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あの暑い夏の陽に  作者: 神瀬尋行
5/7

第五章 風の吹く丘  第六章 瀬川千賀子

読んでいただいている方には本当に感謝しております!


1980年代。夏。北海道ツーリング。

物語はいよいよ終盤、Boy Meets Girlのメインステージに突入です。

ヒロインはどんな想いで北の国へやってきたのか、そのファイナルに向かう部分です。

どうぞお楽しみに!

第一章少年の日


第二章憧れの大地へ


第三章旅するものたち


第四章 こころの風景


第五章 風の吹く丘(今回はここと)


第六章 瀬川千賀子ここです


第七章 風の吹く丘で


最終章 あの暑い夏の陽に



第五章 風の吹く丘


 翌朝、目が覚めると、傷の痛みがきれいにひいていた。あの温泉が効いたらしい。さすがに“仙人”のいうことは霊験あらたかだなと苦笑いした。昨日の疲れも残っていないし、それに、千秋さんの手紙が僕にも勇気をくれたのかもしれない。心身ともに充実している。「さァ!今日も走ろう」と心が躍った。

 まだ寝ている伸彦を起こさないように、テントの外に出てみた。今日は抜けるような青空が広がっていてとてもいい天気だ。大きくひとつ深呼吸をした。そして、顔を洗うために水場の方へ歩いていくと、例の仙人さんが自分のオフロードバイクの前で出発の準備をしていた。今日も早速釣りに行くのだろう。

「おはようございまーす」

 僕が声をかけると仙人さんは気づいて振り返り、あの人なつっこい笑顔を見せながら聞いてきた。

「どうでしたか?温泉。効いたでしょう?」

「おかげさまで、もう痛みがひきましたよ。これから、釣りですか?」

「ええ。昨日は遅くなったので今日は早めに行こうと思って。みなさんはどちらへ?」

「今日はここを引き払って、とりあえずカムイワッカへリターンマッチを挑むつもりです。それからは、摩周湖とか開陽台とかに行くつもりです」

「ああ、それならもうお別れですね。みなさんによろしく伝えてください。それに、カムイワッカには注意してくださいよ。道も悪いし、あそこの温泉は強烈だから」

「え?何が強烈なんですか?」

「それはまァ、行ってからのお楽しみです」

 仙人さんはそう言って笑った。またちゃめっけを発揮しているなと僕は思った。教えてくれてもいいのに。まあ、命までとられることはないだろうから、別にいいけどと思っているとやがて準備が終わったようで、「それではお気をつけて!みなさんによろしく」と言いながら出発して行った。

 顔を洗ってテントに戻ると、みんな起きていて、お約束のラーメンづくりの準備をしていた。

 北海道にはとんこつラーメンのインスタントがなかったので、ずっとしょうゆかみそラーメンを食べている。僕らは、こんなことなら九州から持ってくればよかったと後悔したのだが、ないものはない。あきらめるしかない。

 九州では、どこの地域もほぼ、とんこつラーメンで、それぞれにすごく特徴がある。だから、昔、“九州一周ラーメン食い倒れツーリング”なるものを決行したことがある。細麺の博多長浜ラーメンを皮切りに久留米・熊本・鹿児島・北九州と、「うまい」という評判の店は殆ど行ってみた。さすがに最後にはラーメンの油で胸焼けしたものだったが、今となっては手の届かない遠い世界のごちそうのように思えて、どうにもならないもどかしさを感じた。海外旅行に梅干しを持って行くという人の気持ちが分かるような気がする。どうせそのうち帰るのだからと分かっていても、こと食べ物については、割り切れないものがあると思いながら、しょうゆラーメンを食った。

 食後に、コーヒーを飲んでいると、何やら友紀がこっそりと思い出し笑いをしている。「ハハーン」と僕にはすぐにその意味が分かった。原因は間違いなく里美さんの手紙だ。この様子だと相当うれしいことが書いてあったのだろう。それにしても不思議なものだな。と思った。遠い土地に住んでいて一生縁もゆかりもなかったはずの他人同士が、こんなに広い北海道でめぐり会い、お互いに不思議なエネルギーを与えあっている。僕のとなりで鼻の下をのばしている友紀がいい見本だ。

「めぐり会い、か・・・」

 そうつぶやいて、僕は両手を枕に、仰向けになって寝ころび、青空を見上げた。空にはのんびりとした雲が浮かんでいる。テントの周りの木立からさわやかな風が吹いてきた。

 そう言えば、あのフェリーの女の子は今どこにいるのだろう。2週間くらいは北海道にいると言っていたが、またどこかでめぐり会えるといいな。というか、「会いたい」。千秋さんに指摘された時、僕ははっきり気がついた。僕はあの子が好きなのだと。あの時、僕の頭に浮かんだイメージは、ちょうど今のように爽やかな風が吹き抜ける草原であの子が笑っているというものだった。何故草原だったのかはわからない。僕は海の上であの子に会ったのに。思い当たるとすれば、昔から僕の北海道のイメージにある丘陵と、あの子のイメージが重なっただけなのだろう。

 まったく、朝っぱらから、ラーメンにしてもあの子のことにしてもどうにもならないことを考えてしまった。とにかく今日は余計なことを考えないように気合いを入れて走ろう。


 僕らはにキャンプ場を引き払い、カムイワッカを目指した。

 昨日は気づかなかったが、途中の知床横断道路は、コーナーの連続する面白い道だった。今日は睡眠も足りているし、けがの影響も殆どないので、コーナーを攻める余裕があった。ありがたいことに、僕のバイクもどこも壊れてなくて、今日も快調そのもの。坂道の上に広がる青空に吸い込まれるように走っていった。

 さて、因縁の砂利道にやってきた。

 ここの怖さは昨日充分わかった。

 僕らはとにかく気をつけて走ろう、くれぐれも無理をしないようにとお互いに確かめてから出発した。昨日の事故は奇跡的な軽傷事故だった。あくまでもラッキーだったのだと僕は自分に言い聞かせた。2度も3度もラッキーはありえない。そう思うとわずかに緊張した。

