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あの暑い夏の陽に  作者: 神瀬尋行
4/7

第四章 こころの風景

いつもご高覧いただきましてありがとうございます!

1980年代北海道ツーリングの第四章です。

当時は多くの旅人たちがいて、みんな気さくにコミュニケーションしていました。

そんな中にも忘れられない人たちがいました。

みんな、それぞれの想いを秘めて旅をしたのです(と思います)。

今回はそんなお話です。

第一章少年の日


第二章憧れの大地へ


第三章旅するものたち


第四章 こころの風景(今回はここです)


第五章 風の吹く丘


第六章 瀬川千賀子


第七章 風の吹く丘で


最終章 あの暑い夏の陽に




第四章 こころの風景


 夕食のあと、この辺りの四季を写したスライドの上映会があるという。特にすることもなかったので僕らも参加した。

 さっきのジャージのおじさんが映写機を準備していた。実は、このおじさんが、ここのオーナーだった。準備が終わると、部屋の電気を落とし、スライドのランプをつけて上映会がはじまった。 おじさんが撮った写真らしく、一枚一枚自分で解説をしながら投影していた。

 スクリーンには、きれいな風景の写真が映し出されていった。春の流氷、夏の風景、真っ赤な珊瑚草が一面に咲き誇る秋の風景、そして美しい冬の雪景色。僕ら九州の者には、まるで桃源郷の風景のような気がした。だから、冬の季節にも一度は来てみたいね。などと話し合った。冬の厳しさとか恐ろしさとかを経験したことがないので無理もない。

 上映会が終わってからも僕らはミーティングルームで雑談していた。ひとつはこの民宿にある洗濯機の順番を待っていたし、もうひとつは例の“ホタテマン”の結果を知りたかった。それに、バイク乗りだけでなく、車とか鉄道とか色んな手段で旅する人達との話も結構楽しかった。中には、喧嘩しているような二人連れもいた。話を聞いていると、その二人(男性と女性)は、あの神々しい利尻山のある利尻島の民宿で知り合って、すっかり意気投合してここまで一緒に旅を続けてきたようだが、男性の方が自分の意見ばかり押しつけようとするので、女性の方が男性を嫌い始めていたようだ。二人の話を聞かされてそこまではなんとなくわかった。しかし何で僕がそんな、いわば夫婦喧嘩のようなものに巻き込まれてしまったのか分からなかったが、僕は例の睨みさえなければ、話しかけやすい雰囲気があったのかもしれない。それにしても、そんなに嫌ならさっさと分かれてしまえばいいのに。二人は男性の車で旅をしているらしく、女性の方としてはそれが便利なので別れられないのかもしれない。だとすれば、世の中の女はちゃっかりしている。そうこうしていると、お風呂からあがった祥子さんがやってきて伸彦に聞いた。

「明日はどうするの?」

 伸彦は「わからん」答えた。それはそうだ。ひょっとすると僕らは明日の朝はやく、船に乗って北海の漁師になっているかもしれないからだ。祥子さんは続けて聞いた。

「ねえ、もし明日何もなければ、私達をバイクに乗せてくれない?」

 横で聞いていた友紀が、聞き返した。

「いいけど、どこに行く?」

 祥子さんは、言った。

「サロマ湖の突端に行ってみたい」

 サロマ湖は、完全な湖ではなく、その真ん中あたりの一カ所が海に開いている。細長い陸地が両側から湖を抱きかかえる腕のように伸びてきていて、その突端の片方はバイクでも車でも近寄れないそうだが、もう片方はぎりぎり近くまでバイクで行けるそうだ。さっきの上映会の時に教えてもらった。なるほど、そんなへんぴなところなら鉄道はもちろんバスもないかもしれないので、車かバイクでないと行けないだろう。

友紀が僕らを見て、どうする?と目で聞いてきた。僕は漁師のバイトがなければ行ってもいいと思ったので、そう言った。伸彦もそう思ったらしく、立ち上がりながら、

「じゃ、もう一回どうなったか聞いてくる」

 そう言って、受付の方に行った。大園は2階の部屋にいたので訊ねていないが、特に異論はないだろう。伸彦と入れ替わるように、千秋さんと里美さんがやってきた。僕らの輪の中に入ると、里美さんが、ニコニコしながら言い出した。

「せっかくだから、網走の方にも行ってみたいな」

 僕は、あれ、すると反対方向になるから時間的に厳しくないかなと思ったが、友紀もつられてニコニコしながら「いいよ」と返事してしまった。やはり、男は女の子には甘いんだ。場合によってはこの民宿で2泊することになりそうだ。予算的に余裕のある友紀はいいだろうが、僕はギリギリなのに。とも思ったが、まあ、いいか。なりゆきの旅も。後のことはなんとかなるだろう。それよりも目の前の女の子たちと一日中遊んでられるのが楽しそうだったし。やがて伸彦が戻ってきて、言った。

「どうも、ホタテ漁のシーズンはもう終わったらしいよ」

 漁協に問い合わせたところそんな返事だったそうだ。これで、僕らの漁師デビューははなくなった。あとはもう、遊ぶだけ。その方がいいような気がした。


 翌朝はひどく寒かった。それに、どんよりと曇っていた。あの子たちが初めてバイクに乗るというのに、あいにくの曇り空とはこのことだ。

 朝食の時、網走まで行くのなら多分観光で一日が終わるから、ここにもう一泊した方がいいだろうということになった。この民宿も相当混んでいるが、僕ら4人分くらいなら今から頼んでも泊まれそうだった。女の子達は初めからもう一泊して今日は網走とこの周辺を回る予定だったらしい。うん。やっぱり世の中の女はちゃっかりしている。僕らはまんまとハメられたのかも知れない。まあ、別にそれはいいとして、問題は、女の子たちのヘルメットだった。今朝になるまで誰も気づかなかった。どこかその辺で買ってくるか、民宿の人に何かないか聞いてみるか。その辺といっても、近くにはヘルメットを売っていそうな店はなさそうだったので、民宿の人に聞いてみることにした。すると、民宿にふたつと、民宿のバイトの子のがあったのでなんとか3つ都合できた。

 やがて、例のオーナーが、「今から記念撮影するので全員外に集まってください」と声をかけて回っていた。この民宿の恒例行事らしい。僕らもとりあえず外に出てみると、

もうみんな並んでいた。バイク乗りは自分の愛車とともに。ハイカーは大きな荷物を背負って。それぞれポーズを取って、何組かに別れて撮影していた。僕らもバイクを並べて写真を撮ってもらった。


 朝10時を回った頃、僕らは先ず、サロマ湖の突端に向かって出発することにした。今日はとても寒いので厚着をしてくるようにと大園が女の子たちに言っていたため、みんな上着を着て来た。僕も友紀も冬装備のライダージャケット。大園ももちろん上着を着ていた。例によって伸彦だけが、トレーナー一枚の軽装備。「この寒さじゃ、死ぬかもしれんなァ」と自嘲気味に言っていた。実際、走ってみると相当寒かった。僕らバイク乗りは、バイクは、暑くて寒くてきつくて当たり前という気持ちがあるが、初めて乗る女の子達はどうなんだろう。僕は振り返って、後ろに乗っている千秋さんに聞いてみた。ちなみに、大園は先頭を一人で走って露払いをしている。次に伸彦が祥子さんを乗せて走っている。僕らはその次。最後尾から里美さんを乗せた友紀が走っている。エンジン音と風を切る音がうるさいので僕は大声を出した。

