最終章 あの暑い夏の陽に
1980年代。夏。北海道ツーリング
旅人たちの物語もこれで完結です。
本作品のタイトルは「暑い」「夏」「陽」という「言葉の三段重ねやないかい!」と突っ込まれそうですが、作者の意図するねらいは、この章のラスト数行(と冒頭部分)によるものです。しかし、お読みいただいた方それぞれに、自由な発想で想っていただければ幸いです。
それでは、最終章。お楽しみください!
辺りは、すっかり暗くなっていた。
風も冷たく感じる。
ふたりは草の上に腰を下ろしたまま、ずいぶん時間がたつ。千賀子は落ち着いたようで、もう泣いてはいない。長いこと、ふたりとも沈黙していたが、小さな声で千賀子が言った。
「ねえ、貴志くん」
「うん?」
「あたたかいね、貴志くんは・・・」
「寒いから、いいだろ?あたたかいのが」
「うん。今風が寒いから人の温もりっていい感じ・・・」
「ああ」
「棺の中の淳はね、それはもう信じられないくらい冷たかったよ」
「千賀子・・・」
「あ、ごめん。でも、もう平気だよ。泣くだけ泣いたし、ここに来ることができて気持ちの整理もついたし」
そう言いながら千賀子は、驚くくらいの柔らかさで体をよじり僕の方に振り返って笑った。そして、再び背中を向けて座りこみ、僕にもたれかかってきた。
「今日は貴志くんが一緒にいてくれてよかった」
「何で?」
「ひとりでここに来てたら気が動転してどうなったかわからないよ、私」
「そうかな?」
「そうだよ、きっと。ここにひとりで来たらきっと泣いちゃうだろうなってずっと思ってたもん。ほんとうに泣いちゃったし」
「うん」
「やっぱりひとりよりふたりの方が心強いなあ」
「ああ」
「ね、貴志くん、これからもずっと一緒にいてくれる?」
いきなり千賀子は落ち着いた真剣な口調で聞いてきた。僕は質問の意味が分からずに瞬間迷った。現実に僕らの地元は九州と東京なのだ。でも、ここはきっぱりと了解の意志を伝えないといけない。現実はどうあれ、これは心の問題なのだ。千賀子の心の十字架をとりのぞくためにも、はっきり言った方がいいはずだ。
「さっき言っただろ。僕は千賀子のことが好きだから何があっても一緒にいたいって」
「泣き虫でわがままで甘えん坊だよ、私。それでもいい?」
「何回でも言うよ。俺は千賀子のことが好きだ。初めてすれ違った時から好きだったよ」
「ほんとう?」
僕は優しく、しかもきっぱりと言った。
「本当だ」
千賀子は僕の方に振り返り、笑顔で言った。
「じゃあ、指切りしよう」
思いがけない、子供のような申し出に僕まで笑顔になった。
「わかったわかった。はい小指ね」
差し出した僕の小指に、千賀子も小指をからめてきた。そしてふたりで声をあわせて歌った。
「ゆ~びきりげんまん、うそついたら針千本の~ます、指きった!」
指切りをしたあと、千賀子は急に真剣な眼差しで僕を見つめた。
しばらく見つめ合ったあと、僕らはどちらからともなく自然にキスした。
それから、僕らは富良野の駅に移動した。
僕もはじめて聞いたのだが、今晩、千賀子は札幌のホテルに予約を入れているそうだ。そして明日の午後には千歳空港から飛行機に乗って東京に帰るらしい。神戸の家族のところには帰らない予定だという。正直に言って、僕はちょっとがっかりした。“もしものトキ”なんてそうそうあるわけないものだ。
列車を待つ間、待合室のベンチに座って色々と話した。フェリーの待合室で、淳君とそっくりな僕を見て、心臓がとまりそうになるくらい衝撃を受けたという千賀子の話(その気持ちがおそらく僕には不思議な雰囲気だと感じられたのだろう)や、僕が初めて声をかけた時の千賀子の感想。そして僕は一日に一回は千賀子のことを思いだして名前も連絡先も聞き忘れたことを後悔していた話をした。
僕らは気が合うのか、ふたりで話しているととても楽しかった。さっきの約束じゃないけど、本当にずっと一緒にいたいと思った。ほんの少しでも長く一緒にいたかった。だから、聞いてみた。
「俺も、札幌に行こうか?」
千賀子は穏やかな笑顔で聞き返した。
「どうして?」
「え?だってもう夜遅いから心配だし、さっき約束したじゃん。ずっと一緒にいるって」
すると千賀子はパッと、明るい笑顔を見せて言った。
「やだ、あんな約束本気にしないで。現実は現実でしょう?」
はァ?何それ?手のひらを返すように、なんちゅうことを千賀子は言うんだろう。僕の全身から血の気が引いた。ひょっとしたら僕は何か大きな勘違いをしているのかと思って、さっきの状況をもう一度思い返してみた。千賀子は続けて言った。
