第二章 憧れの大地へ
1980年代北海道ツーリング。
第二章です。
昭和風すぎて痛すぎるかもしれません。
でも当時はそんな空気感でした。
オヤジ世代の青春をご堪能ください。
第一章少年の日
第二章憧れの大地へ(今回はここの部分です)
第三章旅するものたち
第四章 こころの風景
第五章 風の吹く丘
第六章 瀬川千賀子
第七章 風の吹く丘で
最終章 あの暑い夏の陽に
第二章 憧れの大地へ
天空の高いところから夏の強烈な日差しが、容赦なく僕に照りつけている。肌が焼け、とめどもない汗がシャツを濡らしヘルメットの中を極めて不快にしている。山間部にもかかわらずアスファルトからの放射熱も僕をとけそうにしてくれる。
道に迷っていた。
「おかしいな、海沿いをずっと走るんじゃなかったのか?」
繰り返すが、僕は地図を持っていなかったし、道順も把握していなかった。そして、コンビニも携帯電話もない時代。標識には、見覚えのない地名が書いてある。僕はてっきり、9号を海沿いにずっと走っていけば舞鶴につくものとばかり思っていた。
道の両側の杉の木々が猛スピードで後方に吹っ飛んでいく。
焦りは募る一方だ。
前方の信号のむこうに三叉路がみえる。標識はない。まいった。どっちにすすめばいいのか。
その時、僕のバイクを追い抜いていった車が、三叉路の手前で、信号にひっかかって停まった。他に道を教えてくれそうな人も見あたらないので、その車の人に道を尋ねることにした。スモークシールド入りの外車だった。
声をかけると相手はめんどくさそうに窓をあけた。サングラスをしたおじさんが、「あっち」と、そっけなく教えてくれた。僕はお礼を言って、教えられた通りの道へ走り出した。
僕は疑いもせず、心も軽くバイクを走らせていった。
さっきよりも軽やかに杉の木立が後方へと流れていく。しかし、その杉の木立はだんだんとその幅を狭めて僕にせまってくる。ずいぶん走ったあたりで、ようやくおかしいなと思い始めた。道はいよいよ幅が狭くなり、林道のような感じになってきた。さすがに、これは絶対おかしいと思ったが、それを否定する材料もなく、仕方なく進んでいった。
やがて前方に、林業の人だろうか?青い軽トラックの前で作業をしているおじさんを見つけたので道を尋ねてみることにした。
「すみません」
おじさんは作業の手をとめ、こちらに振り向いた。
「舞鶴に行くにはこの道でいいですか?」
「はあ?舞鶴?」
「はい」
「あんた、全然ちがうよ」
「え?」
「これは、山にいく道だから・・・」
「でも・・・」
「とにかく今きた道を引き返して、突き当たりを左に曲がりなさい」
「ああ、さっきの三叉路のところですね」
「そう。それが9号だからそれで、福知山を目指して行きなさい」
「福知山・・・」
「そう。その後、綾部を目指して行きなさい。たぶんその方が分かりやすいから。綾部から舞鶴に行ける道があるよ。標識も出ているし」
「福知山に綾部・・・」
「そう。福知山から綾部、舞鶴」
「わかりました。どうも、ありがとうございました」
そう言って、僕はバイクを転回させ、おじさんにもう一度お礼を言おうと思った。
「あんた、九州から?・・・これからどこまで?」
「はい、舞鶴からフェリーに乗って北海道まで行こうかと・・・」
「ああ、そう。一人で?」
「はあ・・・」
「そりゃ、たいへんや、気をつけてな」
日に焼けた顔のおじさんは白い歯を見せて笑っていた。
「はあ・・・どうも」
「いいか、先ず福知山、そして綾部だぞ」
「はあ、わかりました。ありがとうございます。じゃ、どうも」
「気をつけてなあ」
僕はバイクを出発させた。