「ねえ、寒くない?」

「さむーい!」

 僕は「やっぱり」と思った。これでバイクが嫌いにならなきゃいいけどと思っていると、「だけど、おもしろーい!」と言ってきた。その一言で僕もなんとなく楽しくなってきた。


 僕らはサロマ湖の突端にある竜宮台というところを目指していたが、その途中にサンゴ草の群生地というところを見つけたので立ち寄った。里美さんが思いだしたように、

「ここに、昨日スライドで見たような真っ赤なサンゴ草が一面に咲くのかなあ」

 僕らも詳しくは知らなかったが、昨日の説明では9月から10月ごろということだったのを思い出して、「たぶん、あと一ヶ月もすれば」とあいまいに答えた。もう、ちらほら赤いのが見える。

「ここより、隣の能取湖の方がすごいらしいぜ。なんでも、日本一だって」大園がそう言った。里美さんは、

「いいねー赤い絨毯みたいで。見てみたいなァー。秋にも来ようかな」そう言って目を細めていた。


 僕らは竜宮台に着いた。途中の車止めでバイクを降りて、右手にサロマ湖左手にオホーツク海を眺めながらしばらく歩いてやってきた。結構な距離があったし、肌寒くもあったのだが、7人で色んな話をしながらのピクニックはなかなか楽しいものだった。

 しかし竜宮台は、どこかもの寂しいところだった。灯台がひとつポツンとあるだけ。向こう側の突端が見える。まるで切り離された恋人同士のようにこちら側と向き合っている。

風がピューピューという音をたてて吹き抜け、恐ろしく寒かった。千秋さんが腕組みをしたまま身を屈め遠くを見つめている。さっきまで元気だった里美さんも祥子さんも押し黙ったままだ。僕らは無言で辺りの風景を眺めていた。何故いきなりこんなことになったのかは分からないが、それはとても寒くて、そしてとても重苦しい時間だった。

 帰りに、あまりにも寒かったので道端の万屋のような商店に立ち寄った。店内では、ストーブを焚いていた。僕らは缶コーヒーを買ってストーブの側で飲んでいた。千秋さんがいきなりポツンと独り言を言った。

「寒いから、いいのよね。暖かいのが」

 それは、とても意味シンな言い方だった。祥子さんも、里美さんも、息をのむように一瞬千秋さんを見つめたが、やがて視線を落として黙りこんだ。さっきと同じ重苦しさがあった。僕も友紀も大園も訳がわからず沈黙した。そして、わずかな間をおいて、店内を物色していた伸彦が、「これだ!」と叫んでやってきた。僕らの不思議な沈黙は終わり、祥子さんが明るい声で伸彦に聞いた。

「ヤダ、それで何するの?」

 伸彦は弾んだ声で、答えた。

「これは風を通さないだろうから、着て走ったら暖かいだろうと思って」

 伸彦が持っていたのは厚手の黒い“ゴミ袋”だった。僕らはたちまち大爆笑。伸彦は、

「そんなに笑わんでもよかろうもん、俺はたいがい寒いっちゃけんね」と博多弁で言った。その言い方がおかしくてみんなはまた大笑いした。伸彦はボリボリと頭を掻いていた。 

 さて、ゴミ袋という秘密兵器を発見した伸彦のいでたちは、袋の底辺に頭を通す穴を空け、横に腕を通す穴を空けて頭から被った。そのままでは胴体のところが風でバタつきそうだったので余分な所を後ろに回してガムテープで固定した。「これでもう大丈夫だ!」と得意満面の伸彦。しかし、祥子さんは「恥ずかしい」と言っていた。伸彦は、

「じゃあ、大園さんの後ろに乗れ!」と言って怒った。祥子さんは笑いながら、

「ごめんごめん、怒った?しょうがない。我慢して乗ってやるよ」

 そう言って伸彦の後ろに乗った。伸彦が何かぶつぶつ言っていると、いきなり祥子さんに頭をはたかれた。そんな二人の様子がおかしくて僕らはプププと笑った。そして、次の目的地網走に向かって出発した。


 網走といえば、誰でもまず刑務所を連想するだろう。当然僕らも網走刑務所に行った。それは、国道沿いを流れる網走川の向こうにある。川の近くにバイクを停めて僕らは歩いて橋を渡り刑務所の門前までやってきた。刑務所というと、とてもいかめしいイメージがあるのだが、ここは見事に観光地になっていた。門前にはずらっとテントが並んでいて、そこでは土産ものを売っている。受刑者が作った木工製品などが並べてあって、見事なつくりのものもある。僕が思わずうまいなあと言うと、販売のオニイサンが、「じゃあ、この塀の中に入って作り方を勉強してきたら?入るのは簡単だよ。出るのは難しいけど」と笑いながら言った。

僕ら7人はそれぞれお土産物を物色したり、記念写真を撮ったりして小一時間ほどそこで過ごした。それから、網走の街の中をぶらぶらと散歩した。今日は何かのお祭りのようだった。街のメインストリートでは夜店が準備していた。その様子を見て、僕らはせっかくだから夜店をのぞいて帰ろうということになった。友紀が民宿に電話をかけた。事情を話して夕食をキャンセルした。網走に来る前にあちこち観光して回っていたので、もう夕方になっていた。その辺で食事でもしていれば夜店も始まるだろうということで、僕らは適当なレストランに入った。


 北海道は日暮れが早い。僕らの九州ではまだあかあかと陽が残る時間に、もうとっぷりと暮れている。こっちにきてからずっと夜に追いかけられるような気ぜわしさがあった(熊が怖かったから)が、その日ばかりは夜が楽しみだった。(夜店があるから)

 街のメインストリートはまばゆいばかりの電球に彩られていた。たくさんの夜店が並び、浴衣を着た女の子たちが下駄の音も高らかに繰り出していた。すごい、人いきれだった。祥子さんが伸彦と腕組みをして歩きながら、

「私も浴衣を持ってくればよかったわ」

と言っていた。僕らは7人でそぞろ歩きしていたのだが、いつの間にか伸彦と祥子さんはツーショットになっていた。友紀は友紀で、里美さんとイイ感じになっていた。その周りを大園がちょろちょろしている。

 そのうち、僕は千秋さんとふたりっきりになっていた。僕は別に千秋さんを意識していなかったが、こういう状況になるとなんとも照れくさい。ふたりはしばらくだまったまま歩いていた。何とか明るく振る舞わねばと思えば思うほど言葉が見つからなくてますますドツボにはまっていく感じだ。そんな時、不意に千秋さんが僕の手をとって、引っ張るようにりんご飴の屋台の前に連れていった。そして「ねえ、りんご飴買おうよ」と言って笑った。

 それから、僕らはりんご飴を頬ばりながら射的をしたり、金魚すくいをしたり、おみくじを引いたりと楽しんだ。おみくじは、僕は小吉だったが、千秋さんは大吉で、「旅行も吉、恋愛も吉よ」と言って喜んでいた。僕らはすっかり恋人気分になっていた。思えば高校を留年してからこっち、全くいいとこなしの僕だったが、この時ばかりは本当に楽しかった。でもそこが、落とし穴になるとは、この時僕は思わなかった。

 小一時間ほど遊んだ後で、僕らはバイクを停めている網走川の近くに戻った。祭りの喧噪からは随分離れていて、辺りには川の流れる音だけが聞こえている。まだ誰も戻ってきていないようだ。手持ちぶさただったので僕は近くの自販機で飲み物を二人分買ってきた。千秋さんは「ありがとう」と言って受け取ると、川沿いの手すりにもたれ掛かってふたを開けた。僕も隣で同じようにもたれ掛かって缶コーヒーを開け、一口飲んでから「みんな遅いな」と言った。

