紅
誰もいない朝の図書館に、僕は紅葉を一枚、挟み込んだ。古い百人一首の解説書。あの歌が載っている、あのページへ。
千早振る 神代もきかず 龍田川
から紅に 水くくるとは
意味はもう知っている。何度も読み返して、心の奥に染み込んでいる。
けれど、それでもページを開くたび、僕の中でその句は生まれ変わる。静かに、しかし確かな熱を持って。
たとえ神様がなんと言おうと、僕は聞き入れない。
この想いは、紅葉のように、あの日から色褪せていない。六年が過ぎても、いや、だからこそ強く、鮮やかに存在している。
君と出会ったのは、高校の文芸部だった。
最初は、ただ綺麗な人だと思った。声に芯があって、どこか遠い時間の中から来たような人。
和歌を読むとき、君の表情は驚くほど静かで、それでいてどこか誇り高く見えた。
「ねえ、和歌ってさ、誰かに贈るラブレターみたいじゃない?」
ある日、そう言って笑った君に、僕は何も言えなかった。
机の上には『古今集』、その上に君の指先が触れていた。
から紅を刷いたような爪の先。
「私はね、あの“龍田川”が好きなの。“水くくる”っていうのが、ただの紅葉の話じゃなくて、心が紅に染まるようで、どうしようもなく愛しいの」
そのとき、はじめて思ったんだ。
君の想いの先に、もし誰かがいるのなら、それはどうか僕であってほしいと。
けれどその願いを口にすることは、とうとうなかった。
君は卒業して、遠くの大学へ進んだ。
最後の日、僕は何も言えず、ただ一冊の文集に、あの歌を書き写して手渡した。
「覚えておいて」とも、「思い出にして」とも言えなかった。
ただ、「この言葉を、君の中で染めてほしい」と願っただけ。
あれから六年。
季節は何度も巡り、けれど僕の中の時間は秋のまま、止まっていた。
夕暮れの図書館に、彼女はふいに現れた。
風の音も、空調の音も、一瞬で遠のいた。
「……来てしまった」
その一言で、僕は全てを思い出した。声の音、瞳の動き、言葉の熱。
「ずっと、考えてたの。あの日の文集。最後のページに書かれてた歌」
彼女の声は少しだけ低くなっていて、大人の影をまとっていた。けれどあの時と同じ、決して飾らない真っ直ぐさを含んでいた。
「“神代もきかず”って、どういう意味だったか、あのときすぐに聞けばよかった。あれから何年も経って、自分なりに読み返して、ようやく気づいたの」
彼女は微笑んだ。少しだけ、泣きそうな顔で。
「“たとえ神様がなんと言おうと、私は聞き入れない”。あの紅葉のように、私の恋は色褪せない。それって、あなたの気持ちだったんだね」
僕は、頷くことしかできなかった。
その沈黙の中で、彼女がそっと問いかけた。
「あなたの心は、今も紅葉のまま?」
窓の外を見ると、街路樹がちょうど色づきはじめていた。風が一枚の葉をさらい、空に舞い上がる。
「いや、違うよ」
彼女の眉が、わずかに動いた。
「紅葉は、散る。でもこの想いは、流れない。水のように染められたまま、ずっと澄んでる。時間を越えても、沈まずにいる」
彼女は目を伏せた。涙が頬を伝う音が、聞こえた気がした。
「六年前、私は自分に自信がなかった。あなたの気持ちを、信じるのが怖かった」
彼女の声が、震えていた。
「でも今なら言える。あの歌が、あの文集が、私を今も連れ戻してくれた」
彼女が手を差し出した。白く、細く、それでも確かな意志の宿る指先だった。
僕はそっとその手を取る。
「今なら信じられる。あなたの心が、今も紅に染まっていることを」
空はすっかり茜に染まり、図書館の窓に光が溶けていた。
まるで、龍田川に浮かぶ紅葉のように。
神様の時代にはなかったかもしれない。でも、僕たちは今、確かにここにいる。
時を越え、心を結びながら。
水くくるとは。
たとえ神々が否定しても。
僕は君を思い続ける。