34.兵法
―― 地上 戦場の草原 ――
草原は、静かすぎるほど静かだった。
風が背の高い草を撫で、ざわり、ざわりと波のように揺らしている。その音だけが、この場に残された最後の平穏だった。
もうすぐ、始まる。
私は禁忌国家の兵士として、前線の一角に立っていた。
黒の重装鎧。くすんだ鉄色に、傷を誤魔化すための煤を塗り、顔には魔術で作った無精髭。鏡を見れば、そこにいるのは神でも英雄でもない、中年の古参兵だ。
「……悪くない出来だな」
小さく呟き、兜の奥で息を吐く。
気配も力も抑えている。今の私は、少し腕の立つ“おっさん兵士”にすぎない。
視線の先、丘の上では、私の部下であるエンリが指揮を執っていた。
地図と旗を手に、次々と命令を飛ばしている。
「第三槍兵隊、左翼に前進。間隔は三歩分、詰めすぎないで」
「弓兵はまだ撃たないでください。敵が動いた“後”です」
「騎兵、私の合図まで絶対に出ないこと。焦った方が負けます」
声は冷静で、淀みがない。リフコの精神魔法で軍は、エンリが自軍のベテラン指揮官と思っているため、完全に彼女の指示に従って動いている。
(……楽しそうだな)
いや、正確には“気になって仕方がない”という顔だ。
自分が考え出した兵法が、本当に実戦で通用するのか。エンリの瞳は、その答えを今まさに確かめようとしていた。
やがて、敵軍が動き出す。弟子レオンが属する国の軍勢だ。整然とした陣形、貴族騎士であるレズマを 中心とした重装部隊。マナを帯びた槍と剣が、草原の光を反射している。
角笛が鳴った。戦争が、始まった。
敵軍は一直線に進軍してくる。こちらの散開陣形を見て、「統率の取れていない烏合の衆」と判断したのだろう。前線の騎士たちが、勢いよく突撃してくる。
「――今です」
エンリの声が、戦場に響いた。
「第三隊、後退。第四隊、右へ展開。マナ反応を――はい、そこです!」
次の瞬間、敵の突撃部隊の足元で、草原が“沈んだ”。
「なっ――!?」
地面が崩れたわけではない。エンリが事前に仕込ませていたのは、微細な重力歪曲と幻覚を組み合わせた魔術陣。敵のマナ探知を逆手に取り、「安全に見える場所」だけを罠にしていたのだ。
騎士たちの隊列が一瞬で乱れる。
「今度は第五隊! 側面から矢を! 狙いは脚です、殺さなくていい!」
雨のように降り注ぐ矢。だがそれは急所を外し、動きを奪うためだけのものだった。
敵軍は混乱する。正面からの力比べになると思っていた戦場で、足を止められ、横から削られ、後方との連携も寸断される。
「……鬼才、だな」
私は思わず呟いた。力で勝てないなら、思考を壊す。それがエンリの兵法だ。
やがて敵軍は、こちらの隙を突くために部隊を分散させ始めた。それを、待っていた。
「第七隊、前へ。神託陣形、実行」
禁忌国家の兵たちが、奇妙な配置で走り出す。円でも楔でもない、歪な陣形。兵士一人一人は弱い。だが“恐怖”と“高揚”という感情を媒介に、疑似的な共鳴を起こしている。人間の感情を、兵器として使う。神である俺ですら、発想としては感心せざるを得ない。戦場の空気が、目に見えて変わった。
敵軍の動きが鈍り、指揮が追いつかなくなる。誰が敵で、どこが安全なのか、わからなくなっていく。
エンリは次々と命令を出し、戦場全体を“一つの生き物”のように動かしていた。
「中央は押しすぎないでください。勝ち急がない」
「敵の焦りを、こちらの糧にします」
俺はその混乱の中、今回の武器である斧を手に取り、黒鎧をきしませ、一歩前に出る。今の私は、ただの強い兵士。名もなきおっさんだ。
「よし……俺も、参加するか」
神としてではない。奇跡も、裁きも使わない。
ただ、戦争というものをこの目で、この肌で、味わうために。