「私たちが早すぎたのかもよ。もっと遊んでくればよかったね」

「ああ、そうだね。ずっと待っているだけじゃつまらないし」

「祥子と伸彦くん、何かいい感じだったでしょう?このままじゃずっと待たされるかもよ」

「な、そう思うだろ?里美さんと友紀もそうだけど、友紀はいいんだよ。彼女いないし。だけど、伸彦にはいるからなァ。いいのか悪いのか」

 僕がそう言うと千秋さんは急に振り返って川の方を見つめた。そして、黙り込んでしまった。僕は、また例の重苦しいモードに入ってしまったかなと思った。やはり、千秋さんにもなにか事情があるのだ。やがて千秋さんは川の方をみつめたまま小さな声で言った。

「そのこと、祥子にはだまっていてね。ひょっとしたら祥子がつらい思いをするかもしれないから・・・」

 僕は無邪気にも千秋さんに対してすっかり恋人気分だったので、何か事情があるのなら、何か悩みがあるのなら、何でも聞いてやろうという気になっていた。ただ、僕は千秋さんについて何も知らないのだ。何と言ったらいいのか分からなかった。二人とも押し黙ったまま時間ばかりが過ぎていった。やがて千秋さんが言った。

「貴志くん、三角関係って結構辛いのよ」

「はァ?」

 というのが僕の正直な感想だった。何でいきなりそんなテレビドラマのような話になるのかと思った。言葉には出さなかったが。千秋さんは続けた。

「私たちは明日になったらもうお別れするの。だから知らない方がいいのよ、きっと」

 僕はちょっとカチンときた。何もそんな冷たい言い方しなくてもいいじゃないかと思った。恋人気分になって舞い上がっていた僕の心は急速にしぼんでしまった。妙に裏切られたような気がして、あとはもう、駄々をこねる子供のように千秋さんにつっかかっていった。

「何でそんな冷たい言い方するんだ?せっかくこうして出会って、今日一日一緒に遊んで、これからだって、地元に帰ってからだって、連絡を取り合ったっていいじゃないか」

「あのねえ、距離が離れたらもうお終いなの。そんなこともわからないの?」

 売り言葉に買い言葉のような感じになってきた。

「そんなことって、やってみないとわかんねーよ」

「分かるよ。私には」

 彼女の目は真っ赤になっていた。そこまで来て、僕には何となく千秋さんの状況が分かってきた。だから、これ以上刺激しない方がいいと思ったが、一度切れた千秋さんの感情の奔流はもう押し止めようがなくて、僕はただサンドバッグのように打ちのめされてしまった。


 千秋さんの話を総合すると、こういうことになる。

 千秋さんは高校時代につきあっていた男がいた。その男はクラスメイトで、卒業後名古屋の製鉄所に親戚のつてを頼って就職したそうだ。千秋さんは例の二人とともに信州の大学へ進学した。お互い距離が離れてしまったが、初めの一年は電話をしたり、千秋さんが名古屋へ行ったりして行き来があったが、二年目にはだんだんと疎遠になってきて、男の方からは電話もない。最近その男に名古屋で新しい彼女ができそうだという。新しい彼女がその男の部屋にいるのを目撃したりと、僕には想像もつかないような修羅場なのだそうだ。

「その辛さがあなたにわかるの?ねえ、分かるの?」

そう言って千秋さんは泣き崩れた。

確かにありそうな話だった。僕は不用意に千秋さんの心の傷に触れたことになる。僕はちょっといい気になって、なんてことをしてしまったのかと後悔した。開けてはいけない他人の心の扉をこじ開けて、のぞいてはいけない他人の、こころの風景をのぞいてしまったのだ。


 『芳香、おまえが言っていたのはこういうことなのか?だから、僕は子供なのか?』


 ひとしきり泣いた後で、千秋さんはやや落ち着きを取り戻したようだ。僕は千秋さんの肩に両手を添えて、どうしたらいいのか分からずにただつっ立ていた。


 やがて、みんなが帰ってきた。千秋さんはその頃にはもうすかり元気を取り戻していたようでみんなと賑やかに話しあっていた。というか、友達に心配させまいと努めて明るくしていたのかも知れない。僕にはそう感じられた。


 僕らはここに来た時と同じように分乗して民宿に帰った。

 千秋さんは僕の後ろに乗った。僕の背中に抱きつくようにしがみつき、その体は小刻みに震えていた。


 北海道の夜明けは早い。

 僕は誰よりも早起きした。というよりもなかなか寝付けなかったので正しく言うと、寝ていないのだ。うつらうつらとしながら、うかつで、しかも無邪気な自分を責めていた。僕は千秋さんの人生に責任を持てる立場ではないのだ。それなのに何故僕は火に油を注ぐようなことを言ってしまったのだろう。とにかく黙ったまま千秋さんの言うことを聞いてあげればよかったんじゃないのか?僕は取り返しのつかない大変なことをしてしまったのかも知れない。そう思うと僕まで泣きたくなった。

 そのうち外が明るくなってきたのでその辺りでも散歩しようと思って外に出た。寒くもあったが、辺りは、夏草の匂いがして朝独特の爽やかさがあった。大きくひとつ深呼吸をすると、重苦しかった僕の心も幾分軽くなった。

 民宿の前の一本道をぶらぶらと歩いて行った。歩きながら、さっきよりは幾分軽い気持ちで考えていた。僕にはいっちょ前のことを言う資格なんてあるわけないんだよな。ただでさえ僕は「子供」らしいし、高校という狭い世界からやっと出てきたばっかりだし。みんなこうやって、こんなに悩んで、大人になっていくのかなァ。さあて、それじゃどうするか?千秋さんにあやまるか?それとも知らんぷりするか。どっちにしても顔を合わせづらいのは確かだ。変にあやまっても千秋さんを余計苦しめることになるかもしれないし・・・そっとしとくのが一番かもな。このまま別れるのはちょっと残念だけど・・・などど、独り言を言っていたようだ。そんな時、後ろから、「わっ!」と驚かされた。驚いて振り返ると、そこに、千秋さんが笑いながら立っていた。