 僕らは慎重に走って行った。友紀はもちろん大園も伸彦も。みんな口にはださなかったが昨日の事故を真剣に受け止めていたようだ。丁寧に、ひとつひとつのコーナーをクリアしていく。轍を読み、対向車を慎重にかわしながら少しずつ進んでいく。僕は事故を起こした張本人だったので、人一倍気をつけた。みんな無言で走り続けた。やがて、11キロもの砂利道を終え、カムイワッカに着いた時には、さすがにホッとした。まだ帰りもあるが、とりあえずひと安心だ。

 カムイワッカの前というか、カムイワッカは川になっているので道と川が出会うところといった方がいいのかどうかは分からないが、そこには既に多くのツアラーがやってきていた。見るとみんなワイワイ言いながら楽しそうに川の中を上流に向かって歩いている。上流に温泉があるのかと思って僕も川の中に入ってみると、そこが既に温泉だった。冷たい川の水の中にところどころ温かなお湯が混じっている。なるほど。こういうことだったのか。だから、大園がサンダルを買っておいた方がいいよ。と勧めていたのか。

 大園がさらに説明してくれた。この川の中を歩いて上流に行くと、ちょっとした滝があってその下の滝壺がちょうどいい湯船になっているそうだ。もちろん自然のままの湯船なので入るための安全な仕組みなどはないし、深いところは2メートルくらいあるらしい。当然、脱衣場もないので、その辺に服を脱いで適当に入るのだそうだ。そして、その滝壺よりもさらに上流にももうひとつ滝壺があって、そこからは見晴らしがいいという。

 僕らは一旦バイクに戻り、着替えを取り出し物陰で短パンにTシャツという身軽な服装に着替えた。水着を持ってきていればよかったのだが、ないので、今回は短パン姿で滝壺に入るつもりだった。

 僕らは4人連れだって、バシャバシャと水を切り、時に石ころに乗り上げてバランスを崩したりしながら川の上流目指して歩いて行った。冷たい水と温かなお湯が混じり合うのは不思議な感覚で、みんな面白がって歩いて行った。

20分くらい行った所に最初の滝壺があった。深くてきれいな緑色をしていた。僕らはTシャツだけ脱いで、貴重品の入ったウエストバッグとともに安全な場所に置いてから滝壺に入った。

「げえ!」

 僕は悲鳴とともに飛び出した。もう大丈夫だろうと思っていた傷にしみたからだ。というより、かなり痛かった。仙人さんが言っていた「強烈だから」というのはこのことだったのか。ここの温泉の成分はかなり濃いらしい。僕は身をもって堪能してしまった。そんな様子を見て三人は大笑いしていた。伸彦が、「おまえも大変やねえ」と笑いながら温泉を手ですくって顔を洗った。途端に、

「痛てえ!」と言って、目を押さえた。

「どうした?」と、友紀が聞いた。

「温泉が目に入った。そうとうしみるよ。この温泉は」

 僕はお返しとばかりに大笑いした。ここの温泉は仙人さんが言う通り、確かに強烈だった。傷にもしみるし、目に入っても相当痛いらしい。それでも、僕は温泉=しみる=傷に効く。と 単純に考えて、昨日と同じように不自然な格好でカバーしながら、我慢して湯船に浸かった。

 やや落ち着いてから辺りを見回した。

 この滝壺の上流は滝になっていて、温泉がごうごうと流れ落ちている。下流はもちろん今僕らが歩いてきた川だ。側面は両側とも傾斜のきつい壁になっている。そこからも温泉が湧き出ているようだ。何人かの人がその壁面によじ登ってさらに上流を目指している。傾斜がきついため、大変そうだ。滝の上からは、4人連れの水着の女の子たちが、こちらを覗き込むようにして様子を伺っている。おそらく上流から戻ってきたのだろう。そして、どうやって降りるか考えているようだった。彼女たちがどうするのか、興味があったので僕はその様子を見上げていた。一人は、滝の横側の岩場を伝って降りようとした。他の三人は側面の壁を降りようと思ったらしい。滝の岩場を降りようとした子は、足を滑らせたらしく、「きゃあああー」という悲鳴とともに、滝の水もろとも滝壺に落っこちてきた。側面を降りようとしたうちの一人も掴まるところを間違ったらしく、壁面にしがみついたままの4つんばいのような格好で、「いやあー」と叫びながらずるずると滑り落ちてきた。幸い彼女たちはけがをすることもなく、落っこちてきてからも照れ隠しのようにニコニコと笑っていたのだが、どちらにしても、大変なルートだと思った。一歩間違うと命が危ない。それでも、何人もの人が上流目指して登っていくところを見ると、余程上流の滝壺はいいのかも知れない。そう思うと僕も行ってみたくなった。

 やがて下流の方から二人連れの女の子たちがやってきて、僕らがいる滝壺には目もくれずに側壁を登り始めた。その様子を見つめていた大園が、振り返って僕ら方を見て、ニヤニヤしながら言い出した。

「今の子たち、水着じゃなかったよな」

 友紀が答える。

「うん。それが、どうした?」

「聞いた話によると、上流のもう一つの滝壺はここより人が少ないから、水着を持ってきてない女の子たちがすっぽんぽんで入ってくることがあるんだって」

「まじ?」

 さらにニヤニヤしながら大園が言った。

「行ってみようか?」

 僕らはなんの迷いもなく、行くことにした。

 実際に壁を登って見ると、下から見ていたよりもずっと大変だった。先ず、傾斜が思ったよりもすごいし、手足を引っかける突起物も少なかった。それに、壁面のあちこちから湧き出ている温泉がとても熱くて、そこに手をかけようものなら飛び上がりそうだった。先を行っていたはずの、さっきの女の子たちは、壁面の途中で止まってルート選びに迷っているようだった。大園は、そんな彼女たちを追い越して先に進み、そして、上の方から声をかけ、彼女たちにルートを教えようとした。うーん、今日の大園は妙に気合いが入っている。これはきっと、里美さんを友紀に奪われてしまった悔しさの裏返しパワーなんだろうと僕は勝手に想像した。

 それはそうと、この壁はやはり大変だ。壁面はつるつると滑るし、傷に温泉があたるとたまらなく痛い。僕には人のことをかまっていられる余裕などさらさらなかった。

 そんな調子でとにかく壁を登りきると、そこから先は、大きな岩があちこちにあるものの、普通の渓流のようになっていたので、ゆっくり歩いて行くことができた。僕らは川をジャブジャブと渡り、岩をまたいで上の滝壺を目指して歩いて行った。大園はすっかり女の子たちと仲良くなったようで、3人で後ろの方を話しながら歩いている。今日は彼に花を持たせたかったので、僕は、大園たちの輪の中には入らなかった。