バックミラー越しに見える、麦藁帽子のおじさんは、手を振りながら僕を見送ってくれていた。親切なおじさんだと思った。さっきの車の人が意地悪して間違った道を教えたとは思わないが、大人にも、色んな人がいることを改めて知った。
真夏の太陽は、相変わらず容赦なく照りつけていた。
辺り一面を包み込むようなセミの大合唱も、暑さを一層感じさせる。
僕はパーキングエリアにバイクを停めて、脇の木陰に逃げ込んでいた。汗が噴き出す。シャツはずぶ濡れ。睡眠不足もたたっているようだ。体中に熱がこもっているようで、また、腹の調子もおかしい。肩がいたい。アクセルを握る右肩の一点が焦げるように痛む。もう、限界なのかと思った。ここはどの辺りなんだろう。もう福知山は通過したけど、綾部ってどこだ?ここから遠いのか?友紀も伸彦もここを走っていったのか?もう、20時間くらい走り続けているのか?何故、僕はここにいるんだ?そもそも目の前の風景は現実なのか?熱を帯びたアスファルトは、さかんに陽炎をあげている。その様子を眺めながら、ぼんやりと考えていた。一生縁もゆかりもなかったはずのこの場所で、一体僕は何をしているのだろう。何故ここにいるんだろう?一人で走り始めてから何回となく思ったことを、またむし返していた。
いかん。
僕は疲れている。
闇夜もそうだが、疲れている時もロクなことは考えないようだ。だったら、とにかく走らなきゃ。こんなところで負けるわけにはいかない。そう思って、疲れた体をひきずるように立ち上がり、バイクに跨った。とにかく、フェリーに乗り込めば、そこには、友紀と伸彦がいて寝床があるはずだ。その先に続く北の大地に、僕は行きたいのだ。走りさえすれば全てが解決する。そう思ってイグニッションをまわし、キックをかけた。
郊外の川沿いの道を順調に走っていた。
ダンプカーが2台連なって土埃を巻き上げながら猛烈な勢いで走ってくる。その土埃に巻き込まれて汗と埃でぼろぼろになった。しかし、僕の気分は高揚していた。道路標識によると、舞鶴がもう近そうだったからだ。緑色した鉄橋を渡った。やっと休める。二人にも会える。そう思うと、アクセルを握る手に思わず力が入った。
道の両側に建物が増えてきた。
片側一車線の何の変哲もない道をしばらく走っていくと、とうとう舞鶴の街に入ったようだ。左手には鉄道の線路が見える。その向こうには倉庫らしい建物が群をなして連なっていた。
さて、フェリーターミナルはどこだ?
大きな橋をわたり、トンネルをくぐると、市街地を過ぎてしまいそうだったので引き返してみた。来た道を引き返しながら、とにかく海沿いに出ようと思って、線路を越える跨線橋を渡り倉庫群の方に行った。すると、標識が出ていて、ターミナルが見つかった。
とにかく、ここにたどり着いた。
やっと救われたと思った。
ターミナルにある事務所らしい建物を見つけた。それは、周囲にある倉庫と似たような建物だった。
バイクを停めて、駆け込んだ。中には、長椅子がたくさん並べてある大きな待合室になっていて、その一角に窓口があった。
僕は先ず、待合室を見渡して、友紀と伸彦がいないか探した。どうもいないようだが、まあいい。とにかく今日のフェリーに乗りさえすれば、二人には会えるのだから。そう思って窓口に行って切符を買おうとした。
「今日のフェリーのチケットください」
窓口の係員が「え?」という怪訝な表情を見せた。ちょっと調子が狂ったが、そのまま続けた。
「小樽行き大人一名125のバイクです」
「あの、今日はここからは出ませんよ」
僕には状況が理解できなかった。僕らは、今日ここから出るフェリーに乗ろうという約束をしていたのだ。
「小樽行きはここと敦賀で隔日運航していて、今日は敦賀から出るんです」
この人は何を言っているんだろう?敦賀ってどこ?カクジツって何?フェリーっていうのは毎日同じところから出るんじゃないのか?
