第七章 風の吹く丘で
熱心に読んでいただいている方には本当に感謝です!
さてさて。
1980年代。夏。北海道ツーリング
大詰めの第七章です。
「ワケありワガママ娘」の千賀子が見せた涙の訳、心の奥に秘めた想いとは?
「他人の心がわからない」独り善がりな少年は、その想いを受け止められるのか?
そして、千賀子の止まった時間は、再び動きだせるのか?
今回はそんなお話です。
どうぞお楽しみください。
第一章少年の日
第二章憧れの大地へ
第三章旅するものたち
第四章 こころの風景
第五章 風の吹く丘
第六章 瀬川千賀子
第七章 風の吹く丘で(今回はここです)
最終章 あの暑い夏の陽に
第七章 風の吹く丘で
それでも、朝9時半頃には出発できた。
友紀と伸彦は10時頃出発するそうで、相変わらず例のニヤニヤ笑いを浮かべ、「まあ、がんばれよ」と見送ってくれた。僕はもう、どうでもよくなったので景気づけに大きくガッツポーズをして走り始めた。
20分も走ったところに、ユースの人に教えてもらったカー用品店があった。開店までまだしばらく時間がある。僕はその店の前にバイクを停めてしばらく待つことにした。
今日はとてもいい天気で暖かい。のんびりとした雲が、抜けるような青空に浮かんでいる。絶好のツーリング日和だ。千賀子と一緒にいられるし、それに昔から憧れていた風景に出会えるだろうと思うと、言葉にはできないくらいの嬉しさがこみあげてくる。
「これが、幸せっていうのかな」
だとすれば、幸せというのは心の持ち方ひとつなんだなと思った。客観的に見ると、見知らぬ土地で仲間と別行動するのはリスクがあるし、ヘルメットを買うために借金もした。荷物も友紀と伸彦に預けたので二人には随分迷惑をかけている。この埋め合わせはいつかしないといけない。それでも、僕は本当に幸せな気分だった。どんなリスクでも蹴散らしていけそうな気がした。
こんな気持ちになれるのは、随分久しぶりのような気がする。
店が開いた。
バイク用品コーナーに行った。
棚にヘルメットがずらっと並んでいた。けっこうな数の品揃えだったのだが、僕のと同じデザインのメットはなかった。在庫にでもないものかと思って店員に聞いてみたが、今品切れ中だという。千賀子が怒るかなと思ったが、ないものは仕方ないので、僕のと同じ型の白いメットを買った。夏場は色の濃いメットよりも白いメットの方が日光を反射するため暑くないのだ。ついでに、千賀子のグローブも買っておこう。なにしろカムイワッカで転んだ時はグローブに随分助けられたし、千賀子に素手のまま走らせたくない。急いで買い物を済ませ、僕は美瑛の駅目指して走り始めた。
美瑛に近づくにつれてなだらかな、美しい丘陵の風景がひろがってきた。「ああ、確かにこんなイメージだ」と思った。北海道に来る前にちらっと立ち読みした案内本には富良野のことしか載ってなくて、美瑛のことを全く知らなかった。前回富良野に来た時もこの道は走っていない。千賀子のおかげで今日はいい日になりそうだ。
美瑛の駅に着いたのは11時ちょっと前だった。
千賀子は木陰のベンチに腰をおろして何か本を読んでいた。バイクの音に気づいて立ち上がり、僕を見つけて笑顔で手を振った。
あれ?何かイメージが違う。と思ったが、とりあえず適当なところにバイクを停めていると千賀子が歩いて来て言った。
「けっこう早かったね。もう少し待たされるかと思った」
「店もすぐ見つかったし、道も混んでなかったから」
「それにしても今日はホントにいい天気だね。絶好の丘めぐり日和だよ、たぶん。」