 やがて、上の滝壺にたどり着いた。先客が5~6人いた。

 ここからの眺めは下の滝壺にくらべ、とても見晴らしが良かった。これだけでもわざわざ登ってきた甲斐があるというものだ。


 さてさて、お楽しみの入浴タイムとなった。


 僕らはさっきと同じ様にTシャツを脱いでウエストバッグとともに濡れそうにないところに置いて、今度は慎重に滝壺に入った。やはり熱いし、傷にもしみた。

 例の女の子たちはというと、下に水着を着ていたようだった。しかし、逆にその方がリラックスしてみんなで楽しくやれたのだから、これ以上を望むとバチがあたる。

 充分温泉に浸った後で僕らは降りることにした。

 例の壁は、降りる時の方が怖かった。油断するとあっと言う間に滑り落ちて行きそうだ。ルートを慎重に選びながら下って行った。


 カムイワッカの入口で僕らは女の子たちと別れた。彼女たちは車で来ていた。大園が、今まで見たこともないような笑顔でお別れを言っていた。

 僕らは再び物陰に行って着替え、出発した。次の目標は開陽台だ。

 本来の計画では、今日キャンプ場から直接開陽台に向かうはずだった。しかし、僕の事故のため再びカムイワッカにやってきたのでルートがちょっとジグザグのような感じになる。要するに遠回りになるのだが、「旅人のメッカなんだから絶対行くべきだ」という大園の強いすすめもあって開陽台を目指すことになった。

 僕らは一旦羅臼に戻り、国道を走って標津に向かった。そこから中標津へ行って開陽台を目指す。というのも、中標津から開陽台に伸びる直線の道がとても気分のいい道らしいのだ。北海道の中でも1・2を争う人気のある道路だという。何でも、日本の中でそういう風景を見ることができるのはその道路だけじゃないか、という大園の言葉に胸を躍らせながら走って行った。

 途中、標津の町から、野付半島へ寄り道をした。海に挟まれた頼りない一本道を走った。海からの横風も強かった。ところどころに湿原のような景色が見える。そこには、ちょうど人間の白骨のような白い幹の木が水と緑の上に浮かぶように突き出ている。今日は晴れていたので良かったが、これが曇りの日なら恐ろしく寂しい風景だ。あとで聞いた話では、この景色は海水の浸食によって年々変化していって、いつかは消滅してしまうかも知れないということだった。おおげさかも知れないが、消えゆく生命の悲鳴のような悲しさを感じる寂しいところだった。僕らは突端までは行かずにほどほどのところで引き返した。


 中標津に着いた。

 もう、お昼の時間はとうに過ぎていたので、ここらで昼飯にしようという話も出たが、開陽台に売店があるのでそこで買って食べようということになった。

 人間は多少食事の時間が前後しても別に困らないが、機械であるバイクはそうはいかない。北海道の田舎の道は交通量も信号も少ないので、例えば、100キロの道のりがあっても2時間もあれば余裕で走れる。(九州ではこうはいかない。ひどい時は100キロ走るのに4時間くらいかかることもある)だから、気分的にはたいした距離とは感じないが、ガソリンは物理的に減っている。道が良い分、燃費も伸びてはいるが、それも劇的に伸びるわけではない。僕ら貧乏なバイク小僧は、普段の暮らしでもメシ代けちってガソリン代にまわしているが、それは北海道でも一緒だった。


 僕らは中標津で給油を済ませて開陽台を目指した。

 大園に導かれるまま、よく分からない道道を走り、やがて、人気のあるという道路に入った。そこは真っ直ぐな道だった。緩やかな丘陵地帯を割るようにして道が延びている。ゆっくりとしたアップダウンが続き、先の方の道は空に消えている。つまり、そこから先はまた下り坂になっているのだろう。

見通しのいい直線の、割と平坦な所にきた時、大園が僕らに手信号のような合図をした。よく分からなかったが、どうもウイリーをしようと言っているように見えた。やがて大園はスピードを落とし、体勢を整えてからおもむろにウィリーを始めた。その横に行って伸彦もウィリーした。僕も伸彦の横に、僕の横に友紀が並びウィリーを始めた。4台は横一列に並んで、高々と前輪を持ち上げて走った。結構息のあったチームワークだった。

 やがて、遠くに対向車が見えたので僕らはウィリーをやめて普通の隊列に戻った。大園が僕らの方に振り返っては、白い歯を見せて笑っている。伸彦も友紀もピースサインを出しながら、結構うまくいった喜びを表していた。何故大園はいきなりウィリーを思いついたのかは分からないが、こういうばかなマネもあとあといい思い出になるのかも知れない。


 開陽台に着いた。

 駐車場にバイクを停めて展望台へ歩いた。

 展望台はそっけないコンクリート製の建物で、一階に売店があって二階の屋上が展望台になっている。早速展望台に登って風景を眺めた。そこからは、360度見渡せた。視界を遮るものはなく、遠くの地平線がかすんで見える。そう言えば、全方向の地平線というものをこんなにはっきりと見るのは僕は初めてだった。“地球がまるくみえる”と展望台近くのオブジェに書いてあるが、まさにその通りだった。

 駐車場から展望台を挟んで反対側を見ると、キャンプ場があった。多くのテントが建っていて、たくさんのバイクが停まっている。ここでもキャンプができるようだ。ちょっとした丘なので風が吹きさらしになっていて、とても寒い。それでも、こんなにたくさんのキャンパーがいるということはそれだけの魅力がここにあるのだろう。その魅力とは一体何だろうと、考えてみることみした。ここには、美しい木立も湖も、温泉もない。あるのは360度見渡せる風景だけ。うーん。これは難しいぞと思った。逆に言うと、風景の他には何もないのだ。しばらく考えて、ひょっとしたら、と閃くものがあった。この風景そのものが大きな魅力なのだ。忙しいスケジュールの中でここに来ただけなら、「地平線が見られて良かったね」というだけで終わったかも知れないが、腰を落ち着けてここから風景を眺めると、神様の気まぐれのような気象変化から生み出される雲の流れといい、太陽の光の具合といい、退屈なようで、千変万化するなかなか味のある風景なのかも知れない。それに、ここからは360度見渡せるので、日の出から日の入りまで眺められるし、美しい満天の星空も期待できるだろう。おそらく、ここが旅人のメッカと言われるにはそういう理由もあるのだろう。