「というか、貴志くんはお友達が待っている訳でしょう?今から札幌に行ったら色々と大変だよ。それに、ね。今夜はちょっと一人でいたいの」
「うん?」
「今夜はね、淳に報告するの。好きな人ができたんだよ、私。って。その人はね、淳にそっくりなんだよって。そしてお願いするの。幸せになるから、ずっと見守っていてねって」
遠くを見つめるように千賀子はそう言って、僕に寄りそってきた。
どうやら僕の勘違いではなさそうだが、それにしても千賀子の心の中では今も淳君が生きているのだ。おそらく、淳君が亡くなってから一年半もの間、心の中で淳君と対話しながら生きてきたのだろう。それを僕が現れたからと言って急に忘れることなんて出来ないだろうな。
僕と千賀子の間には淳君がいて、妙な三角関係になりそうだと思った。でも、僕は不思議にも嫉妬とかそういった気持ちにはならなかった。相手は亡くなった人なのだし、千賀子の気持ちを大切にしたかった。
「あ、そうだ!」と言って千賀子は跳ね起きた。
「ねえ、貴志くんのヘルメット、私にちょうだい」
「え?何で?」
「実はね、あのデザインは同じなんだよ、淳のと」
「ああ、そうだったのか」
「ねえ、いいでしょう?」
「いいよ。でも持って帰るの、大変じゃないか?」
「ヘーキよ。ヘルメットのひとつくらい。札幌から郵送するし。あのデザインには色んな思い出があるし、貴志くんとの思い出も増えたことだし」
千賀子は笑っていた。
「わかった。じゃ、とってくるよ」と言って、僕はヘルメットをとりに行った。
間違いなく千賀子の心の中に僕の居場所もあるんだなと思うと嬉しくなった。
列車の来る時間が近づいたので僕らはホームにあがった。
僕はもう一度聞いた。
「札幌に着くのは随分遅くなるけど、本当に大丈夫か?怖くないか?」
千賀子は笑いながら答えた。
「もう子供じゃないもん。私。大丈夫だよ。ホテルは駅の真ん前だし。それよりね、明日の飛行機の方が怖いよ。初めてだし」
「飛行機は僕のバイクよりも安全だよ。全く心配ない」
「うん・・・」
「とりあえず明日の夕方には電話するよ」
「うん、電話してね。これからは毎日だよ」
「毎日・・・?」
「だめ?」
「わかった」
「よかった。約束だよ」
僕らの会話を遮るように、列車の入る警報が鳴り響いた。そして滑り込むように札幌ゆきの列車が入ってきた。いよいよ別れの時かと思うと、急に辛くなった。九州と東京では、そう簡 単に会うことはできない。気持ちは千賀子も同じらしく、その目は赤くなっていた。本当は僕も泣きたいくらいだったが、僕は男なんだから絶対泣いたりしないぞと思った。千賀子は僕の手をとり、また指切りをするつもりか小指に小指をからめてきた。そして両目をいよいよ真っ赤にして言った。
「ね、もうひとつ約束だよ。来年は東京の大学にきてね」
「わかった。絶対いく。だから心配するなよ」
「指切り」
「ああ。ゆ~びきりげんまん嘘ついたら針千本の~ます、指きった!」
千賀子の声はかすれていて歌にならなかった。列車の出発の合図が容赦なく鳴り響いた。千賀子は列車に乗りこみ、ドアのところに立って、小さく手を振った。僕は無理やり笑顔をつくって大きく手を振った。やがて列車は走り出し、小さくなって夜の闇の中に消えていった。
僕はひとりポツンとホームに立ちつくしていた。冷たい風はヒューヒューと音をたてながら、相変わらず吹いていた。
僕が鳥沼キャンプ場に着いたのは夜の10時頃だった。
いくつも並んでいるテントの中から僕らのテントを探していると、背後から友紀に呼び止められた。何か慌てているようだ。
「貴志、伸彦がまだ戻らないんだ。場内を手分けして探してみよう」
僕が今日のお礼を言おうとした矢先、友紀に言われた。状況はまだよく飲み込めないが、いくらなんでもこの時間に戻っていないなんて、とにかく大変な出来事だ。なにしろ熊が出る。本当か嘘かは知らないが、少なくとも僕らはそう信じていた。千賀子と別れてきた感傷的な気分がいっぺんに吹き飛んだ。
駐車場からキャンプサイトの隅々までひととおり手分けして捜してみたが、やはり見あたらない。とりあえず、駐車場で待ってみることにした。バイクなのだから必ずここにくるはずだ。僕の顔を見て一安心したのか、やや落ち着いた様子の友紀がいきさつを話してくれた。