「あーびっくりしたァ」

 僕はコトのなりゆきのおかげでさっきまでの迷いがなくなり自然に話すことができた。

「ごめんごめん」

「どうした?こんな早くに?」

「この先のバス停にバスの時間を調べに行こうと思ったのよ。なんとなく早起きしちゃったから」

 千秋さんが指さす方を見ると、確かにあと200メートルくらい先にバス停があった。

「貴志くん、何か考え事していたようね。ぶつぶつと独り言を言っていたわよ。ひょっとして、昨日のこと?」

 僕は心臓が止まりそうになった。ここは何と言えばいいのか?もう、へたなコトは言わないぞ。と思いながらも僕はまごついていたので答えはバレバレだった。 

「もし、昨日のことなら、私はあやまらないといけないし、お礼も言わないといけないのよ」

「はァ?何で?」

 僕が言うと千秋さんはちょっと恥ずかしそうな表情を見せた。そして、

「あ、あそこに自販機がある、私買ってくるわ。貴志くん、缶コーヒーが好きなのよね。今度は私がおごるから」

 そう言って缶コーヒーを買いに行った。千秋さんが元気そうなのがちょっと意外な気もしたが、何にしても、まあ、良かったと思った。

「ホットがあったわよ。寒いからちょうどいいわね」と言いながら千秋さんが戻ってきた。

 僕らはバス停のベンチに座った。ホットの缶コーヒーを両手で持って、千秋さんが言った。

「寒いから、いいのよね。暖かいのが」

 それはどこかで聞いたセリフだった。どこだったかなと考えていると、千秋さんが続けて言った。

「このセリフはね、名古屋のアイツが言っていたことなの」

 あ、やっぱりそこに来るのか。と僕は思った。もう聞きたくないなとも思ったが、今日は僕の意見は言わないことにしよう。何でもうんうんと聞いてやる。

 千秋さんは笑いながら僕の顔をチラッとみて続けた。

「ごめん、ごめん。今日は泣かないから聞いてね。アイツはね、名古屋の製鉄所で働いているでしょう。何でも、なんとか鋳造機とかいう部署にいるそうなのよ」

「ナントカチュウゾウキ?」

「うん。そこでは、煮えたぎるお湯のようになったオレンジ色の鉄が大きな鍋から落ちてくるらしいのよ。だからすごく暑い部署らしいわ」

「うん」

「それで仕事してると暑い暑いって思うらしけど、休みになって外に出ようとすると建物の入り口からさーっと涼しい風が吹いてきてとても気持ちいいらしいの」

「うん」

「で、気持ちいいからずっと外にいるでしょう。そうすると、特に冬とかは名古屋も結構寒いらしくて、今度は寒い寒いって思うらしいの」

「うん」

「すると、今度はまた暑い職場の方がいいなって思うらしいの。アイツが言うにはね、人間って不思議だよなあ、暑いから寒いのが嬉しいし、寒いと暑い方が嬉しいし、って」

「うん」

「私は言ったの。そんなの当たり前でしょうって。そうしたら、アイツ、俺はじめて実感したよって笑っていたわ」

「うん」

「祥子も里美も、私に気を使って、アイツの話はしなかったの。私も二人に迷惑かけたくなかったし。だけど、やっぱり誰かに話したかったのかもね。私の話を聞いて欲しかったんだと思う」

「うん。あれ?え?」

「あのね、貴志くん。変な話かもしれないけど、昨日の事は多分私のわがままだったんだと思うの。誰かに私の気持ちを聞いて欲しいっていう・・・おかげですっきりしたし、気持ちの整理もついたわ」

 僕はそういう時って確かにあると思った。不思議なもので言ってしまえば本当にすっきりする。

「昨日あれから考えたのよ貴志くんには悪いことしたなって。私があやまらなきゃって」

「僕の方こそ悪いことしたなって思っていた」

「ごめんね。でもあれだけ泣いたし、わめいたし。もう大丈夫よ。」

 そう言う千秋さんの笑顔に嘘はなさそうだ。しかしまあ、あの利尻島の二人といい、千秋さんといい、やはり僕には話しかけやすい雰囲気があるのだろう。それに、当人たちから見ると、僕はなんの利害関係もない存在なのだし。そう言えば、千秋さんはこれからどうするんだろうと思っていると、

「私はやっぱりアイツのことが好きなのよ」

 千秋さんはそう言いながら立ちあがって二・三歩前に歩いた。そして遠くを見つめるように、更に言った。

「だから帰ったらまたアイツに連絡してみるつもり。どうなるかはわからないけれど」

 僕はその時思ったことを正直に口に出してしまった。

「強いな。千秋さんは」

 すると千秋さんはかろやかに振り返って、

「そうでしょう?何たって私はあなたより一つ年上のお姉さんなんだからね」

 そう言って、「うふっ」と笑った。昨日はあんなに泣いていたのに今日はこんなに元気だ。僕は女の子の気持ちはわからないけれど、泣くより、笑顔の方がいいと思った。

「でも、もしアイツに嫌われちゃったらどうしようかなー。その時は貴志くんに乗り換えようかなー」

「ああ、そんな冗談が言えるならもう大丈夫ですよ」

 急に丁寧語を使って僕は答えた。なにしろお姉さんだし。

「あら、冗談じゃないのよ。でも、やめとくわ。あなた好きな人いるんでしょ?女のカンでわかるのよ」

 そう言われても、とっさに僕は思い当たらなかった。あれ、誰のことだろう?芳香か?いや、森崎か?違う・・・そうか、今僕が好きなのは、あのフェリーで出会ったあの子なんだ。長い髪をなびかせて笑っているあの子のイメージがサーッと浮かんでは消えていった。何故か背景は草原だった。言われてみると、確かに僕はあの子のことが好きだ。だけど、もうどうしようもない人なんだ。そう思って深いため息をついてうつむいた。そんな様子を見て、千秋さんが、僕の肩をたたきながら言った。

「少年、恋の悩みなら、相談にのるわよ」

 顔を見合わせて、二人で大笑いした。


 僕らは民宿に戻った。すると、10人くらいの人がミーティングルームに起きてきていた。その中に伸彦と祥子さんがいた。祥子さんは僕らを見つけて、「千秋ィー」と声をかけ手まねきした。誘われるように僕らも、その人の輪の中に入った。

「祥子、一体どうしたの?」

「あれ?昨日話を聞いていなかったの?今から近くの牧場に行って乳搾りを見るのよ」

「そうだっけ?」

「もう、一体どうしたの?千秋も昨日一緒にいたじゃない。里美も友紀くんももう、おりてくるから一緒に行こう」

「大園さんはどうするんですか?」

 あ、僕はまた丁寧語を使ってしまった。

「うん、大園さんは行かないって」

 そう伸彦が答えた。なるほど。ということは里美さんをめぐる闘いは友紀に軍配があがったようだ。友紀は穏やかで優しいヤツだから、おっとりした里美さんとはお似合いかもしれない。大園が怒ってなきゃいいけど。などと考えていると友紀と里美さんが降りてきた。やがて、希望者全員が集まったらしく、民宿の車に分乗(分乗とピストン輸送)して、牧場に向かった。


 牧場は民宿のほんの近くにあった。それは小さな牧場で、牛が10頭くらい牛舎の中にいた。僕はこんな近くで牛を見るのは初めてだった。

民宿のみんなはぞろぞろと牛舎の中を見学させてもらって、それから乳搾りの様子を見せてもらった。いつの間にか伸彦と祥子さんの姿が見えない。どこにいったのかと思って辺りをみまわしたが、乳搾りが始まったので、僕の意識は乳搾りの方にいった。

 乳搾りといっても人間の手でやるものではなく、機械が使われていた。ボール状の透明な容器のなかにどんどん牛乳が流れてきている。それが終わると、僕らは今搾ったばかりの牛乳をごちそうになった。ちょっと薄味だったが、朝のさわやかな空気の中で飲む牛乳はなかなかうまい。隣で千秋さんが「おいしいね」と言って笑っていた。

 やがて帰りの時間になると、伸彦と祥子さんもいた。どこに行っていたのだろう。僕は特に訊ねもしなかったが、ようく見ると、伸彦の左の頬がちょっと赤くなっていて、祥子さんは不機嫌そうだった。やばい。これはマジなのだ。昨日の千秋さんとのこともあって、二人の間に何かあったのだということは想像できた。昔の僕(といってもそんなに昔ではないが)なら無邪気に「どうしたの?」などと聞いたはずだが、ここは、見て見ぬふりをするに限ると思った。もう、火に油を注ぐようなマネはしたくない。あとで、伸彦が話したくなった時に相談に乗ればいいのだ。人間は、やはり話したい時ってあるし、話せばすっきりするものなのだ。