 僕らは展望台を降りて、1階の売店に行った。遅い昼飯のパンと牛乳を買って展望台の下の芝生に座り込み景色を眺めながら食った。それから、今日のこれからの予定を話しあった。摩周湖にも行きたかったのだが、今日は諦めて、そろそろキャンプ場に移動しようということになった。屈斜路湖の和琴半島にあるキャンプ場だ。ここからはかなり遠いので、そう決まると早々と出発した。


 屈斜路湖も大きな湖だった。

 僕らはキャンプ場に着くと、駐車場にバイクを停めて、入口の受付でチェックインした。ここは国設のキャンプ場で有料だった。その分、無料のキャンプ場よりも設備がいい。受付で指定された区画へ行って、荷物を降ろしテントを張った。そして、夕食の準備を始めた。今日は、ちょっと贅沢しようということで、ここに来る前に近くのお店でパッケージもののジンギスカンの焼き肉と野菜と缶ビールを買ってきた。

 大園がお米と飯盒を持って来ているので、薪を受け付けで買って、ご飯を炊くことにした。北海道にきてから初めて、キャンプらしいキャンプになった。みんなで手分けして夕食の準備をした。野菜を切る係、炊飯係、ランタンの準備や食器の準備などの雑用係。辺りは黄金色の夕陽に包まれていて、爽やかな風が吹いている。周りのキャンパーたちも忙しそうに夕食の準備をしたりテントを張ったりしている。

飯盒から吹き上げていた水蒸気が収まり、ゴトゴトという振動もなくなってきた。そろそろご飯が炊けたという合図だ。それを見て、焼き肉係の友紀がジンギスカン焼き肉のパッケージを開けて、中身をラーメン用の鍋に移して炒め始めた。普通に焼き肉をするには、網とか炭とかがなかったために、鍋で炒めることにしたのだ。友紀のアイディアで、モヤシとネギも加えることにした。

やがて、準備が整った。

パッケージもののジンギスカンは調味料に浸かっていたのでそれをベースに野菜を加えて炒め、炊き立てのご飯にぶっかけるという、友紀考案の“特製・ジンギスカン丼”を中心に野菜サラダとビールが、地面の上にビニールシートを敷いた食卓に並んだ。急場のアイディアとはいえ、そのどんぶりものはうまそうな匂いがした。


 僕らのささやかな宴が始まった。

 それは、大園との別れを惜しむ宴だった。


 僕と友紀と伸彦は、伸彦の休暇という時間的な制限がある。伸彦は2週間プラスアルファという破格の休暇をもらったのだが、そろそろ帰りの行程に入らないといけない。だから、これから小樽を目指して走っていくのだが、そのルートは北海道での最大の目的地富良野にもう一度寄っていく。なにしろ前回は最北端を目指すために充分な富良野観光をしていなかった。だから、帰りにもう一度行ってみることを初めから決めていた。

 大園は、まだ北海道でゆっくりできるし、神奈川へも函館から恐山の方に渡って陸走して帰るので、これから道南の方を廻るらしい。だから明日の午前中、摩周湖と阿寒湖の観光を済ませたら、そこでお別れになる。

 友紀が、音頭をとった。

 4人は缶ビールで乾杯した。

 思えば、留萌の駅で知り合って、1週間ちかくを一緒に過ごした。知識が豊富でいろんな事を教えてもらった。僕らよりもひとつ年上で、頼りになる兄貴分だった。

 黄金色の夕陽を背負って座る大園の表情は良く分からなかったが、白い歯が笑っていた。隣で友紀が何やら笑わせているようだ。伸彦もお世話になったとしきりに言っていた。僕も事故の時本当に心配してくれた大園には感謝している。あの時の大園の顔はたぶん一生忘れないだろう。北海道ではいくつもの出会いがあって別れがあった今また、こうして大園ともお別れするのかと思うと僕は胸に熱いものがこみあげてきた。うかつにも熱いものが頬を伝おうとした時、風が吹き抜けていった。おかげで僕はゴミが目に入ったフリをして目をこすった。


 ときおりいたずらな風の吹く、黄昏時のことだった。


 キャンプ場から道を挟んだ向こう側の湖畔に温泉があるというので、夕食後散歩がてらに歩いて行った。もうとっぷりと暮れていたのでよく分からなかったが、捜してみると、湖に流れ込む小さな川があって、それが温泉のようだった。手を浸けてみると結構熱い。でも僕らは熱い温泉には慣れたつもりだったので入ることにした。周りに多くの人がいたのだが、辺りはもう暗くなっていることだし、お構いなしにタオル一枚のすっぽんぽん姿になった。

 先ずは足を浸けて除々に慣らしていこうとしたのだが、想像以上の熱さだった。それでも、すっぽんぽんになっていたので温泉に入っていないと様にならない。ぶらぶらしているだけなら、ただの猥褻物陳列罪男になってしまう。しかも、4人も。僕らは困ってしまって顔を見合わせた。しかし、窮地に追い込まれると人間不思議な知恵が湧くもので、僕は、試しにお尻から温泉に浸かってみた。多少傷にはしみたが、熱さの方は我慢できないほどではなかった。その様子を見てみんな真似して入ってきた。なぜ、お尻から浸かってみたのかというと、実は、手足は北海道の夜の寒さで結構冷えていたのに対してお尻から腹にかけては体温が奪われていなかった。ということは温度差が手足に比べて少ないはずだからイケルのでは?と思ったのだ。それに、陳列罪になりそうな部分を早く隠したかったという気持ちの働きもあった。

