20.城のメイド
―― 空中都市 中央城の内部 ――
その日、私たち姉妹は雲の上にそびえる城門の前に立っていた。怖よりも先に、畏怖が胸を満たした。ここは人のための場所ではない。神が住まう城。その事実だけで、膝が震えそうになる。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん」
私の袖を、そっと引く感触。隣を歩く妹のフィアが、小さく微笑んだ。彼女は昔からそうだ。私が不安になる前に、心の奥を覗き込んで、先回りして言葉をくれる。
妹には、人の心を読む力がある。私が不治の病がある妹の治療を天使様に懇願したことをきっかけで、天使様に見出され、そして今日、私たち姉妹は“選ばれた”。神の城で、メイドとして働くために。
「……ありがとう。でも、無理はしないで。ここにいる人たちの心は、きっと重いわ」
そう言うと、フィアは少しだけ困ったように笑った。
「うん。でもね……この城の人たち、みんな静かだよ。怖いけど、悪意はない」
それが、どれほど異常なことなのか。その時の私は、まだ理解していなかった。
私たちを迎えたのは、一人の天使だった。背に純白の翼を持ち、長い銀髪を揺らすその姿は、絵画から抜け出したように美しい。けれど、その瞳は冷静で、どこか人間を一歩引いた場所から見下ろしている。
「ようこそ、神の城へ。私は天使のセラフィエル。今日から、あなたたちの案内役を務めます」
その声は澄んでいて、感情の揺らぎがほとんどない。
「姉のアリアです。こちらは妹のフィア。……本日から、よろしくお願いいたします」
深く頭を下げると、セラフィエルはわずかに頷いた。
「礼儀は十分です。ですが、ここでは過度な緊張は不要。神は、忠誠よりも誠実さを好まれます」
そう言って、彼女は歩き出した。私たちは慌てて後を追う。
「心配はいりません。あなた方は選ばれてここに来たのです。誇りを持ちなさい」
その声は鈴の音のように澄んでいて、聞くだけで胸の奥が温かくなる。不思議と、震えていた足の感覚が薄れていった。
「では、まず城の構造から説明しましょう」
セラフィエル様の案内で、私たちは大回廊へと足を踏み入れた。天井は遥か高く、壁には神話を描いたステンドグラスが連なっている。描かれているのは、神が世界を創り、天使たちと共に人々を導く光景だった。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
「この城は神の力によって常に最適な状態を保っています。掃除や修復は最低限で構いませんが、それでも“人の手”が必要な場所は存在します」
セラフィエル様はそう言って、私たちを一つ一つの区画へと案内していった。
食堂。
礼拝堂。
書庫。
特に書庫は圧巻だった。天井まで積み上がる書架には、見たこともない文字で記された書物が無数に並んでいる。
「これらは世界の理、歴史、を記したものです。許可なく読むことは禁止されていますが、整理と保管はあなた方の仕事になります」
「……世界の理、ですか」
思わず呟くと、セラフィエル様は微笑を深めた。
「好奇心は悪ではありません。しかし、この城では節度が大切です。」
フィアが慌てて私の袖を引く。――しまった、と思ったが、叱責されなかったことに少し安堵した。
案内の途中で突然、フィアが急に立ち止まり、胸元を押さえた。指先が震えている。顔色は、紙のように白かった。
「っ……お姉ちゃん……」
「どうしたの? 気分が悪いなら――」
「ちがう……聞こえる……!」
その言葉に、私の心臓が跳ねた。
「聞こえる、って……何が?」
妹は答えなかった。いや、答えられなかったのだと思う。瞳が虚空を彷徨い、焦点が合っていない。まるで、ここではないどこかを“見て”いるようだった。
セラフィエルが、すっと振り返る。
「……聞こえてしまいましたか」
その声は低く、どこか諦観を含んでいた。
「この城の最下層である“悔悟の牢”。そこの真上を今、通過しています」
悔悟――その言葉が、やけに優しく聞こえて、私は寒気を覚えた。
「フィア、何が聞こえてるの……?」
妹は、唇を震わせながら、ようやく言葉を絞り出した。
「……叫んでる……ずっと……終わらない……」
ぎゅっと、私の袖を掴む力が強まる。
「助けてって……許してって……でも……」
フィアの声が、涙で歪む。
「自分が何をしたのか、分かってる……それでも……それでも、叫ぶのをやめない……!」
「あなた方が住んでいた都市が愚かな王が原因で滅んだことは知っていますね。 その愚かな王が死ぬ事も許されない永遠の拷問を受けています。」
その言葉の裏に、どれほどの罪が積み重なっているのか。想像するだけで、胸が 苦しくなる。
「彼は死を望みました。しかし、神はそれを許されなかった」
セラフィエルの足音が、回廊に静かに響く。
「死は、逃げ道だからです」
私は、思わず妹を抱き寄せた。
「フィア……聞かなくていい。無理に受け取らなくていいのよ……!」
「でも……聞こえちゃう……!」
「聞こえてしまうなら仕方ないですね。悔悟の牢には特殊な結界を作るので、今後は聞こえないようにします。」
次に案内されたのは、神の私室へと続く回廊だった。白い扉の前で、セラフィエル様は足を止める。
「この先は、神が在室の際には立ち入り禁止です。清掃や準備は、私か別の天使の指示があるときのみ行います」
扉の向こうから、圧倒的な“存在感”を感じる。姿は見えなくとも、確かにそこに神がいる――そんな感覚に、思わず背筋が伸びた。
「神様は……お優しい方なのでしょうか」
妹が恐る恐る尋ねる。
「ええ。ですが、厳しさも併せ持っています。それは世界を守るための責任ゆえです」
その言葉に、私は胸の奥がきゅっと締め付けられた。
神とは、ただ崇められる存在ではない。背負っているものの重さを、ほんの少しだけ理解した気がした。
仕事の説明は続く。
私たち姉妹は基本的に、生活区画の清掃、備品管理、来訪者といっても、ほとんどは天使への対応を任されるという。
「互いに助け合いなさい。姉妹であることは、この城では強みになります」
セラフィエル様のその言葉に、私は妹の顔を見た。
不安そうだったフィアの表情は、いつの間にか少し誇らしげになっている。
「……私、頑張る」
「ええ。一緒にね」
城の最上階、バルコニーへ出ると、雲海の向こうに広がる世界が一望できた。
私たちが生きてきた地上は、遥か下にある。
「ここで働くということは、世界の一部を支えるということでもあります」
セラフィエル様の背中を見つめながら、私は深く息を吸った。
信者として祈るだけだった私が、神の城で、神に仕える仕事をする。畏れもある。責任も重い。
「この場所で、私は何かを学び、何かを守れる人間になりたい」
それが、姉として、信者として、そして一人の人間としての、私の誓いだった。
妹が隣で小さく頷く。
雲の彼方から差し込む光が、私たち姉妹を優しく包み込んでいた。
神の城での私たちの生活は、静かに、しかし確かに始まったのだった。




