32.戦争の前日
―― 地上 戦場の拠点 ――
~ レオン視点 ~
軍の拠点に足を踏み入れた瞬間、空気の重さが酒場とはまるで違うと嫌でも思い知らされた。鉄と油と汗の匂い。乾いた土に踏みしめられた無数の足跡。あちこちで聞こえる鎧の擦れる音と、低く抑えた兵士たちの声。
――本当に、戦争が始まるんだ。
師匠である、あの人から「行け」と言われた時、拒むという選択肢はなかった。師匠は別の予定があると言うとどこかに消えていった。胸の奥はざわついたままだ。剣を握る手が、微かに震えているのが自分でもわかる。
「レオン! こっちだ!」
その声に振り向くと、見慣れた青髪が揺れた。カイルだ。
この重苦しい場所にあっても、あいつは相変わらず暑苦しいくらい元気そうだった。
「無事来たな! いやあ、戦場前の拠点ってのは久しぶりだぜ!」
「……久しぶりって言えるのがすごいよ」
僕は苦笑しながら、彼の向かいに腰を下ろした。
簡素な木の机の上には、干し肉と黒パン、それに薄いスープ。
豪華とは程遠いが、兵士にとっては貴重な食事だ。
「初陣か?」
カイルがパンをかじりながら、何でもないように聞いてくる。
「……ああ」
正直に答えると、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「模擬戦や護衛はあったけど……本物の戦争は、初めてだ」
剣を握ってきたはずなのに、命のやり取りを“戦争”という形でするのは、まったく別物だ。人が集団で殺し合う。それを考えるだけで、喉が渇く。
「そっか」
カイルは笑った。だが、その笑みは酒場で見たものより、ほんの少しだけ落ち着いていた。
「俺はな、別の国で傭兵やってた」
「……聞いたことはあるけど」
「砂漠の国でさ。金は良かったが、命は安かった」
スープを一口飲み、彼は続ける。
「初めての戦争ってのはな、怖くて当たり前だ。怖くねえ奴は、長生きしねえ」
その言葉が、妙に胸に残った。周囲では、兵士たちが同じように食事を取りながら、ひそひそと噂話をしている。
「隣国が突然攻めてきたって、本当か?」
「ああ、昨日まで友好国だったのに」
「理由は海だってよ。もう分けてもらってたはずなのに……」
誰もが首を傾げ、納得できない表情をしている。怒りよりも、不安。
敵の意図がわからない戦争ほど、恐ろしいものはない。
耳に入ってくるのは、穏やかではない噂ばかりだった。
「聞いたか? もう国境の村がやられたらしい」
「家畜も穀物も、全部持っていかれたってよ」
「抵抗した村人は……」
それ以上は聞き取れなかった。俺の手から、スプーンがわずかに震え落ちそうになる。
「……本当なのか?」
思わず、カイルに聞いていた。
カイルは笑顔を消し、静かに頷く。
「十中八九な。戦争が始まると、まず村が狙われる。兵士が少なくて、守りやすいから」
心臓が、重く沈んだ。俺は、剣を持つ意味を、間違えていないだろうか。
家族のために戦った騎士を殺した日のことが、脳裏をよぎる。信念があっても、人は死ぬ。守るための剣が、誰かの生活を壊す。
「レオン」
カイルの声で、我に返る。
「顔に出すぎだ。お前、優しすぎる」
「……でも」
僕は言葉を探しながら、拳を握った。
「村を襲われて、何もできなかった人たちがいると思うと……」
「だからだ」
カイルは真っ直ぐ俺を見た。
「だから、俺たちが行く。止めるためにだ」
その言葉は、乱暴なのに、不思議と胸に落ちた。
「なあ、レオン」
カイルが少し真面目な声で言った。
「戦場じゃ、正義だの理由だのは、後からついてくる。だが――」
彼は拳を軽く握る。
「自分が何のために剣を振るうか、それだけは忘れるな」
その言葉に、僕は思わず剣の柄に手を置いた。
信念のため。ゼマロだった頃から、僕が戦ってきた理由だ。
「ありがとう、カイル」
「おう! それにさ――」
彼はにっと笑う。
「俺がついてる。初陣の相棒が英雄級の剣士ってのは、悪くねえだろ?」
緊張で固まっていた胸が、少しだけ軽くなった気がした。周囲の噂話は止まらず、戦争勃発の空気は確実に近づいている。それでも、今この瞬間、俺は仲間と同じ卓を囲み、同じ食事をしている。
戦争は怖い。だが、剣を取る理由は、もう揺らがない。
血が飛び合うこの戦場で、僕は僕の信念を貫く。そう心に誓いながら、黒パンを噛みしめた。