そう言って千賀子が空を見上げた時に気がついた。長い髪を後ろで束ねているんだ。それに、ジーパンに白いTシャツ姿で、赤いウインドブレーカーを腰に巻いている。今までとはまるで違う服装だ。それで、どこかイメージが違うと感じたんだろう。僕はメットを脱ぎながら言った。
「何だか、いっぱしのバイク乗りみたいな格好だな」
「へへー、昔はね、よくバイクに乗せてもらっていたんだよ、これでも。それに、この上着は青葉が絶対持って行けって言ったんだよ」
そう言ってにこにこと笑った。
つまり、昔の彼氏に乗せてもらっていたということか。ふーん。まあ、別にいいけど。そう言えば、初めて話したこともバイクの話題だったような気がする。
「ねえ、私のメットは?」
「ああ、それなんだけど、ごめん同じデザインのがなくて型は同じなんだけど、これ」
僕はメットホルダーから白いメットを外して千賀子に渡そうとした。
「えー、同じのなかったの?」
「うん。ちょうど品切れしてて。ごめん」
「私、同じのがよかったなー」
「ごめんよ」
「じゃ、私貴志くんのを被る」
千賀子はそう言うと、ミラーにかけていた僕のメットを手にとった。
「いや、それ古いし、汚いし、やめた方がいいと思うよ」
「ぜんぜんそんなことないよ。ねえ、いいでしょう?」
そう言って千賀子はさっさと被り、自分のメット姿をバックミラーで見ながら無邪気に笑っている。僕は千賀子の笑顔には弱いんだ。
「うーん、そう言うなら別にいいけど・・・」
ということで、千賀子が僕のメットを、僕が白いメットを被ることになった。こんなことなら、格下の安いメットでも買えばよかったなと内心思った。
「あ、それから、これ、千賀子のグローブ」
新品のグローブを千賀子に渡した。まさかこれまで文句言われたらさすがにショックだなと思っていると、千賀子はにこにこしながら、
「これも私の?ありがとう」
そう言って素直に受け取った。
「さて、じゃあ出発しよう。千賀子の荷物は?」
「さっき駅のコインロッカーに入れたの。持っていくのはあのベンチに置いているバックパックだけ。富良野に行く前に取りに来ればいいかなと思って」
「あ、なるほど。じゃあ俺もそうしようかな」
リアカウルにくくりつけていたバッグを外し、僕もコインロッカーに預けに行った。バイクに戻ってみると、僕のバイクのナンバープレートを見ていた千賀子が目を丸くして僕に聞いてきた。
「何で、このバイクのナンバープレートはピンク色しているの?」
「ああ、これ125ccだからね。125はピンクナンバーなんだ」
「ふーん、小さなバイクなんだね」
「ハハハ、俺、免許は中免だけど、プーだからね。経済的な理由だよ。いま大きいの買うって言っても親に反対されるし。でも、これでも高2の時必死でバイトして買ったんだぜ、中古だったけど」
「ごめん。別にばかにしている訳じゃないのよ。ただ、小さいバイクなんだなって思って」
「フォローになってねー」
「もうー、ごめん!」
千賀子はケタケタと明るく笑っていた。そんな千賀子の笑顔が僕は好きだ。千賀子が笑ってくれるなら僕のことなんて、もうどうでもいい。
「あのね、貴志くん。駅に美瑛の見所の案内図が置いてあったの。私待っている間にそれを読んでいたから、道順は私が指示するね。それでいい?」
「ああ。頼むよ。じゃ、出発しよう。昔乗ったことがあるなら要領はわかるよな」
「うん。ぜーったい落ちないようにしがみついているから」
「ああ、でももっと楽に乗った方がいいと思うよ、片手で後ろのグラブバーを握って、片手は僕の腰か、間のベルトでも掴んでいればいいから」
「そう?バイクってしがみつくものなんじゃないの?」
やれやれ、格好は一人前だけど、千賀子はどれくらいまでなら大丈夫なんだろう。それが分かるまではゆっくり走った方がよさそうだ。
