47. レオン VS 魔獣 ②
―― 地上 都市郊外 ――
~ レイン視点 ~
結界の中に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。速い。そう認識した時には、すでに遅かった。地面が爆ぜる音と同時に、黒い影が視界を横切る。反射的に体をひねらなければ、首が消えていた。
「……っ!」
背後を衝撃が薙ぎ払い、草原が抉れ飛ぶ。五メートル級の巨体とは思えない速度。いや、レズマの身体強化を超えている。
(速さも、重さも……規格外だ)
魔獣は獣の形をしているが、動きは獣ではない。獲物をいたぶるように、距離を詰めては離し、次の瞬間には別角度から襲いかかってくる。僕は剣を構え、後退しながら動きを追った。
魔獣を観察する。無駄な斬撃は通じない。なら、まずは見極める。魔獣が再び跳ぶ。影が、僕の頭上を覆った。踏み込み、斜め下から斬り上げる。
「――っ!」
確かな手応えがあった、はずだった。金属同士がぶつかるような音が響き、剣が弾かれた。刃が、魔獣の表皮で完全に止められている。
(……斬れない?)
魔獣は怯みもしない。そのまま腕を振り下ろしてくる。僕は転がるように距離を取る。地面が砕け、砂と土が宙を舞った。
(物理防御も異常だ……)
僕は即座に詠唱に入った。
「――第5階魔術《雷衝撃》!」
騎士団長から頂いた宝珠を使い魔術を使う。雷光が迸り、魔獣の胴体を直撃する。衝撃波が広がり、土煙が上がった。煙の中から、平然とした魔獣の姿が現れる。焦げ跡すらない。
「……効かない、のか」
喉が、ひくりと鳴った。第5階魔術。人間が扱える攻撃魔術としては、最高位に近い。それが、まるで意味を成していない。
魔獣の動きが、一瞬止まった。次の瞬間。世界が、歪んだ。
「……っ!?」
音が遠のく。視界が暗転し、別の光景が重なって見えた。戦場。血の匂い。倒れ伏す兵士。僕が、斬った相手。
「……やめろ……」
耳元で、誰かの声がする。
『英雄様……どうして……』
剣を持った自分の手が、赤く染まっている。逃げ場のない目で、こちらを見る男。家族のために戦った騎士。胸が、締め付けられる。
「違う……俺は……」
頭が痛い。思考が、絡め取られる。
『戦争を止めたかった?』
『それなのに、何人殺した?』
声が重なる。視界に、次々と嫌な記憶が浮かぶ。補給基地で倒れた敵兵。死に際の呻き声。レズマの仲間が、目の前で斬り伏せられた瞬間。
「……っ、あああ……!」
膝が、崩れた。体が重い。剣が、やけに遠い。魔獣の影が、近づいてくるのが分かる。
(まずい……このままじゃ……)
現実に引き戻される。魔獣が、すぐ目の前まで迫っていた。
「――っ!!」
反射的に剣を構える。体が、勝手に動いた。斬る。しかし、剣筋が、乱れている。踏み込みが浅い。重心が定まらない。
(集中しろ……!)
もう一撃。だが、魔獣は簡単にかわし、逆に僕を吹き飛ばした。
「がっ……!」
地面を転がる。衝撃で、息が詰まる。立ち上がろうとするが、足がもつれる。心が乱れている。さっきまで見えていたはずの動きが、ぼやけている。判断が、遅れる。魔獣が再び、構えた。その姿が、一瞬、人の形に見えた。僕が殺した、誰かの顔に。
「……っ、くそ……!」
剣を握る手が、震える。僕の攻撃は、明らかに悪くなっていた。迷い。恐怖。後悔。それらすべてが、刃を鈍らせていく。魔獣は、それを理解しているかのように、ゆっくりと距離を詰めてきた。
心を、削るために。僕は、歯を食いしばりながら、剣を構え直した。
(まだだ……)
ふと、別の記憶が浮かんだ。酒場で笑っていたカイル。剣を握る僕を、黙って見守っていた師匠の背中。演説の後、泣きながら礼を言ってきた平民の顔。魔獣の声が、怒気を帯びる。
『逃げるのか?』
違う。逃げたいんじゃない。背負っているだけだ。僕は、震える手で剣を握り直した。苦しい。痛い。忘れたい。それでも。
(全部、俺が選んだ道だ)
魔獣の精神圧が、さらに強くなる。頭が割れそうだ。だが、僕は歯を食いしばる。苦しみが、完全に消えることはない。けれど、それを抱えたまま、立つことはできる。
視界が、少しずつ現実に戻っていく。魔獣の動きが、わずかに鈍った。僕が、絶望しきらなかったことで動揺したのかもしれない。
この戦いは、終わっていない。僕は、血の味を噛みしめながら、再び魔獣を見据えた。
~ ツバイ視点 ~
結界の外は、異様な静けさに包まれていた。音は届かない。衝撃も、魔術の余波も、この場には一切流れ出てこない。それでも、中で起きていることの“異常さ”だけは、誰の目にも明らかだった。
「……おかしい」