 民宿に帰って朝食を済ませ、部屋にあがって出発の準備をしていた。友紀が伸彦の左頬に気づいた。

「おまえ、左のほっぺ、どうした?」

 僕は「しまった!」と思ったが、さっきからはもう随分時間も経っているし、ここには祥子さんもいないので、なりゆきにまかせることにした。伸彦はボソッと答えた。

「殴られた・・・」

「はァ?何それ?誰に?」

「祥子さんに」

「何で?」

 大園が横から口をはさみ笑いながらひやかした。

「襲ったんじゃねえの?」

 伸彦はちょっとムッとしたが気を取り直して話し始めた。

「ちがうよ。さっき牧場に行った時、祥子さんにいきなり腕を掴まれて牧場の裏に連れていかれたんだ。そこで、私達今日でお別れだからお別れのキスしてって言われたんだ」

 ああ、なるほど。祥子さんは美人だし、気も強そうだし、昨日からの二人の様子を見ているとあながち嘘ではなさそうだと僕は思った。

「それで?」

 友紀がうつむいている伸彦に促した。

「うん・・・だけど、俺には福岡に彼女がいるだろう?だからそう言って、俺にはそんなことはできん。と断ったんだ」

「ははあ、それで殴られた?」

「うん。平手だったけど、思いっきり。俺、油断もしていたから一メートルくらい飛ばされた。女に恥じをかかせる気?って言われて」

 ここは、笑っていいところかどうか迷ったが、いかにも純情で真っ直ぐで頑固者の伸彦らしくて結構笑えた。しかしそれをなんとか抑えていたのだが、友紀が先頭きって笑い出したためみんなつられて笑い出した。伸彦はふてくされてぶつぶつ言っていた。

 一息ついてから僕は思った。世の中にはたくさんの人がいて、みんなそれぞれに感情があって交差したり、ぶつかったり、平行線を走ったり。それで世の中成り立っているのかも知れない。別にそれは悪いことではなく、その中でみんな必死に自分の道を捜しているんだろう。そうやって生きていくのだろう。やがて、友紀が言い出した。

「伸彦はともかく、祥子さんの気持ちがあるからみんな素知らぬ顔して今まで通り平然と接するように。わかった?」

 もちろん僕もそうするつもりだったので異論はなかった。大園もうなずいていた。


 彼女たちと過ごした楽しい時間も、もう終わろうとしている。二日に満たないくらいの時間だったが、たくさんの出来事があって思い出深いものになった。僕らは出発を遅らせ、彼女たちのバスが出るのを見送ることにした。早めにバス停に行って、それぞれに名残を惜しみながらお別れの時を待っている。

 友紀と里美さんは、バス停前の一本道沿いにある木立の中で木にもたれて何か話しをしている。

 伸彦と祥子さんはバス停のベンチに隣あって座りお互いに押し黙っている。

 大園はバス停の近くに停めたバイクに跨って地図を覗き込んでいる。

 僕と千秋さんは一本道をぶらぶらと歩いている。

 やがてバスがやってきた。出発予定時間よりもちょっと早かったので運転手に尋ねてみると、ここで時間調整をするそうだ。出発は定時、つまり5分後だという。他の乗客は孫らしい小さな男の子を連れたおばあさんだけ。

 バスの前に集合した僕らはいつのまにか彼女たちと僕らがそれぞれ一列にならんで向かい合うような格好になっていた。お互いに握手をしてお別れを言った。そして、里美さんは友紀に、祥子さんは伸彦に、千秋さんは僕に「後で読んでね」と言いながら手紙をくれた。予期せぬ突然のことだったので僕らは戸惑った。

 バスの出る時間になった。

 入り口に近い里美さんからバスに乗り込もうとした。里美さんは目を真っ赤にして、友紀に言った。

「帰ったら、電話するからね。手紙書くからね」

 友紀も神妙な顔をしていたが、「待っている」と笑顔で言った。

 問題の祥子さんは、なんと、いきなり伸彦に抱きついてキスした。僕らも、バスの窓から外の様子を見ていた、孫の男の子も唖然とした。伸彦は何も言わず受け止めていた。そして、祥子さんは振り返りもせずに、さっさとバスに乗り込んでいった。

 千秋さんは、苦笑いしながら

「私の仲間ができちゃったみたい。今度は私が祥子の気持ちを聞いてあげる番かもしれないわね。貴志くんが聞いてくれたようにね。まあ、祥子は気が強いから大丈夫だろうけど。じゃあね貴志くん」

 そう言って歩きだした。2・3歩いてから振り返り、付け加えるように言った、

「もし、また私が愚痴りたい時は電話してもいい?」

 笑顔で聞く千秋さんに対して僕も笑顔で答えた。

「いいよ。いつでも。だけど、きっとうまくいくよ」

 千秋さんははにかみながら、指でバーンと鉄砲をうつような仕草をしてバスに乗り込んで行った。

 出発の時間はとうに過ぎていたのだが、バスの運転手は僕らの様子を見て何も言わずに待っていてくれた。彼女たちが席に座ってからバスは動きだした。窓越しに手を振る三人の様子が見えた。僕らも両手を大きく振り回した。やがてバスは小さくなって見えなくなった。

 

 僕らはまたまた、4人になった。そしてまた、大園が言った。


「さて、と。じゃあ、そろそろ行こうか」


 僕らの今日の予定は斜里町にあるというポテトを安くたらふく食える店に行くことと、知床の秘湯、カムイワッカの滝に行くことだった。泊まりは知床半島を横断したところにある羅臼の国設キャンプ場だ。あまりたいした距離ではないのでのんびりと走っていった。網走までの道は昨日千秋さんを乗せて走った道だ。ついさっき別れたばかりなのに、笑っている千秋さんや泣いている千秋さんの顔が思い出されて胸が熱くなった。みんなはどうなんだろう。里美さんや祥子さんを思い出しているのだろうか。バイクは黙々と走っていて、みんなの表情までは分からない。妙に寂しかったし、後ろ髪を引かれるような気もしたのだが、僕らは僕らの道を走らないといけない。北海道に来てから、僕らにはいくつもの出会いがあって別れがあって(それも短時間のうちに)それでもまた走り始めるのだ。

 やがて能取湖を越え、思い出の網走を過ぎ、もうひとつ湖を越えたところで斜里町に入ったようだ。広々とした平野でところどころ真っ直ぐな農道が走っている。ポテトの店はどこかの農家がやっているらしい。場所がよくわからなかったので、バイクを停めて案内本を開き、場所を調べた。幹線道路を外れ、農道に入ったところにあるようだった。なんとか場所を探し当て店の中に入った。店と言っても、そこは、昔の牛舎かなにかを利用したもので広々とした店内にテーブルが並べてあるだけのとてもおおらかなところだった。

 僕らはその頑丈そうな木でつくった大きなテーブルについて、ポテトセットを注文した。ポテトととれたてミルクで400円だった。どんなポテト料理なんだろう、ジャガバターみたいなものかなと話し合った。

 料理を待つ間、僕らは店内に貼ってある各地の観光情報を見たり、お土産ものを物色したりしていた。そうこうしているうちにポテトセットが出来上がったようで僕らのテーブルに運ばれてきた。見ると、その料理は、ジャガバターのように蒸し焼きにされたジャガイモをほぐして皿の上に山のように盛り上げられていた。驚くほどの量だった。僕らは顔を見合わせて、こんなに食えるのか?と迷った。しかし、今夜の夕食の予定は例によってカップラーメンなので、食える時に食っておこうと、覚悟を決めた。

 ポテト料理は、この牧場でつくった自家製のバターをつけるか、塩をかけて食べるというシンプルなものだった。でも、これがまたうまい。おまけに、セットになっているとれたてという牛乳が、これまたうまかった。今朝の牧場の牛乳とは違ってとても濃い味だった。本当かどうか、僕は知らないが牛の種類によって、薄味、濃い味と違うらしいよと友紀が言っていた。