 僕らは足を川縁の石に載せるような格好をして4人並んで、温泉に浸かった。

 見上げる夜空には、冷たい月が輝いていた。


 翌朝は、早くから出発した。

 今日はハードスケジュールが予想された。

 先ず、摩周湖を見物して、阿寒湖へ行って、大園と別れたあとは、北上して北見から層雲峡を抜けて一気に旭川へと向かう。かなり強行軍だ。

 昨日とは打って変わってあいにくの曇り空だった。「この分じゃ、摩周湖は見られないかも知れないぜ」と大園が言っていた。晴れた日の摩周湖を見られる人は相当運がいいらしく、“早く結婚できる”などと言われているらしい。僕は結婚なんてどうでも良かったが、その透明度日本一といわれる美しい湖は是非見たいと思っていた。

 僕らは屈斜路湖沿いを走っている。途中様々な観光スポットがあったが早朝だったので閑散としていた。

 やがて、国道に乗り入れ、しばらく走って、摩周湖の周遊道路に入った。摩周湖は山の中にあるらしく、道路は上り坂になっていた。

 途中から、案の定霧が出てきた。『霧の摩周湖』という歌があるように、このあたりにはよく霧が出るらしい。おかげで視界が極端に悪くなった。前をいく伸彦のテールランプがやっと見えるくらいだ。コーナーも多かったので、僕らは慎重に走って行った。

 やがて、摩周湖を見下ろすことができるという展望台に着いたのだが、霧のため何も見えなかった。摩周湖を示す案内板だけが、寂しく霧に浮かんで見えた。伸彦が、

「霧の摩周湖じゃなくて、霧が摩周湖だな」と、残念そうに冗談を言った。

 ここで待ってみても、霧は晴れそうになかったのでさっさと移動することにした。

 下りの道も霧がかかっていて、視界も悪いし、コーナーも多かった。センターラインの黄色い線と、前をいくバイクのテールランプだけが頼りだった。

 山を下りきる一歩手前で、霧はおさまった。

 弟子屈の町に降りてきた。そのまま国道241に乗り、阿寒湖を目指した。途中ちょっとしたワインディングロードがあったが、小一時間ほどで阿寒湖に着いた。

 阿寒湖の辺りは一大観光地になっていて、僕らのような貧乏ライダーにはちょっと近寄りがたい雰囲気があった。朝早い時間だったが、この町もぼちぼちお目覚めのようだ。阿寒湖と言えば、湖畔に湧くカムイボッケと、それから、何と言っても、マリモが有名だ。

 伸彦は、妹からお土産にマリモを頼まれていたので、土産屋が開くまで待つことにした。僕らは適当な場所にバイクを停めて、周辺をぶらぶらと歩いた。緑ゆたかな町並みだった。カムイボッケにも行ってみた。それは、阿寒湖の湖畔にあって、温泉でいう泥湯のようなものが湧いている感じでぐつぐつと泡をたてては消えていた。

 バイクのところに戻ってきた時、大園が思い出したかのように、僕らに、大園のツーリングチームのステッカーをくれた。友紀がお礼に僕らのチームのステッカーをあげた。お別れの時がいよいよ近づいているんだなと実感した。

 やがて土産屋がぽつぽつと開き始めた。

 伸彦は透明の容器の中にマリモが二つ入ったお土産物を買った。マリモは、その名の通り、まりの様な形をした藻だった。よく見ると、なかなか愛嬌のある形をしている。

 阿寒湖での用事は済んだ。いよいよ出発しなければならない。

僕らは旭川へ。大園は道南へ。

大園が、最後に言った。


「さて、と。じゃあそろそろ行こうか」


 国道をしばらく走ると、僕らを左右に分ける分岐点が近づいてきた。僕らは右の国道240へ。大園はそのまま241へ。

 友紀が最後尾からパッシングをしてきた。おそらく、大園を呼び止めて、最後の別れの挨拶をするつもりだったのだろう。しかし、大園は停まろうとせず、いきなりウィリーをした。そして、左腕を高々と突き上げ、左こぶしの親指をたてた。

 僕らも反射的に左腕を突き上げ、親指を立てるポーズをした。その様子を確かめたかのように、大園はゆっくりと前輪を降ろし、そのまま振り返りもせずに、走って行った。 

それが、僕らと大園の別れだった。 

もう、二度と会うことも、一緒に走ることもないだろう。


 僕らは予定通り北見の町を過ぎ、層雲峡へと向かう国道に乗った。道はやがて山道となり、辺りの風景はだんだんと寂しいものになってきた。曇り空の下では白樺の林もその幹の白さが虚しく見える。「青空の下なら、華やぎのある白さなんだろうな」と思った。というか、今の僕の心境なら、どんなものでも虚しく見えるのかも知れない。大園との別れは意外なほど寂しいものだったし、今僕らは帰りの道を走っているのだ。今まではどんな道を走っても基本的には遠くに行く道だったので、それはもうイケイケ状態で気分も高揚していたが、これからは、1キロ走れば1キロ家に近くなる。そうなるとただの消化試合のようなもので、気分も乗らない。「もう旅も終わりなんだな」というマイナスの気分に支配されていた。道沿いには“キタキツネ牧場”なる楽しげな施設があったのだが、僕らは目もくれず黙々と山あいの道を走って行った。

 やがて辺りが薄暗くなってきた頃、先頭を走っていた友紀が道沿いにバイクを停めた。一休みするつもりらしい。

 道路の下の方は川になっていて、向こう側に厳めしい崖がそびえている。

 友紀が言うにはこの辺りから旧道に入っていったところに滝がふたつあるそうだ。とても美しい眺めだとか案内本に書いてあるらしく、行ってみるかどうか相談した。しかし、なにしろ旭川まではまだ遠いし、もう夕暮れなのでパスすることにした。

 一休みして僕らはさっさと出発した。

 層雲峡の温泉街の夕暮れ時のにぎわいを横目で見ながら走って行った。

 今晩の宿は旭川にあるユースホステルだ。今日は長距離の大移動なので、楽ができるようにと、泊まることにした。午前中に友紀が予約を入れた。夕食の時間には間に合いそうになかったが、とにかく、今日は気分も乗らないので早々とベッドに潜り込んでゆっくり休もうと思った。その分明日は、昔から僕のイメージにある丘陵地帯を見つけ出して、徹底的に楽しもう。

 僕は例によって、どこまでも続く草原を穏やかな風が押し渡るというイメージを想像した。

 その風景を見るために、僕は北海道にやってきたのだ。


 ユースホステルに着いた頃には、もう夜の8時に近かった。

 フロントで受付を済ませ、「さあ、さっさと風呂にでも入って寝よう」と思いながら荷物を部屋に入れようとした時、ペアレントらしい髭のオニイサンに声をかけられた。僕らが振り返って「何ですか?」と聞くと、