今日は3人とも別行動をしたのだが、友紀と伸彦は7時までにはここに集合しようと打ち合わせていたらしい。もし間に合わなければ必ず友紀の実家に連絡をいれようということも約束していた。なのに、7時になっても8時になっても伸彦は来なかった。友紀は、まあ、伸彦にも色々とあるだろうと思ってのんびりと構えていたそうだが、9時になってもやってこない。それで、さすがにこれはおかしいと思って、実家に電話してみたが何も連絡はないという。この暗さでテントの位置がわからないのかもと思って場内をまわっている時に、ちょうど僕に出会ったそうだ。
「今日の場合、貴志が帰ってこなくても別に心配はしなかったけどな」
と、友紀が笑いながら冗談を言った。さっきまで本当に真剣な顔をしていたのだが、やっと笑う余裕が出たのだろう。千賀子の言うように、一人より二人の方が心強いものだ。
「あのさ、伸彦はもうひとつのテントを持って行っていたかな」と、僕は聞いた。
「ああ。持っているよ」
「何かの都合で電話もないような別のところでテント張っているのかもよ」
「う~ん、それはないだろうな。それなら、なおさら何とかして連絡くらいするだろ、ふつう・・・」
連絡もせずに一人で舞鶴まで走った僕としては耳が痛い話だ。でも、あの時の経験に懲りたから今回はちゃんと連絡先を決めていたので、ふつうの状態だったら確かに連絡くらいするだろう。ということは、やはりふつうの状態ではないということか?僕は血の気が引くような緊張を感じた。
「とにかく俺はもう一度実家に電話してくる。貴志はここで待っていてくれないか?」
「わかった」
友紀は公衆電話に向かった。例の自販機のところにあるので随分遠い。
友紀の背中を見送ったあと、僕は星空を見上げてみた。今夜も星がきれいだ。満天の星空と静寂の世界の中で僕は一人になった。
こうして一人になると、何となく悪い想像力が働く。事故とか熊とか、そんな悪いイメージが頭をかすめた。もし、伸彦が大変な目に遭っていたらどうしよう。伸彦は頑固でちょっと気の短いところがあるのだが、本当は真っ直ぐないいヤツなのだ。それに、僕らのような進学校の中で珍しく就職組になったのは家庭の事情による。まだ20才にもならないのに家計を支える大黒柱なのだ。そんな、感心なヤツなのだ。だから、社長の叔父さんも、普段は自分を犠牲にして家族を守る伸彦の、珍しい願いをかなえてあげようと今回のような長期休暇を特別にくれたのだ。
もしものことがあったら伸彦の家族に何と言えばいいのか。頼むから、伸彦、元気でいてくれと祈るような気持ちだった。時間がとても長く感じた。
しばらく経って友紀が戻ってきたが、やはり何も連絡がないという。
「伸彦の実家には電話してみた?」
「いや、いらん心配させるだけだろうからしてないよ」
「でも、もし事故とかだったら免許証があるわけだし、伸彦の実家には連絡がいくんじゃないかな」
「でもなァ・・・」
ふたりとも沈黙した。そこから先を言うことはタブーのような空気になった。時間はとうに11時を廻っていた。
「よし、12時を越えても来なかったら、伸彦の実家に電話してみよう。そして場合によっては警察に届けを出そう」
友紀がそう言い、僕もうなずいた。
僕らは祈るような気持ちで伸彦を待った。ふたりとも沈黙していた。時計の針が1分進むたびに身の縮む思いがした。
申し合わせた12時を越え、そして15分くらい経ったあたりで友紀が言った。
「仕方ない。電話しよう」
「あれだったら僕が電話しようか?」
「いや、俺がする。北海道ツーリングに誘ったのは俺だから」
友紀はそんなことを気にしていたのか。
友紀は責任感が強く生真面目だから伸彦を待つ間ずっとそのことで自分を責め続けていたのだろう。
友紀の目は赤くなっていた。何だか僕まで泣きたくなった。友紀は肩を落として、公衆電話へ歩いて行った。こんなに小さく見える友紀は初めてだ。
「あいつ、どこに行きよおと?」
あまりにも唐突に僕の背後から伸彦の声が聞こえた。振り返ると、そこに伸彦が立っていた。
「あー!!」と、僕は叫んだ。
「どうした?貴志」
伸彦は笑っていた。僕は夢中で友紀の方に走り出した。そして友紀に追いついて、
「の、の、伸彦が帰ってきた」と教えた。
「ホントか!」と友紀は叫び、振り返って走りだした。そして、駐車場でバイクから荷下ろしをしていた伸彦を見つけるなり、「きさーん!なんばしょったとや!」と走りながら叫んだ。