最初にそう呟いたのは、カイルだった。彼は結界の向こうで戦うレオンを、食い入るように見つめている。剣を握る手に、力が入りすぎて白くなっていた。
「レオンの動きが……鈍い」
それは、誰もが感じていた違和感だった。あのレオンだ。レズマへと至り、戦場を駆け抜け、王族すら認めた剣士。速さも、判断も、経験も、すべてが一流。
今のレオンは、明らかに“遅れて”いる。一撃一撃は、まだ正確だ。回避も、最低限はできている。だが、致命的な一瞬が、確実に増えている。
周囲にいる国の重鎮たちも、同じ違和感を覚えていた。
「確かに……」
「剣筋が乱れている」
「集中を欠いているように見えるな……」
彼らは戦場を知る者たちだ。剣の理を理解している。だからこそ分かる。今のレオンは、実力を発揮できていない。
王族の一人が、焦燥を隠さずに声を上げる。
「先ほどまで、あれほど冷静だった男が……なぜ、あの魔獣相手に押されている?怪我をしているようには見えぬ!マナ切れでもない!なら、なぜだ!」
答えは、すでに分かっている。だが、彼らには分からない。レオンが、剣で負けているのではないことを。力で上回られているだけではないことを。
(……来たか)
私は、結界の内側を見つめながら、小さく息を吐いた。魔獣が、動かないまま。それでいて、レオンだけが苦しんでいる。心が、削られている。
「皆、落ち着きなさい」
澄んだ声が、場に響いた。天使だ。白翼を静かに揺らしながら、天使は結界の前へと進み出る。その表情は、厳しく、だがどこか哀れみを含んでいた。
「今、あなた方が見ているのは、肉体の敗北ではありません」
「……どういう意味でしょうか?」
王が、険しい顔で問いかける。天使は、結界の中で膝をつくレオンを見つめ、静かに告げた。
「皆さんが見ているのは、レオンの“体の動き”だけ。ですが今、彼が戦っているのは心です」
一瞬、理解が追いつかない沈黙。
「心……?」
重鎮の一人が、眉をひそめる。天使は頷いた。
「結界内の魔獣は、精神攻撃を行っています。幻覚、幻聴、記憶の再生。人の心に刻まれた“最も弱い部分”を直接攻める力です」
ざわり、と空気が揺れた。
「そ、そんな攻撃が……」
「では、レオンは今……」
天使は目を伏せ、静かに続ける。
「戦争で見た光景。殺した相手の顔。守れなかった命。それらすべてを、魔獣は見せています」
あの魔獣は、エンリが作り出した傑作生物だ。単なる幻ではない。
感情共鳴型精神侵食。
相手の心にある感情を拾い上げ、増幅し、現実よりも現実らしく見せる。
カイルが、声を絞り出す。
「レオンは、過去と戦わされている……?」
「はい」
天使は、否定しなかった。
「剣を振るっているのは肉体。しかし、剣を鈍らせているのは、迷い、恐怖、後悔です」
結界の内側で、レオンがよろめく。それを見た瞬間、カイルが一歩前に出た。
「助けに――!」
「なりません」
天使の声は、厳しかった。
「この試練に、外部からの介入は許されていません」
それは、俺が決めたルールだ。カイルは歯を食いしばり、拳を震わせる。
「……そんな……」
俺は、彼の背中を見つめながら、心の中で呟いた。
(すまないな)
だが、これは必要な試練だ。剣の才だけなら、レオンはすでに英雄だ。力だけなら、王族すら凌ぐ。しかし、心を制せなければ、オーブマにはなれない。天使が、最後にこう告げた。
「今、レオンの剣が鈍っているのは、弱いからではありません」
彼女は、結界の中のレオンを真っ直ぐに見つめる。
「優しいからです。命の重さを知っているからです」
それは、呪いでもあり、同時に彼が英雄である理由でもある。
俺は、誰にも聞こえぬ声で語りかけた。
(その優しさを、捨てるな。だが、縛られるな)
結界の内側で、魔獣が、再び牙を剥く。カイルが、息を呑んだ。
「……そんな……」
彼は、レオンの優しい性格を思い出しているのだろう。戦争の敵兵にも悲しい感情を表し、戦場で見た光景を、忘れられずにいることを。
結界の中で、魔獣が一歩、前に出る。それだけで、レオンの肩が跳ねた。見えない刃。だが、確実に致命的。
「……そんなものに……人が、勝てるのか……?」
誰かが、弱々しく呟いた。俺は、その言葉を聞きながら、胸の奥で答えていた。
(勝てるかどうか、ではない)
これは、乗り越えられるかどうかの試練だ。剣の才でも、マナでもない。英雄と呼ばれたことでもない。
自分が歩んできた道を、それでも肯定できるか。天使は、結界を見つめたまま、静かに言った。
「今、彼を救えるのは、彼自身だけです」
カイルは、拳を強く握りしめ、結界の向こうを睨みつけた。
「……負けるなよ、レオン」