 ポテトをバクバクと口の中に放り込み、苦しくなったところで、キューッと牛乳を一気飲みする。牛乳は飲み放題だったので何杯でもおかわりできた。

 食べ終わったころにはハァハァと肩で息するような状態だった。腹一杯どころか、腹二杯分くらいはあった。もう、何も食えん。大満足!これで400円は安い。


 それからまた僕らは走り始めた。目指すは知床の秘湯、カムイワッカの滝だ。

 僕は国道を走りながらついウトウトとしてしまった。というのも、夕べ僕は寝ていないのだ。そのうえ、さっきのポテトのおかげで腹が一杯だったので、抑えがたい眠気に襲われていた。何度も、ふらふらと対向車線にはみ出しては、後ろを走る友紀にクラクションを鳴らされ、ハッと気づいて元に戻る。そんなことが続いたので、大園が適当な場所にバイクを停めて一休みすることにした。心配そうに、友紀が聞いてきた。

「おまえ、大丈夫か?」

 正直、僕はヘロヘロだったのだが、心配はかけたくない。

「大丈夫だ。腹一杯だからちょっと眠くなっただけさ」

 思えば、一人で舞鶴まで走った時の方がもっと酷かった。殆ど飲まず食わずで一昼夜走り抜いたのだ。あの時は暑さも半端じゃなかった。今日はどちらかと言えば涼しいし、体力の消耗もずっと少ないはずだ。

「とにかくちょっと休んで行こう」

 大園が言い出した。

「この先、カムイワッカに行くには、途中、コーナーの連続する、長い砂利道があるから、コンディションが悪いと危ないぜ。対向車も多いし」

 砂利道はちょっと面倒だが、この前十分経験してコツもわかったことだし何とかなるさ。と僕は思い直した。


 一休みして出発した。


 しばらく行くとまた大園がバイクを停めた。周りには多くの車やバイクが停まっている。ここは何かの観光地なのかと思っていると、大園が説明してくれた。

「ほら、あれがオシンコシンの滝だよ。ここで、またしばらく休んでいこう」

 ここは、知床に向かって左手にオホーツク海が広がっている。右手は、ちょっとした山になっていてその奥に、二筋からなる幅広の滝があった。高さは、5・60メートルくらいかな。友紀が近くにあった案内板を見つけた。それによると、この滝は日本の滝100選にも選ばれているそうで、また、こんなに海の近くにある滝も全国的に珍しいそうだ。なるほどと思ってよく見ると、滝から落ちる水は今僕らがいる国道の下を通って海に注いでいる。

 ここでも僕に気を使ってもらって、一休みしてから出発した。


 宇登呂の町に入った。町の中には、アイヌの工芸品を扱うようなお店や、海の幸をうたい文句にした食堂が並んでいて、多くの観光客やライダーで賑わっていた。道を挟んで反対側の海岸には奇岩というのか、珍しい形をした岩が海岸から突き出している。僕らは走りながらそうした風景を目で楽しんで、カムイワッカの滝を目指した。

 しばらく行くと、いよいよ、砂利道に入ることになった。長さは11キロもあるそうだ。僕の体調は相変わらず悪かったが、まあ大丈夫だろうと思っていると、大園が、

「覚悟はいいか?ここはオンロードでは相当しんどいらしいからな。決して無理はするなよ」

とおどした。おかげで、友紀も僕もひきつった。“事故1号”の伸彦は笑っていた。事故1号のクセに、やはりオフ車は余裕があるのだろう。

「よおーし!行くぞー」

 大園が気合いを入れて先頭切って走り始めた。僕らも続く。自分で「決して無理はするな」と言っといて、大園は砂煙を盛大に巻き上げながらオニのように突き進んでいく。僕は内心、オイオイ、あんた、速すぎるよ。と言いたくなった。大園と伸彦は、次から次に迫ってくるコーナーをひらりひらりとクリアしていった。僕と友紀は慎重に走っていたので、前の二人はいつのまにか見えなくなっていた。それにしても、ここの砂利道は本当にしんどい道だった。アップダウンの激しいコーナーが連続するうえに、車のタイヤの轍が4本できていて、通れるところが極端に制約される。しかも、コーナーにはいっちょ前に傾斜がついているので、この場合には余計神経を使う。ときおりすれ違う4輪の対向車もやっかいだった。向こうの方が幅が広いし。ただ、前回の砂利道と違って、ここでは比較的4輪も慎重な運転をしてくれているので、多少の救いはあった。

 先の方で大園と伸彦が待っていた。

「ああ、ごめんごめん。もうちょっとゆっくり行こうか?」

 大園が聞いてきたので友紀が答えた。

「いや、別にいいよ。先に行ってて。俺たちはのんびり行くから」

「けど、こんな道だし何かあったら大変だから一緒に行こう。友紀くんと貴志くんは先を走って。俺と伸彦くんは後ろから行くから」

「うん。わかった。じゃあ、そうしよう」

 ということで、僕らは隊列を組み直して走り始めた。友紀が先頭を行くことになった。しかし、この道はいつまでたっても慣れそうにない道だった。コーナーが連続していることもあるし、その陰からいきなり4輪が飛び出してくることもあった。先の展開が読めないのだ。おまけに、僕は例の睡眠不足がたたってだんだんと注意力がなくなってきた。友紀の後ろ姿を追いかけて走っているのだが、その時、瞬間的に猛烈な眠気に襲われ、友紀の姿がぼんやりとフェードアウトしていった。次にふと目を開けた時には、4輪が目の前に迫っていた。相手の運転手の絶叫しているようすがスローモーションのようにはっきりとわかった。


「危ねー!」


 心の中で叫びながらも冷静に、逃げられるポイントを目で捜した。

 

 僕は転倒した。

 激しい痛みが全身を襲った。

 転ぶ瞬間までは憶えている。全てがスローモーションのように。その後は真っ暗な暗闇となって、どうなったのかわからない。

「一体、僕はどうなったんだろう・・」

一瞬頭が混乱したが、すぐに気がついた。

「ああ、僕は転んだんだ。みんなになんて言おうか?恥ずかしいな」

 僕は目をあけて辺りを見ると、みんなが血相変えて僕に駆け寄ってくる。近くには僕の愛車が転がっている。「あ、起こさなきゃ」と思って立ち上がりバイクを引きあげようとした。友紀が駆け寄りながら叫んだ。

「おまえ、大丈夫か!」

 続いて伸彦も叫んだ。

「バイクは俺たちが起こすから、お前はちょっと休め!」

 大園が僕をバイクから引き離し、路肩の草むらに座らせると真剣な顔で怒鳴った。

「けがはないか!」

 僕は恥ずかしさもあって、「嫌だなあ、みんな、そんなにどならなくても・・・大げさだよ」と思った。

 あの瞬間の様子をみんなから聞いた。それによると、僕はコーナーの前でまた例の調子でややふらついたそうだ。そこに運悪く対向車が現れた。両方ともそんなにスピードは出ていなかったし、まだ多少の距離はあったそうだが、みんなは「ぶつかる!」と思ったそうだ。ギリギリのところで僕は左側の路肩に逃げ込み、車もタイミングを合わせたかのように左ハンドルをきった(僕から見て右)ので衝突はしなかったが、僕はバランスを崩して転倒したものの見事なスライディングを決めたそうだ。

