26.騎士の暴走
―― 地上 エル家邸 ――
密談は、結局のところ決着と呼べるものには至らなかった。水は流れ続け、言葉だけが宙に残った。
私はそれを当然だと受け止めていた。人は、話し合いだけで生き方を変えられるほど、賢くも、強くもない。だからこそ、私は剣を教え、試練を与え、あえて見守る立場に身を置いている。
だが、見守ることと、見逃すことは違う。
夜中、都市の空気が歪んだ。運河の水音が、どこか不自然に静まる。人間には決して気づけない程度の変化。だが神である私には、それが「意志の暴走」であると 即座に理解できた。
ザヘル家の騎士が一人、命令も許可もなく動いた。名はサリム。レオンと酒場で ケンカになりそうになった男だった。忠誠心が厚く、剣より槍が武器で、腕も中の上。だが、それ以上に、家族を背負った男だった。
水権が失われれば、村は枯れる。村が枯れれば、家族は死ぬ。ならば、貴族一人の命で救えるのなら。
そこに理屈はあった。そして、覚悟もあった。
サリムは夜の貴族邸に忍び込んだ。音を殺し、灯りを避け、影の中を進む。彼は 暗殺者ではなかったが、騎士として学んだ“戦場で生き残る技”を、初めて別の用途に使った。
最初に喉を裂かれたのは門番。次は回廊の巡回兵。槍は一度も鳴らず、悲鳴も上がらない。
使用人もまた、例外ではなかった。見張りを兼ねた老僕が、背後から口を塞がれ、床に崩れる。血は流れたが、騎士の足取りは止まらない。
彼は自分の正義ためにひたすら進んでいた。
そして、その廊下の先で、レオンと鉢合わせになった。
私は、その瞬間を見ていた。人の目ではなく、神としての視座で。
レオンは、血の匂いを感じ取った瞬間に理解した。これは訓練でも、偶然でもない。殺意が、邸内を満たしている。
月明かりに照らされた廊下で、二人は向かい合った。
サリムの槍には、まだ温かい血が滴っていた。レオンの剣は、鞘に収まったままだった。
「お前は酒場のときの……どけ。……俺は、当主を殺す。そうしなければ、俺の家族が死ぬ」
騎士が言った声は、震えていなかった。
レオンは即答しなかった。その沈黙に、私はわずかな成長を見た。彼は感情で剣を抜かない。だが、理屈だけで引くこともしない。
「その先に、何があるんですか」
レオンの問いは、責めでも脅しでもなかった。
「水が手に入る」
「一時的です」
「それでいい」
サリムの瞳は、覚悟に満ちていた。逃げ道を失い、戻る場所もない者の目だ。
レオンは一歩、前に出た。剣の柄に、そっと指をかける。
私は、その仕草を見て胸の奥がわずかに軋むのを感じた。
レオンは、これまで剣を“技”として振るってきた。自衛のため、誰かを守るため。
だが今、彼が向き合っているのは、「殺さなければ止められない相手」だ。
「当主を殺せば、水争いは戦争になります」
レオンは静かに言った。
「もっと多くの家族が死にます」
「それでもだ!」
騎士が吼えた。
「俺の家族は、今ここにいない!」
理屈は、もう通じない。レオンも、それを悟った。
彼は深く息を吸い、そして吐いた。剣を抜く音が、夜の邸内に初めて響いた。
その音は、宣言だった。これより先は、言葉では止まらない。
レオンの背中が、わずかに震えた。恐怖ではない。覚悟が、身体に馴染んでいく震えだ。それが、私が彼に与えた試練だからだ。
だが同時に、私は全てを見届ける。彼が剣を振るう理由。彼が選ぶ距離。彼が、命をどう扱うのか。
廊下の空気が張り詰め、二人の間に、見えない運河が引かれた。
血か、水か。奪うか、守るか。
レオンは剣を正眼に構え、はっきりと告げた。
「ここは通さない。それが、僕の選んだ戦いです」
その言葉を聞いた瞬間、私は確信した。彼はもう、ただの才能ある剣士ではない。
自らの意志で、運命と斬り結ぶ者になったのだ、と。