僕は先にリアステップを引き出してバイクに跨った。キックでエンジンを目覚めさせ千賀子に「乗っていいよ」と言った。千賀子はひらりとリアシートに乗った。その様子はずいぶん様になっている。「ああこれならまあ大丈夫だろう」と思ったが、さしあたって優しくバイクをスタートさせた。
しばらく走ると後ろで千賀子が何か言っている。道順の指示かなと思ってもう一度聞いてみた。
「貴志くん、運転うまいね」
千賀子はそう言った。風切り音とエンジンの騒音に負けないような大声で僕は聞き返した。
「はァ?何で?」
「何ていうか、うまい具合にスピードが乗っていくのね」
それはそうだろうと僕は思った。普段から、125という小さな排気量で大排気量のバイクとわたりあっているのだ。僕のバイクは規制がかかる前のものでパワーはあったのだが、なにしろ、下から強烈なトルクを発生させるような便利なおまけはついていない。その分、いわゆる『どっかんターボ』のような面白さはあったが、確実に速く走るためにはデリケートな操作が必要だった。
私の時代には見当たらないが、当時は、例えば信号停車で見知らぬバイクが2~3台停まると、必ずと言っていいほど、いわゆるシグナルグランプリが始まった。それは、青信号になると一斉に走り出して速さを競うものだ。125のバイクで大きなバイクと張り合うには極めて慎重な操作と集中力が必要となる。それは峠道バトルでも同じことだ。
峠道バトルは、見知らぬバイク同士で何気なく始まる山道での追いかけっこなのだが、何しろ相手は強烈なエンジンブレーキと図太いトルクにものをいわせて、何の気なしにコーナーをクリアしていく。対する僕の125のバイクはあまりにか細く非力だった。強烈なエンジンブレーキも、立ち上がりの爆発力も、全て自分でつくり出していかなければならない。ちょっとでも手抜きをすると、たちまち失速してしまう。道路の状況を読み、回転数をつかみ、いかにパワーバンドを維持し続けるかがポイントとなる。やがてリズムよく乗れている自分を自覚すると、走っていることがたまらなく楽しくなる。すると、頭の方も冷静になり、相手の癖とか弱点が見極められて抜き去ることができる。中にはどうしても手の届かない遠い背中もあったが、たいていの場合、「絶対勝つ」と思い定めて追い回していけば、勝つことができた。
僕は、ハーフクォーターという非力なバイクに随分育てられたのだと思う。
しかし千賀子は、意外と鋭いところをついてきた。ひょっとすると、タンデム歴は僕が思っている以上なのかも知れない。
市街地を抜け、丘の上にあがると、それはもう、何とも言えない美しい風景があった。
波打つ丘陵が幾重にも重なり、青々とした作物の葉が風にそよいでいる。ところどころ刈り取られて薄い茶色の畑があり、草を巻き取ったいわゆるバームクーヘンが転がっている。丘の頂上は、深い青空に吸い込まれるかのようで、その上に白雲がのどかに浮かんでいる。
美瑛の丘は、阿蘇や久住のような牧草地帯ではなく、畑になっている。千賀子が、ここで作られている作物を教えてくれた。主に、ビート・小麦・じゃがいも・小豆なのだそうだ。地元の人たちが丹精込めて造り上げた畑が、このヨーロッパのような美しい風景を創り出し、僕ら旅人に感動を与えてくれている。おそらくこんな風景は日本ではここだけだろう。さっきまで後ろで大声だしてはしゃぎながらいろいろと解説していた千賀子が急に大人しくなった。目の前に広がる風景に圧倒されて、それこそ息を飲むように見入っているようだ。それだけの説得力というか、魅力が確かにここにある。僕も思わずため息が出てしまったくらいの美しさだ。
僕らは千賀子の案内で、先ずケンメリの木を目指した。