夏、北海道を目指す人はとても多く、このフェリーも予約さえなかなか取れないほどの人気がある。私の時代である現在は、きれいなターミナルとなっていて、しかも敦賀・舞鶴の港からそれぞれ毎日運行しているが、この当時はまだ両港交替での隔日運航だった。僕らは、そんなことも調べていなかった。
とにかく、この日ここからフェリーは出なかった。
睡魔と闘い、暑さを乗り越え、きつさを我慢してここまで走ってこられたのは、今日ここから出るはずのフェリーに乗り込むことだけが絶対の目標だったからだ。そこには二人の仲間がいて体をゆっくり横たえて休める寝床があると信じて疑わなかった。
僕を支えていた柱がすっと取り払われてゴロンと転がってしまった。
僕は途方に暮れた。
事務所を出て、適当な軒下を見つけてへたりこんだ。
さて、これからどうしょうか。フェリーは出ないし、仲間もいないし。
既に日は傾き、遠く海越しに見える山並みが夕日につつまれて輝いていた。
もう、何かをする気力も体力も残っていなかった。思考する力もなくなった。僕はへたりこんだまま、ぼんやりと山並みを眺めていた。
そんな時、僕の目の前を一台の赤いバイクが通り過ぎて行った。タンデムシートにテントひとつ、スポーツバッグひとつをくくりつけ、僕よりもはるかに軽装備だった。僕をチラッと見て、おじぎをするように軽く頭をさげて走り去って行った。
遠い山並みの様子を、軒下の日陰からぼんやりと眺めているうちに、けだるい空気が僕をうたた寝へと誘っていた。疲れも、汗も、ここまでくれば案外気持ちいいものだ。とにかく、「もう疲れた。このままここでやすみたい・・・」コンクリートの上にゴロンと横になった。ふだんは固いコンクリートもこの時ばかりは心地よかった。
「大丈夫っスか?」
どれくらいまどろんでいたのだろう。山並みは深いオレンジ色に包まれていた。不意に声をかけられたが、僕は一瞬頭が回らなくなっていた。
「大丈夫っスか?」
また、声をかけられた。声の主は僕をのぞきこむようにして尋ねていた。
「あ、はい・・・」
「いや、さっきここを通ったときは元気そうだったのにいきなり寝込んでいたから、どうかしたのかなと思って」
「あ、いや・・・ちょっと疲れていたものだから」
声の主はどうやらさっき通っていった赤いバイクのツアラーらしい。僕の頭がようやくまわりはじめた。親切にも心配してくれているようだ。
「今日のフェリーに乗って北海道に渡ろうと思って来たんですけど、今日、ここからは出ないらしいので、まいったなあと思って、とりあえず一休みしていたんですよ」
「僕も一緒です。ふたつの港から交替ででるなんて知らなかったから」
ふたりは顔を見合わせて苦笑いした。よかった僕だけではなかった。考えてみれば旅の計画をたてた友紀でさえあやしい。
「で、これからどうするんですか?」
赤いバイクの人がそう聞いてきたので、僕は正直に答えた。
「はあ、どうしましょうね。第一敦賀がどこかも知らないし、九州から徹夜で走ってきたんでもう限界だし・・・」
「僕は広島からなんスよ。敦賀っていうとあと100キロくらいあるでしょうね」
「100キロ・・・」
「ええ、今から行っても、もう時間的に切符を買えるかどうか分からないけど」
「あの、僕には連れがいるんです。まだ来てないみたいだから一人だけ切符を買っていいのか悪いのか」
「はぐれたんスか?」
「ええ。博多の街で、出発してすぐに」
「じゃあ、殆ど一人で?」
「僕も出発してすぐにはぐれるなんて全く思ってなかったし、地図も持ってないし、暑いしきついし、とにかく今日のここからのフェリーにさえ乗れればOKかなって思って走ってきたのに、今日は出ないって言うし、すっかりまいっちゃいましたよ」
初対面の人に気軽にぺらぺらとしゃべっている自分に気がついた。同じくフェリーに乗り損ねた仲間という意識もあったと思うが、やはり、バイク乗り同士は不思議な連帯感がある。これが、もし車での旅だったとすれば、こうした出会いはなかったと思う。
