30.精神魔法
―― 地上 禁忌国家 ――
~ リフコ視点 ~
私は深く息を吸い込んだ。この国の玉座の間に立つと、天井の高い漆黒の梁と金箔の装飾が、まるで私を迎え入れるかのように輝いていた。
禁忌国家の王は理性を持ち、誇りを持ち、隣国に友好的な感情を抱いていた。私の主の弟子がいる国に対して、敵意などまったくない人間だった。
しかし、私の役目は ―― 精神魔法 ―― をかけること。
この魔法は、記憶や精神に関わることならなんでもできる。感情の根本を変え、信念そのものを書き換える。信頼や友情、記憶、愛情さえも、私の手のひらの上で溶かしていくことができる。
魔法は一つの法則だ。事象を強制する理であり、何者であろうと抗うことは許されない。
王はすぐに私に気づいた。深い緑の瞳に驚きと敬愛が混ざり、わずかに身を乗り出す。
「……あなたは、女神様……」
その声には感動が宿っていた。私が誰であるかを知り、そして敬意を示す。だが今の私に必要なのは、彼の敬意ではない。
マナが流れ出すと、王の意識に柔らかく触れる。最初は防御のように壁を作るが、私の力は微細な波紋となり、壁の隙間から忍び込む。
彼の記憶、感情、願望――すべてを軽やかに撫でながら、少しずつ変化させていく。
「王よ、隣国に手を伸ばす時が来ています。彼らを支配し、海を我がものとするのです」
私は静かに告げる。
王は一瞬、うろたえた。眉を寄せ、唇をかむ。
「……その……女神様……私は……その……戦争など……」
最初に触れたのは、隣国への友好的な感情だ。彼らは隣人であり、尊重すべき存在である、その思いを、私の魔法は溶かす。代わりに流れ込むのは、ねじれた欲望。
「奴らは弱い。海を手に入れるためには、滅ぼさねばならぬ」
王の眉がわずかにひそむ。その瞬間、私は心の中でほくそ笑む。表情に出さず、ただ冷静を装う。
次に、私は王の判断力に干渉した。戦争は避けるべきだ”という論理は、魔法の波によってねじ曲げられる。合理的に見える思考のすべてが、隣国を滅ぼす方向に収束する。
目の前の王は、戦争を避けたいと必死に自制している。しかし、私の精神魔法は冷酷だ。悪意は芽生え、ゆっくりと膨らみ、やがて理性の壁を押し上げる。
「……許されぬ……彼らを……。」
小さな声が響き渡る。彼自身の意思のように、だがその言葉は私の作った流れだ。
王の頭の中で、計画が生まれる。港を奪うための策略、外交を装った奇襲、内通者を利用した撹乱。すべて、私が望む通りの方向に向かう。
しかし、これは単なる服従ではない。王自身の感情として芽生えた“敵意”でなければ、計画は脆い。
だから私は、感情を微妙に操作する。彼の胸の奥に、隣国に対する嫉妬や軽蔑、焦燥を少しずつ植え付ける。友情の代わりに、憎悪が根を張る。
目を開いた王の瞳に、わずかな光の変化を見つける。かつての優しさ、温かさ、信頼、すべてが薄れて、冷たい火が灯る。その火は、私が育てたものだ。私の主の計画を成就させるための炎。
王は震える手で書類に触れる。外交書簡、交易契約、守備計画、どれもが、今後の侵略を正当化する言葉に書き換えられる。そして、王自身はそれが自分の意思であると思うだろう。
まさに精神魔法の妙技だ。操るのではない、信念そのものを書き換えるのだ。
私は息を整え、精神魔法を切った。王は肩をすくめ、微かに笑う。
その笑みには、かつての温もりはない。代わりに、冷酷な計算が宿っていた。
「……我が国の隣国は、滅ぼさねばならぬ。……女神様。必ず隣国を滅ぼし、海を手に入れます。」
その声は、低く、確固としていた。言葉の端々に、かつて存在した友情や信頼は影も形もない。すべては魔法によって書き換えられた。
私は静かに部屋を後にした。廊下の影の中で振り返ることもなく、足音を立てずに消えていく。
国の中枢人物は他にもいるから行動する。だが、冷たい満足感が私を満たす。
任務が終わり外に出れば、夜風が頬を撫でる。月光が海を照らし、弟子の国の港が遠くに見える。
かつては友好的な笑顔で向き合っていた両国の国王たちも、今や対立の道を歩む運命にある。
私は知っている。これから戦争が起きる。弟子が戦場に立つ。
魔術を作り、海を欲する王も、すべてが動き出す。
神の命令のもと、私は手を貸した。だが、運命の結末を見届けるのは、私ではない。
人間である王、そして戦場に立つ弟子。彼ら自身の意志の中で、未来は決まる。
深く息をつき、私は夜の闇に溶けた。冷たい海風の匂いが、心地よくも危険な予感を運ぶ。
この国は、そして隣国は、もう元には戻れない。
私は女神として、主の計画のために静かに微笑んだ。