千賀子のナビは的確だった。地図を開いている訳ではないのに迷うことなくたどり着くことができた。頭がいいというか、記憶の容量が僕とは違うのだろう。千賀子に言わせると「慣れているから」という。
木の近くまで行く道は舗装道路から外れていて赤土の露出した道だった。125のロードスポーツで、しかもタンデム状態ではやや苦しい道だった。でも、さっきほめられたばかりなのにここで格好悪いのは嫌だ。内心ドキドキものだったが落ち着いた態度でバイクを進めた。
ケンメリの木のたもとにバイクを停めた。 それは大きなポプラの木で、波打つ麦畑に囲まれて、何本も伸びる太い幹にたくさんの葉っぱを纏って空高くそそり立っている。
バイクを降り、メットを脱ぐと、麦の頭を押さえつけながら吹き抜ける風がさわやかだった。
「この木って何でケンとメリーのポプラって言うのかな?」
僕も正確には知らなかったが、“ケンとメリー”って言えばおそらく車の関係なんだろう。
「ケンメリって、車のことだよ。有名な車でね。ここでCMでも撮ったんじゃないかな。ずいぶん古いけど、俺の友達も乗っているよ」
「へえーそう」
「中学の時の友達に暴走族の友達がいて、そいつが中古で買った車なんだ」
「え?族が乗るような車なの?」
「いや、まあそういう訳じゃないなあ。排ガス規制直後の車らしいからパワーはないらしいし。でもその昔一世を風靡した車らしくて、そいつの憧れだったらしいんだ。女にもてるとか言って。流行りのX11というスピーカーをつけて喜んでいたな」
僕はここで初めて気がついた。実は僕も車の免許を持っている。だから今日はひょっとしてバイクではなくレンタカーの方が良かったのかも知れない。千秋さん達の時はバイクに乗りたいっていうことだったけど、千賀子の場合、別にバイクで、ってことじゃなかった。だから、今更という気もしたのだが聞いてみた。
「あのさ、今日は車でも良かったんだよな。今気がついたけど・・・」
「レンタカー?」
「ああ。その方が楽だったんじゃないか?」
「うーん、でもね、そんなことないよ。私バイク好きだし」
「遠慮しなくてもいいよ。今からでも借りようか?」
「遠慮じゃないよ。気にしないで。バイクの方が景色が広く見えるからバイクがいいの。ホントだよ。今日は天気もいいし」
そう言うと、千賀子は笑った。僕も、それ以上言わなかった。
僕らは次の目標であるセブンスターの木に向かった。
その木も、一本だけ畑の中に立っていて、傘のような形の大きな枝葉をのせている。バイクで近くまで来た時、
「貴志くんが見たいって言っていたのはこの木のこと?」と、千賀子が聞いてきた。
「いや、違うよ。一本の木じゃなくて林みたいになってるんだ」
「あ、分かった。それは、マイルドセブンの方だね。次の次がそうだよ。じゃ、さっさと移動しよう」
ここではバイクを降りずに、次の目標へ移動した。次は親子の木の丘だそうだ。
途中の道からは丘陵の美しい風景を見渡すことができた。千賀子が言うように、こんな天気のいい日にはバイクで走った方が気持ちいい。日差しは暑いけど、風はさわやかだ。
その木はちょっとした丘陵の頂上近くにあって、形はセブンスターの木と似ているが、そのうちの一本はてっぺんの葉が寝癖のついた髪のようにとんがっている。なかなか愛嬌のある形をしていた。「これが親子ならどれがお父さんでお母さんなんだろうね」と千賀子が言っていた。僕も面白がって適当な話で応えた。
そして、僕にとっては念願のマイルドセブンの丘にやってきた。丘の上にある林を見つけてからというもの、歓声をあげながら遠回りに廻っていろんな方向から眺めた。周辺には草原があったり、白い花をつけた畑があったり、それに小刻みに波打つような地形だったので、見る場所によって様々な表情があった。
