この世界の危機
黒いモヤの向こうから低い声が聞こえてきた瞬間、心臓が鷲掴みにされたかのような感覚に襲われて冷や汗が噴き出した。
「所詮失敗作だったが……それでもこれほど使えないとは」
声に続いて見えたのは巨大な目だった。黒いモヤの奥から現れた一切の光が見えない眼球は視線をゆっくりと俺とアマノリリスさんに向けた。それだけで息が出来なくなる。息苦しくなっていくがそれでも呼吸のために動作が出来ない。普段何気なく行っている行為が出来ない。
こいつがアマノリリスの言っていた魔王だ。
実際に対面した今だからこそアマノリリスが言っていた勝つことが想像できないという意味が分かる。分かってしまう。巨大な姿や絶大な力を見せられたわけでもないのに分かってしまった。こいつには勝てない。
抗おうという気持ちすら湧いてこないほどの重圧が全ての気力を奪い去っていく。
アマノリリスはこいつと対面してそれでも世界を救おうとしていたのか。この状況になって初めてアマノリリスの、女神としての心の強さを本当に実感する。
「女神よ、戻ってきてもらうぞ。貴様には自らの世界の終わりを見てもらわねばならぬ」
魔王がこの世界へ現れようとしているのか眼球を中心にした左右から黒いモヤが腕のように伸びてきた。狙いはアマノリリスであることは分かっている。そのアマノリリスは怯えて動けずにいる。俺は彼女を守らないといけない。
なのに動けない。何も出来ない。
結局こうなるのか。前と同じでただ連れていかれるのを見ているだけしか出来ない。
あの後悔をまたするのか。あの喪失感をまた味わうのか。嫌だ嫌だと動かない体の中で心が騒ぐ。
当時何も出来なかった子供の俺を周囲は仕方なかったと慰めてくれたがそれが余計に辛かった。責めてくれた方が良かった。どうしようもなかったから仕方ないと諦めてほしくなかった。
何か出来たはずだと俺自身がずっと思っていたのだから。
だから、今も何か出来るはずだ。
俺は出来るはずだ。
「!?」
気が付くと左拳を殴るように突き出していた。能力を使ったかどうかは分からない。ただ抗うように拳を突き出していた。腕が動いたことで呼吸もできるようになり慌てては肺に空気を送り込む。
これからどうする。立ち上がり戦うか。多少アマノリリスが治療してくれたとはいえ戦える状態じゃないのは分かっている。それでも立ち上がるか。
浮かんでくる弱気になりそうな想いを奥歯を強く噛み潰して立ち上がる。
「彼女は……渡さない」
俺を見据える魔王の眼球が笑うかのように細くなった。
「面白い。この魔王を前にして立ち向かおうとする者がいるとは実に面白い」
声が発せられるだけで頭の上から押さえつけられるような重圧があり倒れそうになる。
「面白いがそれ以上に不快だ」
空気が凍った。視界から色が消えた。平行感覚が曖昧になり気持ち悪さで吐き気が込み上げてきた。
魔王が少し機嫌を悪くしただけで俺の五感が狂うほどの何かに襲われた。おそらく攻撃ではない。魔王にとって息を吐いたとかそんな程度のことで危うく戦闘不能になりかける。
「不快であるがゆえにこの世界を先に滅ぼそう」
「!?」
『原因不明の高負荷により隔離空間崩壊します』
サリーの言葉が終わるより早く隔離空間が消し飛んだ。今まで聞こえてこなかった外からの音に元の空間に戻されたのだと実感し、これから起こりうる恐怖に対して声が出る。
「やめろぉぉっ!」
肩に力が入らないのでただ腕を回しただけのような拳を放つ。能力で狙ったのは目立っていた目だ。だが、能力は確かに使ったはずなのに当たったという感覚がなかった。見えているのだから打撃が届かない距離ではない。
俺を無視している魔王の目はその視線を街の方へと向けた。
「建物が多いな、それに人も沢山いるようだ……これは滅ぼしがいがある」
「やめろって言ってるだろ!」
再度叫ぶが魔王から反応はない。俺が事の発端であるはずなのに既に俺への興味はなく、この世界をどう滅ぼすかへ意識を向けている。切迫した状況になんとかしなくてはと気持ちが焦る。奥歯を食いしばり足を前へと出して少しでも魔王との距離を縮める。
『乾斗様、接近は危険です。いえ、近づかなくとも危険です』
インカムから聞こえるサリーの警告には従えない。今、この場にいるのは俺だけなのだから。少しでも時間を稼がないといけない。この魔王に勝てる誰かが来るまで魔王に何一つ手出しせるわけにはいかない。
全身を前に出すようにして拳を突き出す。バランスが取れずに体勢が崩れるが何が何でも殴ってやると視線だけは魔王を見続けた。しかし、先ほどと同様で見えているはずなのに拳が当たった感触はない。