とにかく、僕たち初対面のふたりは、敦賀行きはあきらめて、どこかその辺の旅館にでも泊まろうということになった。本当に不思議なもので、ついさっきまで全く見ず知らずの他人同士だったのだが、ひとりでいるよりもずっと心づよい。これからどうするか考える余裕が全くなかった僕には、これからの方針が決まっただけでもありがたかった。また、これも不思議なことだが、一旦行動の予定を組み上げると、さっきまでどうしょうもないくらい落ち込んでいた自分が急に元気になった。
ふたりで相談して行動を決めた。
赤いバイクの人、田中は旅館を探しにいく。僕は念のため、友紀と伸彦の実家に電話して、二人からなにか伝言が入ってないかどうか聞いてみる。というものだった。僕は公衆電話を探して、友紀の家に電話した。
案の定、友紀は自分の実家に、僕とはぐれたこと、しかたなく引き返して一晩待ってみたが、何も連絡がないので、今日の朝早く舞鶴を目指して出発すること、そして、もし僕から連絡が入ったら、舞鶴のフェリーターミナルで待ち合わせよう、という伝言がしてあった。
「なんてこった・・・」
というか、なんてことはなかったのだ。ここに来るまでの間に一度でも友紀のアパートか実家に電話してみればよかったのだ。はぐれてすぐに僕も友紀のアパートに引き返してはみたのだが、入れ違いになっていたらしい。僕はてっきり二人が先に行っているとばかり思いこんで、とにかく二人に追いつこう追いつこうと思って追いつくはずもない道を一人で必死になって走っていたのだ。
「なんてこった・・・」
僕は、おかしくなった。おかしさをこらえきれずにとうとう笑い出してしまった。そそっかしさも度がすぎると思った。
とにかくこれで方針は決定した。
明日には二人がやってくるだろうから、今日はここでゆっくり休む。そして、明日ここから出るフェリーに乗って北海道を目指す!目の前が、パッと開けた、そんな感じがした。
遠くの山並みは、いよいよ最後の輝きを見せていた。
田中が見つけてきた旅館は、良い言い方をすると、とても風情のある旅館だった。素泊まりなら3000円でいいという。お互いに旅費をきりつめる旅なので、この安さは魅力的だ。荷物を部屋にあげて、僕らは夕食をとりに出かけた。昔ながらの建物であるその旅館の土間に腰掛けて、再びブーツをはいた。田中はサンダルをはいている。なるほど、サンダルを持ってきてれば、こんな時に楽ができる。ブーツのひもを結び終わると、ふたりで舞鶴の市街地を目指して歩き始めた。
その旅館はフェリーターミナルの近くで、国道に面している。通りをひとつ中に入ると、そこには、生活感の漂う町並みが広がっている。打ち水をしている家。昔ながらの構えのお店。僕らを追い越していく配達中の原付バイク。どこか温かくて、なつかしい。そんな風景がそこに広がっていた。今日は何かのお祭りがあるのだろうか?陽が落ちてやや涼しくなった町並みのあちこちに浴衣姿の女の子を見かける。
僕らは適当な食堂を見つけて入った。席に座ると、お冷やを持った丸顔の女の子が注文を取りにきて、「おいでやすぅー」と言った。
舞鶴は京都府なので京なまりは当たり前なのかも知れないが、生まれて初めて耳にする発音だった。そのイントネーションは、物腰がとても優しげで、疲れ切っていた僕の心にしんみりと染み入るような、そんな感じだった。これが、もし都心部の一流ホテルのレストランだったらどうなんだろう?おそらく、店員は標準語で訓練されていて、こんなに素朴でのんびりとした受け答えはしないんじゃないのかなんて考えてみた。九州のレストランでも九州弁まるだしのところなんて先ず見当たらない。
その食堂は、店の構えはきれいとはいえないが、僕はそのきれいな言葉が何よりのごちそうのように思えた。せつない程貧乏な旅の中にも、こうしたちょっとした、しかも素敵な発見はあるものだ。
僕たちは、風情のある旅館に戻った。
順番で風呂に入ろうということになり、僕はゆっくり入りたかったので田中に先を譲った。「俺はカラスの行水だから」という言葉通り、田中はすぐにあがってきて、僕と交替した。
僕は人一人やっと入れるくらいの小さな湯船に身を沈め、初めての長旅の疲れを癒した。浴槽は、間口は狭いが、深さがあってその分たっぷりと肩まで浸かることができた。開いている窓から吹き込んでくるわずかな風が浴室の蒸気を優しく払いのけ、ちょうど露天風呂のような感じでさわやかだ。