やがて適当なところにバイクを停めた。
僕はすっかり興奮して千賀子に言った。
「やっぱりここだよ。この風景に憧れていたんだ。CMでは雪景色だったけどね、俺のイメージの中では夏草の風景に化けていたから、ちょうどこんな感じなんだよな」
そういう僕の笑顔を見つめていた千賀子が、
「よかったね、見ることができて」と、笑顔なのだが妙に冷静な口調で言った。
あれ、僕はちょっとはしゃぎ過ぎたかな、千賀子に何か不愉快な気分を押しつけたかなと思った。僕の顔を見つめて何か言いたげにしていた千賀子は、やがてプイっと反対方向に振り向いてゆっくりと歩き出した。後ろ手にしながら周りの草をみつめるようにゆっくりと歩いていった。僕は状況が理解できずに千賀子の後ろ姿を見つめ、ただぼんやりと突っ立っていた。千秋さんの時の経験からしても、ワケあり少女のこんな時はヤバイという気がした。だからただ黙ったまま千賀子の様子を伺っていた。千賀子は草むらにしゃがみこんで、意味があるようなないような手つきで草をいじっていた。僕は黙ったまま千賀子の側に行った。
「あのね、貴志くん・・・」と、千賀子がポツリと言い出した。
「私にはね・・・」
そこまで言って、千賀子は黙ってしまった。何か考ているようだ。僕も突っ立ったまま黙ってしまった。やがて千賀子は何かふっ切れたかのように顔をあげ、
「ごめん。なんでもないよ。変だね、私」
「別に。誰だって考えこんでしまうことはあるさ。でも俺は千賀子のこと好きだから、何があってもずっと一緒にいたいって思ってる」
あ、思わず言ってしまった。
千賀子は後ろ向きにしゃがんだまま聞いていた。
言ってしまったことが吉とでるか凶とでるかは分からなかったが、こうなったら何があっても前に突き進むしかないと思った。
「フェリーの待合室ですれ違った時から好きだったよ」
千賀子はしゃがんだまま何かもぞもぞとしている。あれ、泣いているのか?後からだとよく分からないが、そんな感じだ。
しばらく経ってから千賀子はパッと立ち上がり、
「貴志、お前運転遅いぞ、もっとスピード出せよ」
まぶしいくらいの笑顔を見せて、そう言った。
いつの間にか呼び捨てになってる。しかも命令調だ。でもまあいいや。千賀子が元気になったことだし、好きだって言ってしまった方が負けなのだから。僕も千賀子の笑顔が嬉しくて顔をほころばせながら、
「わかったわかった。じゃあこれからは飛ばすよ」と言った。
それから僕は千賀子の希望通りスピードを出した。
僕のバイクは一気に2速おとせば爆発的に加速する。冷静に見るとやはり125でしかないので速度の絶対値は遅いはずだが、フロントを浮かせエンジンがうなり爆煙をまき散らしながら加速するその体感速度は125の華奢なボディと相まって恐ろしく速く感じる。千賀子に「怖くないか」と聞くと、「大丈夫」とか言いながらはしゃいでいたので遠慮なくガンガン飛ばして行った。
時間はもう1時に近かったので、美瑛の町で適当なレストランに入った。
ちょっと遅めの昼食のあと、これからの予定を相談した。
千賀子の希望では、途中の展望台で一休みしてそれから麓郷には行きたいということだった。もう、たくさんの観光地に行けるような時間もないし、そう決めると早々と店を出た。
美瑛の駅に戻り、コインロッカーに預けていた荷物を引き取った。
二人分の荷物をなんとかリアカウルに括りつけようとしたのだが、リアカウルは狭いので、どうしてもグラブバーをまたいでリアシートにかかってしまう。仕方がないので、その状態で富良野の駅まで走ることにした。富良野でまたコインロッカーに預ければいい。それまでの辛抱だ。