「びっくりしたぞ」

 大園が言った。いや、たしかに僕もびっくりした。もう少し運が悪ければ、言い訳なしに本当に終わりのはずだった。『バイク乗るなら死ぬのは覚悟』などと、昔いきがっていたが、そういうのはもうやめよう。シャレにならん。50の原付時代から何度となく事故にはあったが、今回ほど危なかったのは初めてだ。ちょっと落ち着くとまたいつものように怖さが込み上げてきた。とにかく、奇跡的に僕の体もバイクも致命傷はなくて、ちょっと傷がついただけだった。バイクはカウルとステップとハンドルの端っこ。僕の場合は左ひじの先と左のおしりに軽い擦り傷。衝撃の大部分を頑丈な皮のグローブが吸収したようだ。意識もだいたいずっとあったから、たぶん頭も大丈夫だろう。心配して様子を見に来た車の運転手とお互いにお詫びを言って別れた。

「さあ、これからどうしょうか?」と、友紀が言った。

「今日はもうカムイワッカは中止しよう。さっさとキャンプ場に行ってゆっくりしよう」と、伸彦が答えた。

「それがいいね。何も今日無理することはないさ」

 大園が同意した。僕はみんなに迷惑かけた元凶だったので黙っていた。みんなにわりィなあという気持ちがあった。とにかく、今日はここから引きあげることに決まった。 

やはり、眠気はあったが、腕とおしりの傷が痛くてちょうどいい具合に持ちこたえることができた。みんな慎重に走っていった。来た道を引き返し、途中から知床横断道路に乗って羅臼の町を目指した。

 羅臼の町の随分手前に目的のキャンプ場があった。そこは、谷あいの渓流沿いにあって、山の斜面を切り開いてつくられた国設のキャンプ場で、宿泊料などは無料だという。

 たくさんのテントが既に並んでいた。常連さんもいるようだ。僕らがテントを張ろうとした場所の隣のテントも常連さんのようで、随分まわりが散らかっている。どんな人なのか興味はあったが、留守のようだった。

「今日は、2張りたてよう」

 友紀が言った。4人もいるのだから当然だし、せっかく持ってきたのだから使ってみたくもあった。他の3人はせっせとキャンプの準備をしているのに、僕は手伝いをさせてもらえず、その横に座ってぼんやりとしていた。とりあえず傷の手当は終わっていたし、軽いけがだったので、みんなの好意には感謝しつつも、自分だけが取り残されたみたいで嫌だった。だけど、ここで僕が動き出すとまたみんなに気を使わせることになるだろうと思って黙って設営の様子を眺めていた。

 何もすることのない僕の関心は、自然と隣のテントに移っていた。それは、ふつうの黄色い三角テントで、サンダルとか、いつのか分からない新聞紙とか、七輪とかがテントの周りに雑然としていて、もう随分長いことここにいることを思わせた。「どんな人がここに“住んで”いるのだろう?」という僕の疑問は、ある意味自然な流れだろう。この散らかった様子からして、ひげもじゃで熊のようなおじさんがここで暮らしているに違いない。「悪いヤツじゃないといいけど」と思った。それにしても、ここの“住人”は一体どこに行っているのだろう。もうそろそろ日暮れなのに。

 やがて、僕らのテントがたちあがったので、早速ラーメンづくりを始めた。今日も随分寒い夜だったので、ぐつぐつと煮えるお湯がとても温かだった。湯気がぱあーっと立ち昇っている。「寒いから、いいのよね。暖かいのが」という千秋さんのセリフを思い出した。千秋さんたちは今、どうしているのだろう。そう言えば、別れ際にもらった手紙はまだ開いていない。あとで、ゆっくり読むことにしよう。

 ラーメンが出来上がった。寒いところで食う暖かいラーメンは、とてもうまかった。

 食後に僕らは再びお湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れた。缶コーヒー代はばかにならなかったし、北海道では、どこそこに自販機があるわけでもない。今まで気づかなかったのが不思議なくらいだったが、安いインスタントコーヒーでかまわないから、一瓶持って走れば充分コトが足りる。大園が言い出したので今日、途中のスーパーで買っておいたのだ。安物のコーヒーだったが、やはり寒いところでの温かいコーヒーはうまい。僕はコーヒーの湯気の立ち昇る方向を見上げた。そこには冷んやりとした空気の中で、しんとして静まり返る針葉樹の木立があった。薄明かりの残る夜空にとどけとばかり、背の高い黒いシルエットが浮かび、そのたもとに明々と灯るいくつものテントの灯りが、とても幻想的な雰囲気を醸し出している。これが僕の視界にある現実の風景だ。一息ついたので僕は千秋さんの手紙を読もうと思った。その時、伸彦がボソッと言い出した。

「ねえ、これ、どう思う?」

 既に伸彦は祥子さんの手紙を開いていたようだ。「え?どうした」という気持ちで僕ら三人は伸彦の差し出した手紙をのぞいた。そこには、大きな字でこう書いてあった。

『あんたなんかサイテー!』

 しかし、横の方に小さな字で『でも、電話くらいならかけてくれてもいいわよ』と書いてあった。

 僕ら三人は顔を見合わせた。そして笑った。美人で気の強そうな祥子さんらしい。友紀が笑いながら言った。

「伸彦のこと、やっぱり好きなんじゃない?ここは、男として逃げられんなあ」

 大園も笑いながら言った。

「あんな美人に惚れられてうらやましいよ」

 伸彦は困ったようなうれしいような複雑な顔をして頭をボリボリと掻いていた。そんな時、隣の住人らしい人が不意に現れて、僕らに「こんばんわ」と挨拶した。それは、本当に唐突な登場の仕方だった。僕ら4人ともびっくりした。その人はどこかひょうひょうとした感じで細身の人だった。手には、釣り竿とクーラーバックとヘルメットを持って、白いTシャツに膝の破れたGパンをはいている。バイク乗りらしかったが、ブーツではなくてサンダルをつっかけていた。「これは熊ではなくて仙人だ!」というのが僕の印象だった。長い髪を後ろで束ねて、顎ひげが50センチはありそうだ。その人は挨拶すると、自分のテントに荷物を降ろして言った。

「いやー晩ご飯のおかずを釣りに行っていましてね、今日はなかなか釣れずに、遅くなってしまいました」

 大園が驚いたように聞いた。

「釣り?」

 友紀も聞いた。

「おかずを釣るんですか?」

「ええ。道向こうの渓流のちょっと上流に行くと絶好のポイントがあるんです。ほら」

 その人はクーラーバッグの中から獲物を取り出して見せた。

「春先、雪解けの時分にここに来て、毎日釣りして暮らしているんです」

 そう言いながら、人なつっこい笑顔でわらった。

 僕らには信じられない話だった。富良野で出会った森田のはるかに上をいく。今回ばかりはうらやましさを通り越して正直あきれた。まるで、世捨て人ではないか?と思った。その人は、「ちょっと煙がすごいかもしれませんが」と先に謝ってから七輪に火を入れ川魚を焼き始めた。やがて、目に染みる七輪の煙に混じって魚の焼ける香ばしい匂いが漂い始めた。「みなさんもどうですか?」と勧めてくれた。うまそうではあったが、この人が今日一日一生懸命釣ってきた貴重な食糧をもらうのはさすがに気がひけた。友紀が、断りを入れた。

「すみません、でも僕らは今済ませたばかりですから。そうだよかったら、食後にコーヒーはどうですか?インスタントだけど」

 仙人さんはにこにこしながら「すみません。いただけますか?」と言って、僕らの方にやってきた。

 コーヒーをすすりながら話しているうちにその人の様子が分かってきた。なんでも、冬の間に働いて貯金して、雪解けと共にここに来て秋口までいるそうだ。「渡り鳥のようでしょう?」とその仙人さんは言っていた。もう随分長い年月をそうしてきたらしい。変な気負いも焦りもないその横顔は、それなりに幸せそうだ。普通の社会常識からはかなりはみ出した生き方だが、そういう生き方がこの人の道なんだと思った。