「うちのユースは、普段はみんな集まってミーティングをしていますが、今日は町内の盆踊りの日なので、そちらに参加してください」と言った。伸彦が「え?それは絶対ですか?」と聞き返した。

「できればお願いします。もうみんな行っていますよ」

 愛嬌のあるニコニコ顔で言われると、さすがに断りづらい。僕らは疲れていたのだが、それはまあ、僕らに限らずみんな同じか。と思い直して、

「じゃ、荷物を整理したら行きますから」

 正直、めんどうだと思った。しかし、噂にきくユースホステルのミーティングをやらされるよりはましだろうと僕らは話しあった。それにもう遅いのでぼちぼち行って、顔出し程度でやがて盆踊りも終わるだろう。僕らはのんびりと荷物を整理して充分時間を稼いでから、出かけてみることにした。


 ユースホステルから30メートルくらい離れた公園で、『納涼!盆踊り大会』が開かれていた。

 中央に櫓を組み上げ、そこから紅白の提灯が四方に伸びている。意外と本格的な盆踊りだった。町民はもちろん、ユースの泊まり客も参加してけっこう盛り上がっていた。

 櫓に組み付けられたスピーカーは、『炭坑節』をがなり立てていた。

 何で、ここで炭坑節なんだろう?あれはひょっとして全国区の歌だったのか?

 浴衣姿の人、鉢巻きをした小さな男の子、バイク乗りらしい連中、近くのおばあちゃんなど、気持ち良さそうに踊っている。そして、そういう踊りの輪を周りで眺めている一団もいた。盆踊りは既にクライマックスを迎えていて、踊りの輪の中には入れそうもなかったので、僕らも見物者の一団に入ろうと思って、様子を伺った。手に団扇を持って扇ぎながら楽しそうに見つめるおばちゃんとか、旅行者らしい女の子たちとか・・・

 そこで、僕の目線は急激にロックした。

 そこに、あの、フェリーで出会った女の子がいた。

 心臓の鼓動が最高潮に達した。 

 しかし、一歩も動けずに、僕は彼女を見つめていた。 

 彼女はリズムをとりながら、夢中になって踊りを眺めていたのだが、ふと僕の方に振り向いた。僕はあせった。

 彼女は、僕の顔を確かめるように見つめていて、やがて笑顔になった。

 僕も笑顔で、そして手を振った。

 彼女は僕に駆け寄り、そして僕の腕に抱きついて言った。

「ひどいよ。黙っていっちゃうんだもん」

 その顔は笑っていた。


 僕は、丘の上に吹き始めた風の、ざわめきのような胸の高鳴りを感じた。



第六章 瀬川千賀子


 彼女の名前は『瀬川千賀子』といった。

 僕が「せがわ」さん?と聞き返すと、

「にごらないの。せかわっていうの」と答えた。

「千賀子でいいよ。私も貴志くんって言うから」とも言った。だから、これから「千賀子」と呼ぶことにした。

 盆踊りも終わり、さっきまでの喧噪が嘘のように静かになった公園の隅にある適当な遊戯具に二人並んで腰をおろし、盆踊りの後かたづけの様子を遠くに見ながら話していた。

 さっき、友紀と伸彦にも千賀子のことを紹介したのだが、二人は挨拶だけして他には何も言わず、ニヤニヤと不気味な笑いを浮かべて引きあげて行った。

 あれだけ会いたかった人なのに、ふたりでこうして話していると、やはり、どうにも照れくさく、それに、何から話していいのか、とっさには思いつかなかったのでしばらく名前の話題でこの場をつなぐことにした。

「千賀子って、どんな字を書くの?」

「えーっとね、百、千、万の千に、年賀状の賀の子」

「何か、おめでたい字だ」

「私はね、長女だからね。おめでたい名前になったのよ。たぶん。妹なんてかわいそうなのよ。両親は、私の次は男の子が欲しかったみたいで、男の子の名前しか考えてなくて、それで生まれたのが女の子でしょう、だから、名前を登録する期間内までにどうしても思いつかなかったらしいのね。それで、ぎりぎりになって役所に行ってもまだ思いつかなくて、たまたま、その窓から見える青葉がきれいだったからって、青葉ってつけられたの」

「青葉?」

「そう、緑という意味の」

「だったら、緑でも良かったかもな」

「そうでしょう?だからお父さんはいつも青葉にいじめられるの。どうして、それならみどりくらいにしてくれなかったの?って」

「それは、そうだろうなあ」

「いつもやられてて、お父さんもかわいそうだから、私とお母さんで青葉に言い聞かせたのね、青葉っていう名前もかわいいよって。たぶん日本でもそんなにいないだろうし、って。そしたら青葉、何て言ったと思う?」

「いや、わからない」

「だから、嫌なのよ。変わってるから!みんなでそう言うなら家出してやる!って言ってそのまま飛び出しちゃった」

「それはシャレにならないよ」

「うん。だからはじめのうちはみんな心配して手分けして探しに行ったけど、晩御飯の時間になるといつのまにか戻ってきていて、知らんぷりして御飯を食べるの。あの子もけっこうタフだからね。いつもそんなことの繰り返し」

「ふーん、大変だな。でも青葉ちゃんって、俺が思うに本当は正直ないい子なんじゃないかな」

「そう。うちの家族もみんなそう思ってるの。だから、本当に大変なことにはならないし、けっこうのんびりしているのよ、うちは」

「歳はいくつちがうの?」

「ふたつ。だから高二」

「あれ?じゃあ千賀子って、俺よりひとつ下?」

「もうー、何聞いてたの?フェリーの中でそう言ったじゃない。今年東京の大学に入ったって」

 確かに、フェリーの中で千賀子はそう言っていたような記憶がある。家族は両親と妹の4人で、父親が商社に勤めているため転勤になって、中学の頃から神戸に住んでいる。もともと地元は東京らしく、父親もあと2年もすれば東京に戻れるらしいので、大学は東京にしたそうだ。