千賀子のいう展望台は美瑛から富良野方向の美馬牛という町にあるらしい。そこまでの道は少し高台にあって見晴らしが良かった。どこまでも続く丘陵の風景が走りながら遠くまで見渡せた。千賀子は辺りをキョロキョロと眺めては「ホントきれいだねー」と連発していた。
「やっぱりバイクで良かったよ。車だったらこんなに太陽の光も風の感じも草の匂いもわからなかったはずだよ」
バイク乗り泣かせのセリフだ。僕は嬉しくなった。だから、ちょっとサービスしてやろうと思った。めぼしい道を見つけていたので、「ちょっと寄り道するぞ」と言って進路を変えた。
そのめぼしい道というのは、真っ直ぐな道が急な丘の斜面を駆け登っていて、ぷっつりと消えている。つまりその先は、開陽台へ行く道のように、下り坂になっているはずだ。
登りの手前でバイクを停めて、千賀子に言った。
「今からこの坂を全力で走るから、合図したら、ニーグリップ、つまり膝でしっかり挟み込んで、手を離すんだ。両手を広げて、そう、こんな感じで」
僕は大きく両手を広げて見せた。「何か変な感じ?」と言って千賀子は笑っていた。その言い方がおかしくて僕も笑いながら、「行くぞ」と言って、ゼロヨンでもするみたいに猛烈にスタートした。そして、全力で丘の上に駆け上がった。エンジンがうなりビリビリという振動が伝わってくる。車速はもう充分のっている。丘の頂上を越えたくらいで、スッとクラッチを切った。僕は合図して前傾姿勢をとった。
このクラッチを切るという技は長い上り坂を登ったあと、エンジンを冷やそうと下りでクラッチを切ってみて偶然発見したものだ。これをやると、エンジンの力に裏付けられた強力な推進力と剛性感がなくなり、125の華奢なボディのバイクはまるでその存在をかき消すように頼りなくなる。その後にすーっと落ちる自由落下のような感じがする。そして、わずかなタイヤノイズと、ピューピューというピュアな風の音だけが聞こえてきてくる。そこで体を大きく広げると、ゲル状の塊のような空気とぶつかって、まるで自分がふわりと風に乗って飛んでいるような感じがするのだ。
両手を広げていた千賀子が、後ろでさかんにはしゃいでいる。
「草の絨毯の上を飛んでる!」
内心怖がられたらどうしようと思っていたが、千賀子も気に入ってくれたようだ。それにしても草の絨毯の上を飛んでいるとは良く言ったものだ。波打つ丘陵の美しい風景を、そう言い換えてもいいかも知れない。
目の前には青空が広がっている。
丘陵は幾重にも重なり、その深い緑は風にそよいでいる。
そうした風景の中に、僕らを乗せたバイクが翼を翻した鳥のように吸い込まれていった。車速は今80くらいだ。名残惜しいが、直線も終わりなので、この辺で空の旅を終わらなくてはならない。坂を下りきったところでUターンしていると、「ねえ、帰り道でもう一回やろう」と千賀子が明るく言った。
とある展望台に着いた時には、もう2時を越えていた。
僕は自販機で缶コーヒーとオレンジジュースを買って展望台にあがった。千賀子は先にあがって風景を眺めているはずだったが姿が見あたらなかった。僕は、トイレにでも行ったのかと思ってしばらくその場で待ってみたが、戻ってくるけはいすらなかった。心配になったので探しにいくと、展望台下の人気のない端の方にいた。千賀子は手すりにもたれて風景を静かに眺めていた。僕はこどものいたずらのように後からおどかそうと思って抜き足差し足で近づいていった。あと3歩というところで千賀子のつぶやきが聞こえてきた。
「・・・すごくきれいな景色だよ。淳にも見せてやりたいよ・・・」
僕の足が止まった。
千賀子は、何を誰に言っているのだろう。ひょっとすると、失恋相手に言っているのか?