いつになく友紀は興奮していた。伸彦もびっくりしたことだろう。なにしろ猛烈な勢いで走ってくる友紀が博多弁丸出しでわめいているのだ。こんな友紀の姿は初めて見た。逆に、ちょっと冷静になった僕はその様子を側から見ていて、思わず笑いがこみあげてきた。
友紀は伸彦に掴みかかるほどの勢いだった。僕はヤバイと思って友紀を羽交い締めのような格好で止めた。
「どうした?二人とも」と、僕らの心配などどこ吹く風というような感じでのんびりと伸彦が言った。
「俺たちがどれだけ心配したと思っとおとやー!」
そう叫んでは伸彦に掴みかかろうとする友紀を僕は止めながら言った。
「まあ、いいじゃないか。伸彦も無事だったことだし」
「あ、ごめん。ちょっと遅くなったかな」
伸彦は事も無げにさらりと言った。それを聞いた友紀は、緊張の糸がプツンと切れたかのように、
「ちょっとじゃないぞお」と言ってヘナヘナと崩れ落ちた。
伸彦が遅くなった理由は、笑えるようなゾッとするような、そんな変な話だった。
つまりは、こういうことだ。
美瑛から富良野周辺を走っていた信彦は、とあるおもしろそうな林道を見つけた。もう夕暮れ時だったのだが、ちょっとくらいならいいかと思ってその林道を走ることにした。そこには、ところどころ紅葉した葉っぱがあり、夕陽のあたるその風景はとてもきれいだったのでみとれてどんどん進んでいくうちに道に迷ったらしい。やはり、土地勘のないところなので、遠くにある山のかたちを見ても今どこにいるのか見当もつかなくて、そうこうしているうちに日が落ちていよいよ訳がわからなくなった。その上さらに運悪くパンクした。仕方なく、その辺の草を毟ってタイヤに詰めて走り始めたのだが、量が足りなかったのか、荷物の積みすぎのせいか、極めて不安定で危ない状態だったので走るのを諦めて、誰かが通るのを待つことにしたそうだ。しかし、いつまでたっても誰も通らなかったので、半ばやけを起こしてその場にテントを張って眠ったそうだ。しばらく眠ってから、眩しい懐中電灯の光と、「こんばんわ~、けいさつで~す」という声で起こされて、眠い目をこすりながら見ると、本当に警官が来ていたという。伸彦は、「ああこんなところにもパトロールにくるのか、おかげで助かった」と思い、事情を話して助けを求めたそうだ。警官は早速バイクを町まで引きあげることができるように手配をしてくれ、さらに、救援が来るまで一緒にいてくれるとのことだった。伸彦はいやに親切な警官だなあと思っていると、警官は、「いやなに、この先のキャンプ場にね、この間熊が出て大変だったんだよ。そいつはまだ捕まってないからねえ」と、さらりと言ったらしい。それを聞いて伸彦は全身の血がサーッと引いていったそうだ。熊というのは、その行動に習慣性があるはずだ。とすればこの辺りに現れても不思議ではないし、ひょっとすると熊にとってはお散歩コースなのかも知れない。そうとも知らずこんなところでのうのうと寝てるとは。知らぬが仏とはまさにこのことだと思っているうちに、バイク屋の車がやってきて、やっとその場から脱出できたらしい。その後、パンク修理をしてくれたバイク屋のおやじさんとすっかり意気投合して長話をしていてこんなに遅くなったそうだ。
「それなら、連絡くらいしろ!!」
話を聞いた僕は、伸彦を怒鳴りつけた。
「一体、僕や友紀がどんな気持ちで待っていたか、わかるだろ!」
友紀も伸彦も、唖然とした。さっきは「まあ、まあ」と友紀の怒りをなだめた僕がいきなり怒りだしたからだ。僕にしてみれば、どうしようもない、例えば話の前半部分のような状態ならともかく、長話をしている間に電話くらいできたはずだと思った。それに、僕はあの時の友紀の悲愴な顔が忘れられない。だから、キレた。伸彦は、藪から棒に怒鳴られたせいかムッとした表情で、「おまえにいわれたかねーよ」と言い返してきた。こうなったらもう、売り言葉に買い言葉だ。
「なんてや!」
「貴様ン!連絡もせんで一人で舞鶴に行ったとは誰や?ああ!」
「あれとこれとは違おーもん!」
興奮すると、つい方言丸出しになってしまう。
「どこが違うとや!、だいたい今日もお前がが勝手なことを言いだしたっちゃろもん!」
僕と伸彦は、テントの前で取っ組み合いのケンカになった。でも、僕らのケンカは、初めて知り合った高校1年の頃からよくあることだ。お互いに根に持つことはない。だから、友紀も 笑いながら、「ほどほどにしとけよ夜も遅いんだからな」と言って見物していた。