辺りはもう、暗くなっている。
裸電球が灯る浴室の、小さな浴槽の中でざぶざぶと顔を洗い、大きく一息つきながら、僕は自分なりに良くやったのだとしみじみ思った。楽しいはずの三人でのツーリングがちょっとした行き違いからソロツーリングとなり、途中、不安になることもしばしばあったけれども、とにかく無事にここまでやってこられたのだ。
風呂からあると、缶ビールをあけ、田中と乾杯した。
ビールはこんなにうまいものだったのか。
風情のある旅館のこれまた風情のある部屋で、寝る前にちょっとした飲み会になった。広島のこと、九州のこと、バイクのこと。そして北海道に渡ってからの予定などを二人で話しあった。つい数時間前まで全く見ず知らずの赤の他人同士がこうしているのも考えてみれば不思議なものだ。
何本目かのビールを飲み干した時、やはり疲れているので、猛烈な眠気が襲ってきた。その夜は、おそらく僕が生まれる何十年も前から数え切れないほど多くの人の寝顔を見守ってきたはずの、数々のしみのある天井を見上げながら、深い眠りについていった。
翌朝も快晴だった。
セミも元気いっぱい鳴いていた。
わりと早い時間からぐっすり眠れたので体調も良かった。昨日の疲れはまるで残っていない。今日こそ北海道に渡るのだと思うと心が躍った。朝はやくからその辺りを散歩し、そして時間をかけて十分な荷造りをした。田中に言わせると、このフェリーではバイクが真っ先に乗船できるので有利だが、それでも混み合うはずだから、船に乗り込んだら不必要な荷物はバイクにくくりつけたままにしておいて、取りあえず身の回りのものとか、貴重品だけをもって船室にダッシュして場所を確保した方がいい。とのことだった。僕も当然2等に乗るつもりだったので助言にしたがって荷造りを工夫した。当時のフェリーの2等は広間のような船室に雑魚寝をするものなので、結構過酷な場所取り競争があるそうだ。
僕らはフェリーターミナルに移動した。
軒下にバイクを停めて待合室に入った。料金表を見て運賃を確かめた。やはりこのフェリーは安いと思う。はるか北海道までゆくのに、片道2万円もかからないのだ。まだ窓口は開いていないので切符を買うことはできない。僕らは取りあえず切符を買うまでは、ここでひまつぶしをすることにした。夜の11時くらいの出航なのに、待合室にはもうぼちぼちお客さんが集まってきている。
ぶらぶらしていると、やがてお昼になった。ターミナルを出てすぐのところに弁当屋があったのを思い出し、買いに出かけた。黄色いひさしのついた弁当屋で弁当を買って帰ろうとした時、不意に、見覚えのある2台のバイクのシルエットが目にとびこんできた。
友紀と伸彦だ。間違いない。とうとう二人がやって来たのだ。
2台の方も僕を見つけて、近寄ってきた。僕の側までやって来たとき、友紀はにこにこしながら「やあ」といつもの調子で声をかけてきた。伸彦は、「おまえねー」と、なぜか怒っていた。
伸彦が怒っていた理由は、こういうことだ。はぐれたあとふたりの方も僕をさんざん探したそうだ。それでも見当たらないので、仕方なく友紀のアパートへ引き返し、僕からの連絡を待つことにした。しかし、いくら待っても連絡がない。事故にでもあったのかと心配して僕の自宅へも連絡してみたが、何も連絡がないという。そうこうしているうちに夜遅くなったので出発を翌朝に延期したそうだ。要するに「連絡のひとつくらいしろ!」というのが信彦の怒りの原因なのだ。性格が温厚な友紀は笑っていたが、心の中では多少そういう気持ちもあっただろう。しかし!だ。僕はてっきり二人において行かれたと思って、二人に追いつこう追いつこうとばかり考えていたし、現に、まあ、すれ違いではあったけれども僕も友紀のアパートに引き返してみたのだ。一方的に責められる覚えはない。
窓口が開いたので僕らは切符を買った。
安い2等に乗りたかったのだが、残念ながら2等はもう一人分しか空いていないとのことだったので、田中に譲った。僕らはなけなしの予算の中から1等の料金を支払った。1等船室は4人部屋になっているそうで、浴衣などの備品もあるという。予算にわりと余裕のある友紀は素直によろこんでいたが、本当にぎりぎりの予算しかない僕と伸彦は個室も浴衣も素直には喜べなかった。