僕の気配に気づいたのか、千賀子は振り返って僕を見た。その頬には一粒の涙が伝っていた。千賀子にとって僕の出現はあまりにも唐突だったのだろう。あわてて顔を隠して涙を拭おうとした。
二人の間に冷たい風が吹き抜けていった。
僕は見てはいけないものを見てしまったと思う。だから、
「あ、ごめん!千賀子はオレンジジュースだったな、間違えた。また買ってくるよ」
僕はその場を離れた。僕はもう、他人の心の風景に踏み込みたくなかった。
それから僕らは展望台を後にして富良野に向かったのだが、千賀子は随分無口になっていた。そっけなく、道の指示だけをした。
それにしてもさっきまであんなに元気だったのに、何故いきなり泣いていたのだろうか。もし仮に僕の予想通りに千賀子は失恋旅行をしているとして、あんな風に泣いたりするものだろうか?もっと深刻な問題なのかも知れない。
とりあえず僕は何も言わず、千賀子の言う方向にバイクを走らせた。
麓郷の観光施設に着いた。
一通り見物してから喫茶店に入り、一休みした。千賀子は店員に何かを尋ねている。僕は一人でコーヒーをすすっていた。やがて千賀子は戻ってきて言った。
「ねえ、行ってみたいところがあるんだけど・・・」
あと1時間もしないうちに日暮れだが、僕はうなずいた。千賀子の行ってみたいところというのは、麓郷の先にある丘のことらしい。
日は随分傾いて、辺りは黄金色に包まれていた。
涼しいというより寒さを感じる風の中を走って行った。
丘に向かう細い道の両側には草原が広がっていて、強い風に曝された草はまるで波のうねりのように揺さぶられている。
千賀子は後席で何も言わず僕にしがみついている。
千賀子の言う丘に着いた時には、もう夕焼け空になっていた。
風はさっきから強く吹いている。
千賀子はバイクを降りると、2・3歩歩いてかがみこんだ。見つめる先には2本の木があった。その木は頭に丸い枝葉を載せたようなかたちをしていて、わずかな距離をおいて並んでいる。
何故千賀子がここに来たかったのか、それはわからない。ただ、何事か思い詰めているのは確かだ。こんな時、僕はどうしたらいいのだろうか?このまま黙っている方がいいのか?それとも、何か話しかけた方がいいのか?わからないから、そのままの時間が流れて行った。やがて、千賀子は立ちあがって僕の方に振り返り、無理につくったような笑顔を見せて言い出した。
「ごめんね、貴志くん。何か変だね、私。もういいから、帰ろ」
後から考えると、その時僕はまた不用意なことを言ってしまった。
「もういいの?せっかくだから記念にこの木に名前を彫りつけていこうよ。こっちが千賀子の木で、向こうが俺の木。どう?」
それは、最初にこの2本の木を見た時からひらめいていたアイディアだった。それを、つい口に出した。僕は千賀子の木に近づいてバイクのキーで樹皮に名前を刻もうとしたがうまくいかなかったので、車載工具のドライバーを使おうと思った。それで振り返ると、僕とバイクの間に立っている千賀子が呆然とした様子で突っ立っている。
つるべおとしのような夕日は、既に茜色の残光を残すのみだった。
「まいったな・・・」
千賀子は顔を伏せた。
「なにが?」
「どうして、貴志くんまで同じ事を言うのかなあ・・・」
「え?何、それ」
「彼もね、同じ事を言ったんだよ。こっちが私の木で向こうが俺の木だって」
千賀子は何を言っているのだろう?彼って誰?失恋相手のことか?