周りのキャンパーに大変迷惑をかけたと思う、北海道での9回目の夜だった。
さて、北海道での最後の日がやってきた。
厳密に言うと明日の朝はやく出発のフェリーに乗るのでラストツーなのだが、自由に回れるのは今日が最後だ。
いつものようにラーメンの朝食を採って、インスタントコーヒーを飲んでいたとき、「すまん、1万か2万貸してくれ」と、伸彦が友紀に頼んでいた。昨日の騒ぎのためバイクの回収代やらパンク修理代やら思わぬ出費で所持金が底をついたらしい。友紀は気持ちよく応じていた。その後、今日の予定を話しあった。先ずはここから近い十勝岳温泉に行こうということになった。
僕らは早々に荷物をたたみ出発した。
十勝岳温泉は上富良野の東の郊外にあって、十勝岳の山腹、標高およそ千三百メートルの高さ(道内一の高さらしい)に湧く温泉だ。鉄分を大量に含む温泉で、赤い色をしているというなにやら面白そうだ。
十勝岳温泉へと続く、平野部の長い長い直線道路を走り、山裾の登山口から路面の荒れた舗装路を登っていった。いくつものコーナーを慎重にクリアしながら進む。
途中、伸彦が大声を出して停まった。僕らもバイクを停めて振り返ると、伸彦の視線の先にキタキツネが2匹いた。路肩の草の陰から僕らの方を見てキョトンとしていた。
とうとう、現れた!北海道に来たからには野生のキタキツネを絶対見てみたかったので、嬉しくてたまらなかった。友紀も「おー」という声をあげて感激している。伸彦はバイクを降りて2・3歩あゆみ寄り、屈んで手招きしている。
2匹のキタキツネは用心深そうに僕らを見つめて、やがてどこかへ行ってしまった。
「写真を撮っとけばよかったな」
「いきなりだったからなあ」
「じゃあ、すぐにでも撮れるように準備だけでもしておこう」
「また出てくるかも知れないからね」
「でも、やはり野生動物だから、イメージよりは痩せていて、ちょっと汚れていたなあ」
たしかに、あの2匹は痩せていて引き締まった精悍な顔をしていた。それに、ほこりか泥のせいできつね色というよりはねずみ色に近かった。伸彦が“コキタナイキタキツネ”と命名して喜んでいた。
いくつものコーナーをクリアしながら登っていくと、やがて僕らの目指す旅館があった。その旅館は山道のヘアピンコーナーの側にあって、三角屋根の山小屋のような建物だった。坂道の山側にある駐車場にバイクを停めて、僕らはタオル一本ぶらさげその温泉旅館に向かった。
館内は多くの宿泊客や旅行者で賑わっていた。とても古い建物で、ここも趣があると言っていい。
僕らが受け付けで入浴料を支払っていると、他の旅行者が受け付けのおばちゃんに、「石鹸ください」と言った。おばちゃんは、「ここの温泉で石鹸は使えませんよ、成分の関係で泡もたちません」と答えていた。そのやりとりを側で聞いていた僕らは、顔を見合わせた。そして、「一体どんな温泉なんだろう」と話しあった。ふつう、お湯を使えば石鹸は泡をたてる。でもここの温泉では、たたないという。そんな現象を僕らは今まで見たことも聞いたこともないのだ。「なにか、おもしろそうだ」と思いつつ、ところどころ柱や梁から出ている釘に気をつけながら、階下の浴室へ行った。
先ずは内風呂に入った。岩と板でつくられた室内には、長年の蒸気が壁や天井にすっかり染みついた感じで、独特の雰囲気があった。
お湯は、情報どおり赤い色をしている。伸彦が、「旅のアカを赤い温泉で落とす」という駄洒落を言いながらザブンと湯船に浸かった。
僕は本当に石鹸が使えないのかと思って試してみることにした。持参してきた石鹸を温泉のお湯に浸したタオルに擦りつけたのだが、おばちゃんの言うとおり、本当に泡が立たない。横にいる友紀も感心するように眺めていた。何か珍しいものを見たような、得した気分だ。
それから僕と友紀も内湯につかり充分温まってから露天風呂に行ってみた。
露天風呂は岩とコンクリートでつくられていて、片側は旅館の壁に面している、もう片方には見事な展望が広がっている。さかんに「すごい眺めだなあ」とつぶやいていた。確かにすごい眺めだった。十勝岳を目の当たりにすることが出来るのだ。
ここから見える十勝岳の風景は周囲に針葉樹の森を従え、山腹の真ん中あたりからこの温泉の下にかけて、ちょうど川のような赤茶けた砂の道が走っている。その道にはところどころに防砂ダムがある。自然のみずみずしさと荒々しさが同居したダイナミックな風景だった。
