り付いていた。咲いてるときにはあんなにみんなに注目されて、騒がれるのに、ひとたび散ってしまえば、目もくれられず、まるで小石と同じように無意識に踏まれてしまう。あまりの儚さに桜に同情をしてしまう。
顔を上げると、彼女は、もう、見えなくなっていた。