「あなたは似ているのよ、彼に。それに、何故同じことまで言うの?ねえ、何で?」
そんなことを言われても僕にはさっぱり何のことだかわからない。少なくとも僕は誰かの代役らしい。それはそれでかなりショックだ。初めて会った時から何かうまくいきすぎるとは思っていたが、それにしてもそんなことを、わざわざ言わなくてもいいじゃないか。
その不愉快な気持ちを、以前の僕ならそのまま投げたに違いない。
でも、今は違う。
「千賀子、聞いてもいいか?」
千賀子は考えている、というか、言うか言わないか迷っているようだ。
僕は千賀子が言えば聞くし、言わなければそっとしておくつもりだった。
ふたりはしばらくの間沈黙したが、やがて千賀子はその重い口を開き始めた。
「中学2年の時だったんだ。私が神戸に行ったの」
「ああ、それは聞いたよ」
「でね、周りはみんな関西なまりだし、東京から来たってことでちょっとクラスの中で浮いた存在だったんだ」
ありがちな話だと思った。僕も留年生ってことでかなり浮いていたし。
「そんな時にはじめから親切にしてくれたのが、淳だったんだよ」
さっきの千賀子の独り言に出てきた名前だ。
「淳は親切だし、優しいし、いつの間にか私も彼のこと好きになってつきあい始めたんだ。バイクもね、彼が好きだったの。免許取り立ての頃は本当にヘタでね、何回もエンストしたよ」
僕には、ふたりの楽しげなシーンが目の前に浮かぶように想像できた。千賀子は僕に背を向けてしゃがんだ。
「北海道もね、淳の憧れだったんだ」
何故そこが過去形になるのだろう。ちょっとした疑問が僕の頭をよぎった。
「テレビドラマ見て感動して、主人公は俺と同じ名前なんだよって言って、行ってみたいなあって口癖だったの・・・ここも、北海道のこと知りたくてバイク雑誌で文通仲間見つけて、とっておきのいいとこだって教えてもらったところなの」
「淳は言ってたの。高校を出たら必ずおまえをここに連れていくからなって。文通仲間の人から送ってもらった写真を見ながら、こっちがおまえの木であっちが俺の木だって・・・」
僕にはある予感があった。迷ったけれど、そこが分からないと本質が見えないので思い切って聞いた。
「千賀子、淳君はどうした?もし差し支えないなら教えて?」
千賀子は沈黙した。
しばらくたってやや涙声でポツリと言った。
「彼はね、もういないの」
僕の予感は当たっていた。でも、しかし、僕らのこの年齢で亡くなるなんてこと、そんなこと、誰だって受け入れられるものじゃない。
千賀子はしゃがんだまま小さな声で言った。
「いきなりだったんだよ。何のお別れも言ってなかったんだよ」
千賀子の頬を大粒の涙が流れ落ちた。
止めどもなく溢れ出るその涙を隠そうと、千賀子は両手で顔を覆い、うつむいた。嗚咽の声が、僕の心に響いた。
それが、時々見せる千賀子の“ワケあり少女”の原因なのだ。
無理もない。この小さな体で、まだ20にもなっていないのに、あまりにも重たすぎる現実だ。
淳君はもともと心臓に持病があった。でも日頃はそんな素振りも見せない活発な男の子だったらしく、亡くなるまで千賀子も知らなかったそうだ。
高校2年の初雪の舞い落ちる、とある冬の晩に、普段どおりに眠りについたまま、二度と目を覚ますことはなかったという。
「青葉がね、言うの。お兄ちゃんが夢の中でお別れにきたよって。ごめんなって。ずっと見守っているから幸せになってくれって。でもね、私の夢の中には来てくれないし、どうしたらいいの?私は・・・」
千賀子を励ます言葉をいくつも考えてみた。でも、どんな言葉も千賀子の抱える現実の前にはあまりにも虚ろなもののような気がして、僕は何も言い出せなかった。
僕は千賀子の隣に腰を下ろし、その細い肩を抱き寄せた。
目を真っ赤にして、時々ぐすんと鼻を鳴らすことしかできなかった。
茜色に染まる丘の上には、ただ、風が吹いていた。
完読御礼!
ありがとうございます。
次回はいよいよ最終章です。ご期待ください!
*この作品は「エブリスタ」にも掲載しています。