石鹸も、風景も、それにキタキツネも。そんな思いがけない、いい思い出を持って、僕らは山を降りた。これから札幌に向かう。札幌と言えば、千賀子は今何をしているんだろう。もう、空港に行ったのだろうか。そういえば、飛行機を怖がっていたな。先ず大丈夫だとは思うが、どこかでテレビかラジオに注意しておこう。
思い出深い富良野を過ぎて、僕らは初めてきた時と同じ道を、今度は札幌目指して走っていった。
夕方には札幌に着いた。
郊外の往復4車線の道を走っていて、友紀が右折の為対向車線に入った時。友紀はいきなり後から車に追突されそうになった。車は激しくクラクションを鳴らし、そのタイヤは恐ろしいほどの悲鳴をあげた。間一髪、友紀はその車をかわしたものの、よほどおどろいたのか、右側の路肩にバイクを停めた。あまり車が走っていなかったので僕らは誰も気づかなかったが、この道路は4車線もある大きな一方通行の道だった。そうとも知らず、対向車が来ないからと後も確かめずに車線変更すれば、やはり追突される危険性はある。「札幌、恐るべし」とさかんに友紀が言っていた。
やがて市街地に入り、今夜の宿を探した。友紀が調べて予約を入れたカプセルホテルだ。しばらく市街地の中をぐるぐるまわり、やがて見つけた。
僕らはそのホテルの前の歩道にバイクを停め、荷物をくくりつけたまま、先ずはチェックインの為館内に入った。
受付の女性が、僕らのライダー姿を見て、聞いてきた。
「バイクですか?」
「はい」と、友紀が答えた。
「どこにとめていますか?」
「前の歩道です」
「実は、札幌の歩道には、ロードヒーティングという電熱線が敷いてあるので、とめ方によっては、バイクのスタンドで線が切れてしまうのです。私が見にいきますので一緒にきてください」
それもまた、僕らには新鮮な発見だった。なるほど、それも雪国の知恵なんだなと思いつつ受付嬢とともに外に出て、“正しいとめ方”の指導を受けた。
今夜の寝床を確保した僕らは、先ず風呂に入った。大理石調の浴室の、おおきな湯船に浸かり、疲れを癒した。
「今夜のメシ、どうする?」と、伸彦が聞いてきた
「ジンギスカンも捨てがたいけど、やはり、ラーメン横丁じゃない?」と、友紀が答えた。
「いいじゃん。そうしようよ」
「ついでにすすきのも散歩する?今夜が最後なんだし」
「OK、パーッといこう!」
ということで北海道最後の夜の予定が決まり、僕らは早々に風呂をあがった。
札幌なら熊の心配もいらない。だから、心おきなく深夜徘徊を楽しもう。
さすがに、札幌は大都会だった。輝くネオンサインや車のランプが溢れる街中を歩いて、先ずはラーメン横丁に向かった。
ラーメン横丁は、その名の通り、何気ない横丁にたくさんのラーメン店が並んでいた。通りから見る店内は、麺をゆがく湯気が照明に照らされてパーッと浮き上がり、大勢のお客の談笑する声が響き渡っている。できあがったラーメンがこれまたあたたかそうな湯気を放ちながらひっきりなしに運ばれてくる。熱気があって、いい雰囲気だ。僕らは通りを二往復して、店を決めた。
「やはり、味噌でしょう」
カウンターに三人並んで座るなり、僕がそう言うと、二人もうなずいた。
旅先の各地で慣れ親しんだカップラーメンでなく、本場の味噌ラーメンに僕らは期待した。やがて、うまそうな湯気をたてながら、大きな器に入った味噌ラーメンが運ばれてきた。もやしに、コーンに、シナチクがたっぷりとのっていた。僕らは「まってました」とばかり飛びついた。やはり地元とんこつとは違ううまさだった。僕らはスープまで全部飲み干して店をでた。店内の熱気と、ラーメンのあたたかさに体が少しほてっていたので、やや冷気をはらんだ外の風は心地よかった。
時計を見ると、7時を越えていた。千賀子に電話するにはいい頃合いだと思った。おそらく、長旅から帰って、いろいろかたづけて、ちょうど一息ついた頃だろう。そう思って、二人には先に行ってもらい、僕は公衆電話を捜した。
大きな交差点で電話ボックスを見つけて入り、千賀子の電話番号を書いたメモ帳を取りだし、100円硬貨をたっぷり準備して、電話をかけた。
2回目の発信音で千賀子が電話に出た。僕からの電話だと確かめるやいなや、
「おそーい!夕方って言ってたでしょう?ずっと待ってたんだよ」と言って怒りだした。
「あれ?え?ゴメン。いつ帰りついたの?」
「5時くらい」
僕の読みはそんなに外れてはいなかった。でも千賀子は心待ちにしていたようだ。