「ごめん。俺、高校留年生だから、勘違いしてた。時差ボケみたいなものだな」

「ふふふ、その話、確かにフェリーの中で聞いた。しっかりしろよ」

 千賀子は僕の肩を軽くたたいた。

「ごめん」

「別に謝らなくてもいいけど、これからプーくんって呼ぼうかな?」

「それは勘弁してください。一応浪人なんだし」

 そう言って、僕が苦笑いしていると、千賀子はいきなり閃いたかのように、目を輝かせて言った。

「そうだ!もし大学に行くのなら、東京の大学にこない?」

「東京・・・」

 正直、僕は考えてもいなかった。地元九州の狭い範囲にしか目がいってなかった。確かに、東京ほどの大都会なら僕が捜している“本当に大切なこと”が見つかるような気もする。

「どう?」と、千賀子は、考え込んでしまった僕をのぞきこむように聞いてきた。

 千賀子が東京にいるのなら、それも悪くない。ただ、気がかりなことはあった。だから、ちょっとカマかけてみた。

「東京もいいけど、千賀子の彼氏とかと顔あわせたくない」

 僕はわざと千賀子を見ずに、遠くを見つめ、つぶやくように言った。千賀子は僕を見つめたまま、「彼氏はいないよ。今はね・・・」と言った。

 その表情は、はじめて出会った時のあの物憂げな表情に変わっていた。

 今、思い出した。僕の想像では、千賀子は失恋旅行のはずだった。僕は、また余計なことを言ってしまったのかも知れないと、ちょっと後悔したが、確かめておきたかった大切なところだったので仕方ない。

 ふたりはしばらく沈黙した。

 盆踊りの片づけの金属音が虚しく響いている。

 いつのまにか、雲の切れ間から、冷たい月が顔を出し、こうこうと輝いていた。

 僕は森崎のことがあってからこういうふうに輝く月は冷たいものだと感じるようになっていた。そのことが思わず口に出た。

「冷たい月だな・・・」

 しばらく間をおいてから、千賀子が言った。

「そう?私には、あたたかな月に見えるよ。久しぶりに見る、あたたかな月にね・・・」

 僕には、その言葉が意味するものはよく分からなかったが、千賀子が僕に、少なくとも友達程度の好意は持っていることだろうということが分かった。フェリーの中で知り合って、たった一日一緒にいただけの間柄だったが、僕は千賀子のことが好きなのだし、こうして二人で寄り添って見上げる月は、なんだかあたたかなものに思えてきた。

「でも、黙って行っちゃうのはやっぱりひどいよ」

 千賀子はちょっとむくれた。

「ごめん。相当捜したけど人ごみがすごくて分からなかったんだ」

 話の蒸し返しなのだが、ここはひたすら謝らなければならないところだと思った。何か誤解があるのなら、絶対取り除かなければならない。

「ターミナルでバス待ちしてる時に、私、貴志くんを見つけたんだよ。だから走っていったのに、貴志くんたちはそのまま行っちゃうんだもん」

「え?ホント?気づかなかった」

「えーそれはないよ、だって貴志くん、ちらっと私の方を見たんだよ」

 そんなことがあったのか。だとしたらそれは誤解ではなく、事実なのだろうから、余計に面倒だ。

「本当に気づかなかったんだ。ごめん、謝るよ」

 僕はひたすら謝りとおすことに決めた。その様子を、千賀子はむくれた顔で見つめていたがやがて、

「じゃ、許してあげる。その代わり明日は一日私につきあってよ」

 そう言って笑った。

 また女の子にハメられたのかと思った。でも僕は千賀子が好きだから内心嬉しかった。問題はあの不気味なニヤニヤ笑いをしていた友紀と伸彦だ。場合によってはどうなるかわからない。

「明日、どこ行くつもり?」

「明日はね、美瑛の丘めぐりをするの」

「美瑛ってどこ?」

「えー、知らないの?フェリーの中で貴志くんが見たいって言ってた丘陵地帯のイメージはね、あれはたぶん美瑛の丘のことだよ」

「え?あれ?富良野じゃないのかなあ」

「うん。富良野にもきれいな風景があるらしいけど、でも、タバコのCMとかいったらそれは美瑛だよ」

「へえーそうなのか。どうりで富良野で分からなかったんだな。で、ここからは近いのか?」

「うん。ここから富良野に行く途中なの。だから、明日は美瑛の丘めぐりをしてそれから富良野に行きたいの」

 そう言えば、それで友紀が今日は旭川に泊まろうと言っていたような気がする。ということは僕らの予定と千賀子の予定は一緒だからたいした問題ではないだろう。

「どうなの?明日は?」

「OKだ。一緒に行こう。他の二人には適当に言っておくから」

「よかったー、丘めぐりするのに、レンタルサイクルじゃ、上り坂とかちょっときつそうだなって思ってたから」

 あ、そういうことなのか。僕と一緒にいたいというより、バイクの方が楽だからなんだ。うーん、やっぱり女の子はちゃっかりしている。でも、僕は千賀子が好きだから、アシでもなんでもかまわない。

「あ、もうユースの門限だよ。帰ろう」

 そう言うと千賀子は立ちあがった。僕もゆっくり立ち上がり、ふたり並んでユースに向かって歩いた。

「でもね、本当によかったのはね、こうしてまた会えたことだよ。ひょっとして私貴志くんに嫌われちゃったのかとずっと思っていたし・・・」

 いきなり千賀子はそう言って笑った。

 僕は胸にズンと響くものを感じた。

 ひょっとすると、あとほんの一押しなのかも知れない。

「それは、ないよ・・・」

 僕はそう答えたが、その先がどうしても言えなかった。僕は千賀子のこと、最初に会ったときから好きだったということが。僕には、あと一押ししてみる勇気がなかった。無邪気な笑顔で千賀子は続けた。

「でね、貴志くん。これってすごいことだよ。もう二度と会えないだろうって思っていたから」

「俺もそう思ってた」

「そうでしょう?まるで奇跡みたいだね。青葉の言っていた“いいこと”ってこのことだったのかなあ」

「はァ?何それ」

「青葉はね、ちょっと変わった力があるんだ。感が鋭いっていうか、霊感が強いっていうか・・・」

 思わぬところに話がきたなと思った。千秋さんの時は三角関係だったし、この次は宇宙人でも出てくるかもしれない。でも、僕はもう何がきても驚かないだろう。だから、そこのところは適当に話を合わせてなるべく刺激しないようにしようと思った。