だがこれしか手がないとがむしゃらに殴りつける動作を繰り返す。左側へ倒れそうになると右腕で拳を突き出して体勢を無理やり戻す。一発でいい。魔王の注意を俺に向けさせられればいい。
「当たれっ!」
強く言葉と共に殴りつけると何かが拳に当たった感触が伝わる。当たったのかと思っていると魔王の視線がゆっくりと俺へ向けられた。
「貴様……本当に僅かではあるがこの魔王に触れたな」
「次はもっとちゃんと殴ってやるよ」
正直もう一度肩が持ち上がるか分からない状況だが、挑発を言うくらいはまだ出来た。
「……よかろう、貴様から滅ぼそう」
腕のように伸びた黒いモヤが俺の方へ向かってくる。反撃しようにも逃げようにも立っているだけで精一杯で動けそうにない。
「乾斗さんっ!」
アマノリリスに名前を叫ばれる。
そういえばアマノリリスを逃がさないといけなかった。今から逃げるように言って間に合うか。いや、それ以前に彼女が素直に逃げるような子じゃない。
どうするか。彼女を守るのが仕事だからそれは果たさないといけないが……。
考え事をしている内に黒いモヤが目の前に迫っていて視界が真っ黒に染められた。
「はい、そこまでっ!」
やけにハツラツとした男性の声が聞こえた。
いったいいつ現れたのか気が付いた時には目の前に赤いジャージを着た誰かが立っていた。
「危ないところだった。最近出番があったばかりだろうに……頻度が増えてないか」
身長が俺よりも高く、体格もいい短髪の男性は呆れたようにため息をついた。
誰だろう。A級、もしくはS級の誰かだろうか。ともかく救援に来てくれたことは嬉しい。知っている人かと顔を見るが顔の部分がぼやけて見えて分からなかった。
疲れのせいかと目を閉じようとして異常に気付いた。瞼が動かない。瞼だけでじゃない。腕も足も指先一つですら動かせない。俺が金縛りのような術にかかったのかと思ったがそうではないと見える風景で気付く。雲や木々、待っている木の葉ですら時が止まっているかのようにその場に静止していた。
「おや、君は俺の事が認識できるようだね。どうしてだい?」
顔が認識できない男性は俺を覗き込むかのように顔を近づけてくる。
「女神の血族か」
今まで男性だった声が突然女性の声に変わる。姿も赤いジャージはそのままだが髪がいつのまにか長髪になっていて、顔は認識できないが先ほどよりも輪郭が女性ぽくなっている気がした。
「だとしても私を認識するには足りないと思うけど……ちょっと不思議ね」
言葉通り不思議そうに首を傾げる謎の人物の背後で今まで静止していた黒いモヤがゆっくりと動き出した。
「お、おのれ、いったい何者だぁ!」
「さすがは異世界の魔王。私の領域に入ってこれるとはすごいすごい」
聞こえる魔王の声に先ほどまでの高慢で畏怖を与える力は感じない。逆に怯えているようにすら感じた。
「いつ現れた! どこから! この魔王に気付かれずなど許されない!」
「君に許してもらう必要はないけど……まあ一つだけ答えようか。いつから居たか? 最初からだよ。ここに来るのは少し遅れたけどね」
言っていることが矛盾している。だが、不思議と嘘を言っているとは思えなかった。初めて会ったはずなのに何故か俺はこの謎の人物に信頼を向けていた。
「よく分からぬことを。まあいい、どうせこの世界は滅ぼすのだ。滅ぼしてしまえば全て関係なくなる」
「そうだね、関係なくなるね。いなくなるのはあんたの方だけど」
「何?」
「じゃあ、私も忙しいからバイバイ」
謎の人物が軽い口調で別れの挨拶を言いながら手を一度合わせた。
「な、ななななんっ!」
黒いモヤが左右から何かに押しつぶされるように収束していくと魔王の驚愕する声ごと押しつぶして消えてしまった。
「……」
何が起こったか何一つとして理解できない。
この人は何をした? 魔王はどこへ行った? 魔王に何をした?
「かくして世界の平和は守られましたと。では、俺は行くよ。君は引き続きこの世界のために頑張ってくれたまえ」
再び男性の声に戻った謎の人物はその姿を風景に溶かして消えていった。
謎の人物が完全に姿を消すと体の拘束が急に解かれて俺はその場に倒れこむ。冷や汗が一気にあふれ出して止まっていた時間分を取り戻すかのように心臓が激しく動悸する。
「乾斗さんっ! 乾斗さんっ!」
『乾斗様、バイタルが非常に不安定です。内臓している薬品では補うのが困難となっております。呼吸を落ち着かせ、手足から力を抜いてください』
今まで聞こえていなかったアマノリリスとサリーの声がどこか遠くで叫んでいるように響く中、俺の意識は途切れた。
まさかの一話退場である。
次回一章の最終話予定です。