「これでカニもイクラも消えたな」と、伸彦がつぶやいた。
「でも、ラーメン横丁はいけると思う」僕が希望をこめて、そうつぶやいた。
真夏の太陽は今日も容赦なく照りつけていた。
無事切符を手に入れた僕らは、このままただぶらぶらしていても退屈なので、敦賀方向へちょっと走りに行こうということになった。
僕は座っていた待合室の長椅子から立ちあがりブーツを履いてヘルメットを抱え外に出ようとした。
そのとき、一人の女の子とすれ違った。
白いワンピースを着ていて、中くらいのバッグを抱え待合室の中に入ってきた。どこか物憂げで、不思議な感じのする女の子だった。僕は立ち止まって振り返り、その子の行く先を目で追いかけていた。妙に気になる人だった。
「いくぞ!」
伸彦が声をかけてきた。みんなはもうバイクに跨っていた。
「あ、悪ィ」
僕もいそいでバイクに駆け寄った。
夜になった。
待合室は乗客で一杯になっていた。
僕らは待合室の外で、予定通り固形燃料でお湯をわかして、カップラーメンをすすっていた。昼間走りに出かけた時買ってきたラーメンだ。田中が、船内のレストランは高いらしいよと言うので、ついでに船内分のラーメンやお菓子なども仕入れておいた。隔日運航という肝心なことは知らなかったのに、変なことは妙に詳しい人だった。
ラーメンをすすりながら僕は昼間すれ違ったあの不思議な感じの女の子のことを考えていた。年は僕とおなじくらいだろう。おそらく同じフェリーに乗るのだろうが、待合室はとても混雑していて見つけられそうにない。いや、たとえ見つけたとしても僕には関係のない人なのだ。
出航の時間が近づいていた。
僕らはバイクの乗船位置についていた。百台はあるだろうか?こんなに多くのライダーが北の大地を目指しているのだ。
順序よく整列したその様子はまるでレースのスタート前のようだ。乗船を開始するというアナウンスとともに、そのスターティンググリッドに整列したライダーたちが一斉に愛車に火を入れた。
グオーン!
何発ものエンジンの爆音がこだまする!爆煙に包まれる!壮観な一瞬だ。
田中の情報通りバイクが先に乗船開始となった。一台一台スムーズに乗船する。全くの無言だが息の合ったラインダンスのように美しい。僕はフェリーに乗るのは初めてだったので無様な真似をしないように先行するバイクの様子をよく観察していた。おかげで僕もスムーズに乗船できた。
乗船してからが大変だった。過酷な場所取り合戦が始まっているらしく、みんな我さきにと船室にあがっていく。田中もダッシュしていた。僕もその雰囲気についつられたのか、田中に聞いていたせいなのか、ダッシュしていた。船室へ続く階段の途中で「あ、そうか1等だから関係ないんだ」と気づいたが後ろからどんどん続くので、押されるようにそのまま階段を駆け登った。
1等船室は4人部屋だった。僕と友紀と信彦の3人の他に、もう一人同室になった。同じくバイク乗りだったので僕らはすぐにうちとけた。やはり同じバイク乗り同士は会話がはずむ。
室内は2段ベッドが2組あって、窓際にはちょっとした居間がある。
備え付けの浴衣があったのでみんな早速着替えてみた。その姿をせっかくだからと記念撮影した。
こうして、僕らの船旅が始まった。
満天の星空だった。海も、月の光を受けて輝いていた。
手をのばせば届きそうな豪華な星空のもと、どこまでも続く夜の水平線の一点に煌々と灯りを灯した船が快調に進んでゆく。エンジンの振動音と波を切る音が心地よく響いている。
僕はデッキにあがって、潮風に包まれながら、天空の星々と輝く海、そして白い航跡が織りなす美しい風景に見とれていた。
思えば何もかもが初めての体験だった。
何もかもが新鮮だった。
ちょっとした行き違いから始まった一人旅。
くじけそうになる弱気にうち克ち、今、僕はこの場に立っている。そんなことをいろいろと考えていると、いつのまにか体中がべたべたしていた。やはり、潮風なのだ。さっさと風呂にでも入って寝ようと思った。ふと見あげると、もう一段上のデッキに人影があった。