「ごめんな、遅くなって。でも、よかった」
「何が?」
「千賀子は確かにそこにいるんだなと思って」
「あれ?嘘なんか言ってないよ」
「飛行機も落ちなかったし」
「そうそう、でもね、やっぱり怖かったよ。飛ぶ時と降りる時は特にね。で、貴志くんは、今どこ?昨日はあれからどうしたの?」
「今札幌。昨日はね・・・」
僕ら二人をつなぐ一本の電話線が、こんなにもあたたかいものだとは思わなかった。これからしばらくはこういう形でしかお互いを確かめることができない。親からは高い電話代に文句を言われそうだが、それでも、なんとかやっていけそうだ。札幌の街の一角にある、ウィスキーの大きなネオンサインに照らされた電話ボックスの中で、僕はそう思った。
翌朝は、とても早い時間にカプセルホテルを出て小樽に向かった。40キロくらいの距離だし、しかも早朝だったので1時間もかからなかった。フェリーに乗る前に小樽の街並みを見て廻ろうという計画だった。僕らはレンガづくりの建物が並ぶ運河や、伸彦が行きたがっていた有名なガラス店の前に行って、そそくさと記念写真を撮った。それからバイクで町中を一回りしてフェリーターミナルへ向かった。
待合室は、まだ出航の2時間前だというのに、既に乗船客でいっぱいだった。ターミナルや近くの公園にテントを張って泊まったライダーも大勢いた。
僕らは待合室で、あるバイク乗りのグループや、車の女の子グループ、そしてチャリダーグループと仲良くなった。みんなで長椅子に座り旅の話に花を咲かせた。霧多布にうまい寿司屋があったとか、襟裳岬では霧笛がしょっちゅう鳴っていて雰囲気があったとか、摩周の方のユースホステルは最高だったとか、いろいろと話はつきない。僕らもいい旅だったと思っているが、多くの人もそう感じているようだ。確かに北海道は懐が深く、様々な楽しみ方がある。「機会があればまた来たいね」というのがみんなの一致した意見だった。
みんなでワイワイ話していると、やがて乗船の時間が近づいてきた。僕らは共同作戦でいい場所を確保しようと約束して乗船位置についた。帰りは空いていたので僕らも2等船室だった。
やがて、乗船開始とともに、ふたたびあの激しい場所取り競争が始まった。僕らはうまい具合にいい場所を取ることができた。そこに、車の女の子グループ(彼女たちは1等船室だった)が遊びに来て、みんなで甲板にあがり、出航の瞬間に乾杯しようという。いいアイディアだと、みんな賛成した。船内の自販機で缶ビールを買い、甲板にあがった。
甲板から見る小樽の町は、光を浴びてとても輝いて見えた。
いよいよ思い出の地、北海道から離れるのかと思うと胸に迫るものがあった。
何気ない友紀の一言からはじまった北海道ツーリング。本当に色んなことがあった。いきなり地獄の一人旅から始まって、美しい爽やかな風景の中を走り抜け、転びもしたし、ケンカもした。それに何物にも代え難いたくさんの出会いがあった。田中君、佐藤君、大園さん、森田さん、最北端のふたり、千秋さんたち。千秋さんはあの後どうしたのだろう?きっとがんばっているんだろうな。帰ったら手紙のひとつくらい書いてみよう。仙人さんは今朝も元気に釣りに行ったのだろう。そして、千賀子。
そう。千賀子のことだ。
彼女のことを想うと僕はやさしい気持ちになれる。
僕は何としても千賀子の笑顔を守りたいと思った。
「本当に大切なこと、見つけたのかもな」
それは、深くて暗い淵の底に沈んでいた僕の心に差し込んだ一筋の光だった。
やがて、船内に“ほたるの光”が流れはじめいよいよ出航の時を告げた。
僕は、仲間たちの雑談の輪から離れて、一人で見納めとなる北の大地を見つめていた。缶ビールを空け、北海道に向かって乾杯しょうとした。その時背後から声が聞こえた。
「ねえ、一緒に乾杯しない?」
振り返るとそこに、車の女の子グループのうちの一人(背が高く、スラッとした髪の長い美人で、一番人気の人だった)が笑顔で立っていた。彼女は僕に近寄りながら続けて言った。
「あなた、よほどいいことがあったのね。顔に書いてあるよ」
僕も笑顔で言った。
「まあね。全てがいいことだったよ」
「うふっ、幸せな人にはかなわないなあ。まあいいわ、乾杯しましょう」
別に断る理由もないので、僕らふたりは、離れゆく北の大地へ乾杯した。