 普通の社会常識という一種の安全装置から外れて生きていくにはそれなりのリスクを伴うだろうということは僕にも分かる。現実に僕は普通に生きている同級生より2歩くらい遅れている。ならば、これからなんとかみんなに追いついて普通に生きていけばいいんだと思う反面、本当にそれでいいのか?おまえはそれで納得できるのか?という疑問も常にある。

 思えば僕は今まで、常識とか、世間体とか、親の顔色とか、そういったものに縛り付けられていて、だから縛り付けられること=社会常識に反発を感じ、プーをしているのだろう。そして、本当に大切なことを見つけたいと思っているし、見つけないと反発する意味がない。そう思うと、僕はにわかに緊張した。人のことではなく自分の人生のことだからだ。でも、ずっと長いあいだ僕の中で漠然と感じていたものを、やっと整理して考えることができたような気がする。


 みんなと話しながら賑やかに笑っていた仙人さんが、ふと僕の腕の傷に気がついて訊ねてきた。

「その傷、どうしたんですか?」

「ああ、これは、バイクで転んだんです。カムイワッカに行く途中で」

「ああ、あそこは道が悪いからオンロードでは大変だったでしょう。ちょっと、傷を見せて」

 仙人さんは僕の腕の傷を見て、「これくらいなら道向かいの温泉ですぐ治りますよ」と言った。僕は聞き返した。

「おんせん?」

「ええ、キャンプ場を降りて、国道に出るでしょう、すると、温泉の入口があるんです。そこの温泉は、テキメンに効きますよ」

 僕らはうかつにも温泉を見逃すところだった。と思ったのだが、よく考えると何も下調べしていない僕はともかく、そんな近くにある温泉を友紀や情報通の大園が知らないはずはなかった。恐らく、僕がけがのために入れないと思って黙っていてくれたのだろう。ともかく、その人が“効く”と言うのでみんなで行ってみることにした。

 内心僕はちょっとビビッていた。いくら傷に効くと言っても今日できたばかりの生傷をお湯に浸すのは危険な気がした。

 国道沿いに入口があった。そこから長い通路をさらに降りていったところにちょっとした建物が建っていて、そこが脱衣場だという。着ていた服を脱ぐと、夜だったので恐ろしく寒かった。みんなタオル一本のすっぽんぽん姿で、「さみー」と言いながら、丸い形の露天風呂に飛び込んだ。途端に、今度は「あちいー!」と言って湯船から飛び出した。仙人さんは湯船の前に立って笑っていた。この温泉の熱さを知っていて、結果が見えていて、それで、面白いからみんなには黙っていたのだろう。なかなかちゃめっけのある人だ。傷のために慎重に構えていた僕もみんなの様子を見て充分笑わせてもらった。

 それはそうと、そんなに熱いのに傷を浸して大丈夫なのだろうか?

 僕はそろりと温泉に手を入れてみた。確かに熱すぎる。もう一度入れてみた。やっぱり熱すぎる。うーん、これはやめといた方がいいかもと思っていると、熱さに慣れて、湯船に浸かっていた伸彦が、

「大丈夫やけん、おまえもさっさと入れ!」

 そう言って僕を引きずり込んだ。

 僕は飛び上がった。

 熱かったし、痛かった。

 その時僕の顔は苦痛にゆがみ、その眉間には深いしわが5本くらいはあっただろう。飛び上がって湯船から出ようとする僕はみんなからとり押さえられた。(フルチンで近寄るな!気持ち悪い!)

 仙人さんが「大丈夫だから」と何度も言って僕をなだめた。やがて、熱さには慣れてきたものの、傷には相当しみた。それでも、“効くならば”という思いもあったので我慢していた。おしりの傷は不自然な体勢だったが右手でカバーして、左ひじから先の傷は浸けたり浸けなかったりと忙しかった。のんびりと温泉を楽しむどころではなかった。

 温泉からあがってみると、なんとなく傷に効いたような気がした。でも、あの痛さはもう体験したくないと思った。やはり温泉は傷がない時の方が楽しめる。


 テントの前で僕は三杯目のコーヒーを入れた。夜空を見上げるといつの間にか晴れ上がっていて星々がまたたいていた。

 思えば今日はハードな一日だった。本当に色んなことがあった。ほとんど同じことを繰り返し、先の予測ができる普段の暮らしとは違って、何が起こるか想像もつかないハプニングの連続だった。

 コーヒーを一口すすった時、千秋さんの手紙のことを思い出した。なんだかんだでまだ読んでいなかった。僕は手紙を取りだし、ランタンを近くに寄せて読みはじめた。


『この手紙を開く時、貴志君はどこで何をしているのかな?そこからはどんな風景が見えますか?

言葉ではどうしても素直に言えなかったことを手紙に書きます。

あの時、貴志君が「何でそんなに冷たい言い方をするんだ」って本気で言ってくれたから、私も安心して本音を言えたのだと思うの。おかげで本当にすっきりしました。

だから、あらためて、ありがとうと言わせてください。

私たちはあと2日もすれば北海道を離れます。旅の終わりにきて一番の思い出ができました。貴志君は迷惑だったかも知れないけど・・・

ホントはね、あと2日、あなたたちに無理言って予定を変えてもらって、ずっと一緒にいようか?っていう話も私達の中では出ていたの。だけど、祥子と伸彦君のこともあるし、あなたたちも大変だろうからってやめました。私も、あと2日一緒にいたかったけどそうすると、本当に貴志君のこと好きになってしまいそうだった

あ、ごめんね、変なこと書いて。でもこれは私の正直な気持ちです。今まではね、私はアイツのことしか見てなくてとても視野がせまかったと思うの。だからこれからは、肩の力を抜いて、前向きに生きていくわ。貴志君、私に勇気をくれて本当にありがとう。

それでは、もうお別れにしましょう。

事故には気をつけてね』

 

 何というか、僕は胸があたたかくなった。手紙って結構いいものだな。やはり、面とむかって言いづらいことでも、手紙になら書けるものなのかもしれない。もし、あと二日一緒にいたら僕らはどうなったのだろうか?それはそれで面白かったかもしれない。ちょっと残念な気もした。

それにしても、最後の方の意味がいまひとつ良く分からなかった。つまり、今まで名古屋の男のことばかりを考えて思い詰めていた。だけどこれからは力を抜いて広い世界を歩いて行こうというのか?そこまではなんとなく分かるが、その先がわからない。とりようによっては、名古屋の男をあきらめるという意味にもとれる。僕はしばらく考え込んでしまった。そう言えば、僕が舞鶴まで一人で走った時、フェリーが出ないと聞かされて、もうどうしょうもないくらい途方に暮れていたのに、田口と出会ったことで、目の前がパーッと開けたような気がして、前向きに行動できた。今の千秋さんの気持ちは、あんな感じなのだろうか?あの時僕は田口氏に勇気をもらった。今度は僕が千秋さんに勇気をあげたのか?確信はもてないけれども、多分そんな感じなんだろう。だとすると、不思議な巡り合わせだ。

 思えば、網走川のほとりで土砂降りだった千秋さんのこころの風景は、今はどんな感じなのだろう。

 湯気のたちのぼる温かなコーヒーを一口飲んで、星々の輝きを見上げながら、僕は想像した。

完読御礼!

ありがとうございます。


例えおひとりでも、読んでいただけることは励みになります!

次章以降もどうぞよろしくお願いいたします。

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