それは、昼間すれ違った、あの少女だった。
僕の心臓がいきなり高鳴った。
潮風にその髪をなびかせ、月の光に照らされながら、遠くを見つめて何か考え事をしているようだった。何となく気になっていたが、どうすることもできなくて、意識の外に追い出していた人が今、僕の目の前に、しかもこんな近くにいる。僕は固まってしまったかのように、その子を見つめていた。そんな気配に気づいたのか、その子は僕の方をちらっと見て、やがてどこかへ行ってしまった。
部屋に戻ると、宴会が始まっていた。舷窓の横にある小さな居間で同室になった佐藤と、友紀に信彦、それに田中も加わって、賑やかにビールを空けていた。話題の中心はやはり北海道についてだった。みんなバイク乗りで、しかもみんな初めて北海道に渡る者たちだ。
憧れの大地、北海道。
テレビドラマを見てずっと憧れていたとか、キタキツネを捕まえてみたいとか、どこに行きたいとか、そこはこんな感じらしいよ、とか。酒の力もあってみんな上機嫌だった。その夜は遅くまで騒いでいた。
翌朝も快晴だった。空はいよいよ青く、海はどこまでも深い藍色だった。
果てしなく広がる水平線のただ中を僕らを乗せた船が快調に走ってゆく。波を切り、力強く進んでゆく船の旅もなかなかいいもので、思わず歓声をあげたくなる。
僕らは船の給湯設備でお湯をもらい、持ち込んできたカップラーメンで朝食を済ませて、船内をぶらぶらしてみた。
船内はちょっとしたホテルのように様々な施設がある。レストランはもちろん、ゲームセンターに映画館にアスレチックジムにプールまである。展望室はラウンジになっていて、ソファとテレビが置いてある。なるほど、これなら30時間をこえる船旅も退屈しないで済むかも知れない。
一通り見て回ってから、僕はデッキにあがった。日差しは相変わらず強烈だった。潮風もベタベタする。だけど、この風景の心地良さはどうだ!見渡すかぎりの海原はスカッとする。デッキには、多くの人があがっていて賑わっていた。なんとなくデッキの上をぶらぶらしていると、再び、いや、三度?あの子と出会ってしまった。その子は、てすりにもたれて海を見つめていた。
「どうしよう」
声をかけるべきか、かけずにそのままにしておくか?声をかけるには絶好のチャンスに思えた。僕の見たところ、この子は一人旅のはずだ。僕は迷った。緊張のあまり、胸の鼓動は高鳴り、冷や汗がでてきた。その子は、おもむろに振り返り僕と目が合った。まさに、緊張の極み。声をかけるには今しかない。これを逃すと二度とチャンスはありえない。(森崎のこともあるし)そんな気がした。よし!いくぞ!という覚悟を決めた。
「コ・・・コンチハ・・・」
僕は情けないくらい緊張して、情けない声を出した。恐らく、表情も情けない感じだったのだろう。その子はきょとんとしていた。やがて、いきなりプッと吹き出して、明るく笑った。その明るい笑い声に、僕は救われた。ちょっとリラックスできた。もし、この子が僕を無視してどっかへプイッと行ってしまったら、僕は空振り三振どころか、爆死もいいところだ。
その子は手すりにもたれて、笑いを必死にかみこらえていた。僕は次の言葉を必死になって探した。
「海が、きれいだね」と、僕言うと、その子はとうとうこらえきれずに大笑いした。
え?ここは笑うところなの?と僕は思ったが、その子の笑い声についつられて僕も笑い出した。
その子は、ようく見ると、とてもかわいらしい感じの顔をしていた。第一印象で綺麗な子だなとは思っていたが、こうして近くで見ると、随分印象が違う。瓜実顔だが頬がちょっと丸くなっていて、形のいい唇は薄い。はっきりとした目鼻立ちの中でも、瞳がちょっと大きくてクリクリしている。肌は抜けるように白くて、全体的に華奢な体格なので、壊れやすい人形のような感じだ。黙っていると、気の強いわがまま娘のように見えるが、こうして笑っていると、とてもいい感じの女の子だった。
「あなた、バイクに乗っている人よね?」
彼女がそう言った。
「ああ」
「ふーん。昨日、すれちがったでしょ」
気づいていてくれた。それだけで嬉しかった。