彼女の名前は涼子さんといった。しばらくふたりで思い出話をしていると、さすがに一番人気だけあって、仲間の男数人がやってきては僕らの間にわって入った。はやくも涼子さんの争奪戦が始まっているようだ。僕は別にどうでもよかったので、そそくさとその場を離れた。
それから僕らは船室に戻り、共同作戦で確保したテリトリーで、女の子グループと一緒に車座になって思い出話の続きをしたり、トランプしたりして過ごした。
夜、僕は船内電話から千賀子に電話した。“毎日”という約束だったからだ。意外と長電話になってしまった。そろそろ風呂の時間が終わるなと思いつつ電話ボックスの外に出たところで涼子さんに出会った。というか、僕が出てくるのを待っていたようだ。涼子さんは僕の手をとり、紙切れを握らせた。
「私の電話番号よ。よかったら電話ちょうだいね」と言って去っていった。
涼子さんは、さっきの話では神戸の人のはずだ。つくづく神戸には縁があるようだ。あれほどの美人から電話番号を教えてもらえるなんて、夢のような話ではあったが、今の僕はあまりときめかなかった。
僕の心には、千賀子が住んでいる。
もう、それだけでいいんだ。
僕はその紙切れを見もせずにポケットに突っ込み、船室へ戻った。
翌日もきれいに晴れ上がり、群青の海原を船は進んでいる。
涼子さんは仲間たちに取り巻かれていて、僕はその争奪戦の様子を一歩ひいたところから「やっぱり青春だよなあ」と思いながら眺めていた。
友紀は別に争奪戦に参加しているワケではなさそうだが、その仲間たちの輪の中心にいた。
伸彦は仲間のひとりから借りた本を、シュラフの上に寝ころんで読んでいた。
やがて船は速度を落とし、舷窓からは舞鶴の陸地が見えてきた。夢のようだった北の大地の旅も終わり、現実の生活へ一歩ずつ近づいている。僕らは下船の準備を整え、上陸を待った。
フェリーから降りると、舞鶴の街はもう夕暮れ時だった。伸彦の休暇期間の関係もあるので、僕らはこのまま一気に九州に向かって走る予定だ。
仲間たちと別れを惜しみ、出発した。
あまり無理をしすぎてもかえって危険だろうということで、充分休憩をとりつつ夜の国道を西へと向かった。
僕の好きな因幡の海岸線で夜明けを迎えた。
北海道の気候とは違い、ムッとする蒸し暑さの中にも朝独特の冷んやりとした空気を感じた。例によって、鳥たちもセミたちもお目覚めのようだ。騒がしいくらいの大合唱が聞こえる。
右手に海を見ながらすすむ、ある上り坂で、先頭を走る友紀がまた、急に対向車線にふらふらと入り込んだ。「アブねー。寝てるのかな」と思いクラクションを鳴らした。でも、どうも様子がおかしい。ヘルメットの開口部を何か必死ではたいている。僕らは路肩にバイクを停めた。そして、友紀に何があったのかを訊ねると、「ヘルメットの中にアブが飛び込んできた」と青白い顔をして答えた。
僕と伸彦は、顔を見合わせて笑った。僕らはもう4年近くバイクに乗っているが初めての出来事だった。そしてそれが、この旅での最後の“事件”になるだろうと思った。
太陽は天空の高いところに昇りつめていた。
この日も、とても暑かった。
僕らは島根と山口の県境まで進んでいた。福岡までは、あとほんの一息の距離だ。
やはり、こっちの気候は蒸し暑い。
僕らは道沿いに小さな無人駅を見つけ、一休みしていた。
僕は駅前の木陰の芝生に寝ころんで太陽を見上げた。
木の葉の隙間から強烈な日差しが差し込んでいた。あまりに眩しいので目の前に手をかざした。すると光線のなかに、おぼろげな太陽の輪郭が見えた。それは手の中にすっぽりと入ってしまいそうな大きさだった。このままちょっと手をのばせば、届きそうな気がした。
やがて、友紀が言った。
「さて、と。じゃあそろそろ行こうか」
僕らはバイクにまたがり、走り始めた。
完
星の数ほどの作品の中から、この作品を探し当て、お読みいただいた皆様にはとても感謝しております。
本作は作者が当時体験した北海道ツーリングに着想を得た架空の物語です。
しかし、その中で千賀子の涙は、モデルとなった悲しい出来事がありました。
旅人たちの想いをのせて夏は通り過ぎていきました。
1980年代。空前のバイクブームという熱い時代があったことを記憶の片隅にでも置いて頂ければと思います。
ご愛読いただきまして、本当にありがとうございました。
本作はこれで終了ですが、近いうちに「野球少年 中学編」の本編をアップします!
野球を縦軸に、様々な恋愛模様を絡めて描きます!
ご期待ください!
*本作品は「エブリスタ」にも掲載しています。