「そういう人って確かにいるよな。で、何て言ってたの?青葉ちゃんは」

「うん。ホントはね、北海道に来るのを迷っていたんだ。けど、青葉が、行けばきっといいことがあるから絶対行った方がいいって。お姉ちゃん、もういいんだよって・・・」

 そう言うと千賀子はドキッとするほど真剣な目で僕を見つめた。しばらく見つめ合ったまま沈黙した。前回の経験からしても、こんな時はヤバイんだ。だから何んでもいいから早く何か別のとぼけた話題ではぐらかした方がいい。何でもいい、早く、早くと僕はあせった。

「何?どうした?僕の顔にゴキブリでもとまってる?」

 とっさに出てきたのは、よりによって女の子に最も嫌われそうなお下品なネタだった。案の定千賀子は目を丸くした。僕の背筋に冷たいものが走り、後悔の津波がザーッと襲ってきては、サーッと引いていくものを感じた。しかし、やがて千賀子はプッと吹き出して、僕の肩を叩きながら言った。

「もうー、何ばかなこと言ってんのよ。いくらなんでもそんな訳ないじゃない」

 千賀子はケタケタと明るく笑った。

 彼女はよく笑う。最初の印象とはまるで別人だ。

 でも、やっぱりこうして明るく笑う千賀子の方がいい。


 朝起きてからいろいろと準備があった。

 先ずは例によってヘルメットを調達しなければならない。今日はこのユースには泊まらないので、ここで借りることはできない。だから、どこか近くの店で買うことになるのだが、ここは思い切って、高くてもいいヘルメットを買いたかった。

 僕らは50の原付時代から何度も転倒した。その度に最低限しっかりしたヘルメットを被ることの大切さを学んだ。ざっくりと大きな傷の付いたヘルメットを見たとき、「これがもしノーヘルだったら・・・」と身の縮む思いがした。自分の身は自分で守らないといけないのだ。もしもの場合に“待った”はない。それに「自分は運転がうまいから事故なんておこさないしありえない」などということは妄想にすぎない。その瞬間はいつどのようなかたちで襲ってくるか分からないものだ。だから、千賀子にもしっかりとしたヘルメットを被らせてあげたかった。僕の経済には大打撃だが、もう覚悟を決めた。しかし、さしあたって先立つモノがないので、訳を話して友紀に借りようと思った。

 朝食前、顔を洗って一服している友紀に、全てを話して借金の申し込みと、今日の予定の変更を頼んだ。友紀はニヤニヤしながら、

「いいよ。いくらいる?」と、簡単に応じてくれた。

「2~3万もあれば買えるんじゃないかな」

「じゃ、5万貸してやるよ。俺は別に使わないから」

「いいよ、3万くらいで。それくらいじゃないと返すのがきつくなるから」

「いいから、借りとけ。今日、俺たちはおまえとは別行動するから、もしものトキはお金かかるぞー」

「何だよ、もしものトキって」

「フッフッフッ、まあそれはいいけどさ」

「変な奴。でも貸してくれるならいい奴だよ。すまん。帰ったら何とかしてすぐ返すから、3万、頼む」

「いいよ。5万で」

 こうなったら友紀も頑固だ。全くの善意のつもりだろうから、この場合は友紀の言うとおりにした方がいいかも知れない。

「それに、なァ貴志。返すのは来年お前が大学にでも行ってからでいいよ。慌てて返さなくていいからな」

「はァ・・・?」

「いや、俺は正直言っておまえをツーリングに誘ったのはまずかったかなって思っているんだ」

「何で?」

「だって、おまえは一応浪人だろう?受験があるじゃないか。本来なら夏の大事な時期に遊んでいていいはずがないだろ?」

 そういうふうに僕は見られていたのか。周りはそんなふうに僕のことを心配してくれているのに、僕はなんてのんびり構えていたことか。我ことながら、恥ずかしくなった。

「とにかく、来年大学にでも行って、バイトでもして、それから返してくれればいいよ。帰ったら、おまえはいらんこと心配せずにちゃんと勉強しろよ」

 そこまで言ってくれる友紀に、僕はもう何も言い返せなかった。ありがたく、5万円をお借りすることにした。

 朝食の時、改めて千賀子を二人に紹介した。二人とも、相変わらずニヤニヤしている(と僕は感じたが、千賀子にはふつうの笑顔にしか見えなかったそうだ)。

 食後に、千賀子とふたりで打ち合わせをした。とりあえずヘルメットを売っていそうな店は10時くらいしか開かないだろうから、千賀子は元々の予定通り列車で美瑛の駅まで行く。僕は途中、ヘルメットを買って美瑛の駅に行く。そこで合流して丘めぐりをしようと決めた。

「貴志くんのと同じヘルメットがいいな」と、千賀子は笑いながら言った。

 僕のヘルメットというのは、当時最も人気のあったライダーのレプリカヘルメットで、白をベースに赤と黒のラインが入っている。まあ、ポピュラーなヘルメットなのですぐに手に入るだろう。

 打ち合わせが終わると、「じゃあ、私先に行っているからね」と言って千賀子は自分の部屋に引きあげていった。僕はユースの人に聞いてヘルメットを売っている店を教えてもらった。そして、荷物をなるべく少なくするために、友紀と伸彦に頼んで手分けして持って行ってもらうことにしたので荷造りが大変だった。それに、地図も持っていないので、友紀が持っている地図帳を書き写した。千賀子のおかげで本当に朝から大忙しだ。でも、相当気合いが入っていたらしく、伸彦に、「恋する男は違うな」とからかわれた。まさにその通りだった。不思議なくらい僕はウキウキしていて、気分もノッていた。

 今日は結局三人とも別行動しようということに決まり、僕ら3人の集合場所も打ち合わせて決めた。前にも行った富良野の鳥沼キャンプ場だ。そこに今夜は泊まる。もしものトキは友紀の実家を連絡先にしようということも決めた。僕が、「何だよ、もしものトキって」と言うと、友紀と伸彦が大笑いした。

完読御礼!

ありがとうございます。


次回もよろしくお願いします!


*この作品は「エブリスタ」にも掲載しています。

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