「お友達と、楽しそうだったね」
「ああ。三人できているんだ。九州から」
「九州?へえー九州はまだ行ったことないな」
「いいとこだよ、九州も」
「九州でも、よく走っているの?バイクで」
「うん。阿蘇、雲仙、天草、別府、鹿児島・・・大体行ったかな」
「みんなで?」
「うん。今回は三人だけど、地元には仲間がたくさんいるから」
「あ、君もバイク好きなの?」
「・・・好きっていうか・・・」
その子は急に表情を曇らせた。すれ違った時に見せた、あの物憂げな表情だ。その意味を僕はどう捉えていいのかわからなかった。だから、話題を変えようと思った。
「北海道に渡ったらどこにいくつもり?」
「あ、えーっとね。先ずは札幌かな、それから函館に行って、富良野・・・」
「いいねえ、やっぱり外せないところだね。やっぱり、あれ?テレビドラマの影響?」
「・・・そう、ね」
その子は海の方へ振り返り遠くを見つめながら答えた。何か事情があるのは分かった。それは何なのか?後から思うと、親切心と言うよりも子供じみた好奇心が湧かないわけではなかった。
「海っていいよね・・・」
しばらく沈黙したあと、その子は海を見つめながらぽつりと言った。長い髪が風に流され、ふわっと浮き上がった。そんな後ろ姿を眺めながら僕は黙ってうなずいた。
「こんなに広々としていると、自分なんかちっぽけな存在だなって思っちゃう。いやなことなんか全部洗い流してくれないかなあ・・・」
「はあ?」
僕は思わず素っ頓狂な声をあげた。何それ?まさか僕のこと?
「あ、ごめんごめん・・・変だね、私」
その子は僕の方を振り向き、しかしうつむいてそう言った。察するに、この子は失恋でもしたんだろうか?だから、一人旅に出て気分を紛らわそうとしているのか?だとしたら、僕はどういう態度で接すればいいのか?不思議とあれこれ頭が回転した。この前、森崎の事を思い出し、それで、僕自身が“失恋”というものに痛みを感じていたのだろう。だから、なんとかこの子を励ましてやりたかったのかも知れないし、子供じみた好奇心が親切心のお面をかぶって発露したのかも知れない。その境界線はわからないが、ともかく、こんな時はばかでも何でもやってみるのが一番いいと思った。
「昔からドラマなんかでよくあるだろ?そんな時は海を見て叫ぶんだよ」
「はあ?」
その子は僕を見つめてそう言った。
その顔にはちょっと笑顔が戻っていて、次のリアクションを期待するような甘えた目で僕を見ていた。「よしここだ!」と思った。このまま突っ走ってやるぞ。
「海のばかやろー!」
僕はなりふりかまわず絶叫した。
周りの乗客が驚いて僕らに振り返った。 その子は笑いながら言った。
「やめてよ、みんな見てるよ」
「ばかやろー!ばかやろーばかやろー」
ここまで来たら、もう何でもアリだ。僕は手すりに乗り上げて拳を突き上げながら何度も叫んだ。
彼女は明るい笑顔で笑いながらも、困ったような仕草で僕をなだめていた。
僕の行動は、自分でも不思議なものだった。人のためにこんなばかをやるなんて、それまでの僕にはなかったことだから。
周りの乗客もクスクスと笑っていた。
それから僕らは一緒に映画を観たり、ゲーセンに行ったり、食事をおごらされたりして過ごした。ちょっとしたデートのようだった。退屈するかなあと思っていた船内の長い時間が楽しいひとときに変わり、あっという間に過ぎていった。
夜になって、その別れ際に、彼女は「またね」と言った。
「しまった、名前、聞き忘れた」
不思議と僕も名乗らなかったし、彼女の名前も聞いていなかった。まあ、いいか。明日の上陸まではまだ時間がたっぷりある。また、会えるさ。と思った。
船室に戻ると、また宴会が始まっていた。
しかも人数が増えている。田中が船内で知り合ったバイク乗りを連れてきていた。人口密度が高かったが、僕も間に割り込んだ。みんなでトランプをしながら、また遅くまでさわいで、気持ちよく眠った。
さあ、明日はいよいよ北海道だ!
完読御礼!
ありがとうございました。
一人でも読んでいただける方がおられましたら、次の章以降も順次アップしていきます。
どうぞよろしくお願いいたします。